2話 プライベートサロン
突然頭上から降ってきた水に、アマリエは目を見開いた。
それはバケツ一杯程度の水だったが、彼女の半身を濡らした。
「早く辞退しなさいよ身の程知らず!」
頭上から女の子の声がする。くすくすと笑う複数の声がして、立ち去る足音が慌ただしく聞こえた。早くと急かされているのは言わずもがな、皇太子との婚約の話だろう。
――できるなら、とっくにしてるわ。
アマリエはゆっくりした動きで濡れた髪をまとめて、水気を絞った。煉瓦の足元に水が落ちていく。
一年ほど前、アマリエは皇太子から婚約を申し込まれた。
前の婚約が破談になった時、たまたま一緒にいたのがアマリエだったから。ちょうど王家がグリーヴァンス家との縁を考えており、グリーヴァンス家が元々権力を欲しがる家だったから。
だから、とんとん拍子に婚約話が進み、本当に婚約することになってしまった、とアマリエは思っている。
――私だって、不相応なことぐらいわかっている。でも、私の意思でどうこうできる話じゃなくなってしまったんだもの。
スカートの裾をまとめて絞る。服が浴びた水の量はそこまで多くはなく、初夏の今なら、少し乾かせば誤魔化せそうだった。
――東屋で時間を潰せば、なんとかなりそう。
ローグヴァルトとの待ち合わせまで、まだ時間はあった。
髪を乾かすために、タオルを借りに行きたいが、今の姿のまま学院内をうろつくわけにはいかない。
――見つかる前に、早く移動しないと。
「アマリエ?」
聞き慣れた低い声に、アマリエの心臓は飛び上がった。
手を引かれて、強引に歩かされる。
「殿下! お待ちください!」
護衛の青年も後ろから静止の声を掛けるが、ローグヴァルトは止まらない。
皇族用のサロンに着いた彼は、中にアマリエを押し込むと短く命じた。
「誰も入れるな」
音を立てて、重厚な扉が閉められた。
――怒られる。
サロンに押し込められたアマリエは身をすくませてローグヴァルトの説教を待った。けれど彼はアマリエを素通りして部屋の奥へ向かっていく。戻ってきた時に手にしていたのは、大きなバスローブとバスタオルだった。
「衝立の裏で着替えろ」
ぶっきらぼうにバスローブを突き出されて、アマリエは戸惑う。いつまでも受け取ろうとしない彼女にローグヴァルトは苛立ちを募らせた。
「俺が脱がせてやってもいいが」
奪うようにアマリエがバスローブを受け取った。駆け足で衝立の向こうに逃げていく。その後ろ姿を見送って、ローグヴァルトは苦笑した。
「着替え、ました」
しばらくの後、ぶかぶかのバスローブを着てアマリエが出て来た。ローグヴァルトに合わせて用意されていたそのバスローブはアマリエには長く、裾を引きずりそうになっていた。胸元も大きく開いていて、必死に両手で押さえている。
「制服はどうした」
「つ、衝立の向こうに掛けてます」
「なら、いいか。次はこちらだ」
ぽんと、ローグヴァルトは自分が座るソファーの隣を叩いた。座れ、という指示に嫌な予感を抱きつつ、アマリエは従う。アマリエが座ると、頭上からバスタオルをかぶせられた。覚えのある柔らかい高級タオルの感触にアマリエは震えた。
――パトリシア様だけじゃなく、皇太子にまで頭を拭かせるだなんて!
皇族二人にそんなことをさせる貴族令嬢がどこにいるのか、とアマリエは自分の不甲斐なさを嘆く。
「じ、自分でできます!」
「じっとしていろ」
抵抗を試みたが、低い声に気圧されて、アマリエは結局されるがままになる。タオル越しに頭を撫でるローグヴァルトの手つきは優しかった。心地よさに少女は目を閉じる。
どれだけそうしていただろう。心地よさに呆けていたアマリエは、手が頭から移動したことに気づかなかった。力をこめて抱きしめられて、息を呑む。背中全部に、ローグヴァルトを感じた。
「貴女は、俺の忍耐をなんだと思っているんだろうな」
タオル越しに、怒りの混じったローグヴァルトの低い声を感じる。アマリエの視界はほとんど白いタオルで覆われていて、状況を把握することができない。心臓がうるさい。
「俺が貴女をどんな気持ちで見ているか、少しは考えてくれ」
タオルの隙間から、ローグヴァルトは白いうなじに口づけた。触れたまま、唇でその細さを愛でる。
「っぁ!」
今まで触れられたことのない場所への熱い感触にアマリエの体が動いた。自分の体に、そんな敏感な場所があるなんて彼女は知らなかった。逃げようとする少女の体にはしっかりと二本の腕が回されていて、指一本分も彼の体から離れることはできない。
口から零れた嬌声が恥ずかしすぎてアマリエは口元を抑える。その両手を、ローグヴァルトの手が絡めとった。指と指の間にアマリエの細腕を捉え、口を露出させる。両腕で抵抗しても、ローグヴァルトの右手は全く崩れなかった。
「アマリエ。俺は、いつまで我慢すればいい」
タオル越しに甘く囁かれて、アマリエは息もできなくなる。頭がのぼせそうだった。
「でん、か……」
震えながら呼びかければ、大きなため息がタオル越しに聞こえた。
「貴女は、いつになっても俺の名前も呼ばない」
再びうなじに口づけられて、少女は震えた。零れそうになる声を、今度は耐える。
「少し、俺も意地の悪いことをしてみるか」
その言葉と同時に、バスタオルが取り払われる。
広がった視界に今度はローグヴァルトが間近に居て、アマリエは息を呑んだ。
「呼んでみろ。今、ここで」
意地の悪い命令に少女は顔を真っ赤にして震える。小さく首を振ると、ローグヴァルトは真顔で返した。
「呼ぶまで、今日は帰さない」
――むり。絶対無理。
少女が合格をもらうまで、鐘一つ分の時間がかかった。
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