1話 馬車
「アマリエ」
馬車の中で、彼は婚約者の名前を呼ぶ。膝の上に乗せ、肩に顔を寄せ、利き手を彼女の赤毛に絡ませながら腕の中にいる婚約者を愛でる。
その寵愛を、何度受けてもアマリエは慣れない。
ふと、彼が頭を起こした。黒い頭が離れていく。紅い瞳が彼女の緑の瞳を覗き込む。
――あ、来る。
覚えてしまったその予感に、彼女は身を震わせる。
――これを、当たり前だと思ってはいけない。当然だと思ってはいけない。私は、たまたま、婚約者になってしまっただけ。
紅い瞳が伏せられる。顔が近づいてくる。吐息が、唇にかかる。
――この愛に、溺れてはいけない。私は、代役の婚約者なんだから。
***
馬車の中で少年少女が向かい合って座っている。
少年の名前はローグヴァルト・グランディヴェル。この皇国の皇太子であり、次の皇帝になる男。黒髪に鋭い紅目を持つ彼は黒鷲と呼ばれていた。
少女の名前はアマリエ・グリーヴァンス。ローグヴァルトの婚約者であり、癖の強い赤毛と緑の目をもつ少女。
捨てられた猫のように生きていたアマリエが、皇女パトリシアに拾われたのは一年前のこと。彼女の手によってアマリエは容姿も立場も整えられ、皇太子の婚約者へと引き上げられた。
おかげで屋敷の物置生活をしていた少女の生活は激変した。役立たずと罵っていた家族の態度も変わった。学院ではまだ彼女を認めない声もあるが、生徒達の対応も変わってきている。
――もう十分すぎるものをもらった。これ以上は、返しきれない。
両手を握りしめる彼女の白い制服は、裾が埃で汚れていた。いくつか靴跡も残っているのが見える。
「またか」
ローグヴァルトが機嫌の悪い声をだすとアマリエは肩をびくつかせた。怯えながらちらちらと様子を伺う視線に、彼は眉間の皺をさらに深める。
「これで何日連続だ? 姉上が卒業してから、やつら調子にのりすぎだろう」
「すみません……」
いらつくローグヴァルトにアマリエが消えそうな声で謝る。それはさらにローグヴァルトにため息をつかせた。
「貴女が謝る話ではない。いい加減、俺も介入させてくれ」
「だ、だめです。これは、私が解決しないと……パトリシア様との約束です」
相変わらず頑固な婚約者にローグヴァルトは何度目か分からないため息をつく。
彼の姉である皇女パトリシアはこの春、学院を卒業し、公爵家に降嫁した。彼女は自分が卒業する時、なにかの課題をアマリエに出したらしい。学院で酷くなるいじめに、アマリエは一人立ち向かっていた。
――どうすれば、彼女の優秀さが伝わる。
それは、彼女と婚約してからローグヴァルトを悩ませている問題だった。
彼女はとても頭がいい。空気も読める。昔、グリーヴァンスの才女と噂されていたのは伊達ではなかった。国内貴族の細かい特徴まで覚えていて、薄暗い夜の舞踏会に連れて行っても、次に挨拶を待っている者の名をすぐ言い当てる。人の顔を覚えるのが苦手なローグヴァルトには、彼女はもう失えない右腕になっていた。
だがここ数年はその引っ込み思案な性格が邪魔をして、彼女の優秀さは影を潜めていた。替わりとばかりに優秀さを表した兄と比べられて、グリーヴァンスのだめな方、なんて不名誉なあだ名までつけられる始末。
もともと友人がいなかったアマリエは婚約発表後、令嬢達からわかりやすく嫉妬を受けていた。手助けをしたいのに彼女は一切援護をさせないから、ローグヴァルトは歯痒い思いを抱いている。
俯いたままの婚約者をローグヴァルトは見つめる。自信不足で常に俯いて行動するその癖が、嫉妬する令嬢達を調子づかせていることは明らかだった。
――確かに、最初は優秀さで選んだ。今は違う。
顔を合わせた当初は彼女は常にびくびくしていた。それがだんだんと、隣を歩くようになって。少しずつ、視線が合う時間が増えた。触れても、逃げなくなった。誘えば、膝に乗るようになり、今では唇だって委ねてくる。
拾った猫が、心を許して懐いてくるのは、想像以上の愛おしさを彼に与えた。
こんなに愛おしい彼女を理解しない周囲に苛立ちながら、頭のどこかでそれでいいと彼は思っている。彼女の愛おしさを知っているのは、自分だけでいい、と。
「……見るに堪えなくなったら、割り込むぞ」
そんなことを話しているうちに、馬車は郊外へ続く道を進んでいた。
アマリエの家は郊外にあり、到着まで少し時間がかかる。その道中は人気のない草原が続く。
「アマリエ」
皇太子が婚約者を呼んだ。同時に手を差し出している。
アマリエは困った顔をしていた。
もう習慣と化してしまったそれを、アマリエはまだ受け入れきれていない。そもそも自分が皇太子の婚約者になったこと自体、彼女は納得できていなかった。
すぐに彼女は動かない。それでも辛抱強く彼は待った。
やがておずおずと重ねられた手を、ローグヴァルトはきつく握りしめる。ゆっくりと引き寄せて彼は彼女を自身の膝の上に乗せた。
身体を硬くして俯く少女の頬に手を這わせて上を向かせる。既に彼は少女の腰にも手を回していた。
膝に乗せてもまだ低い位置にある唇に、彼は上からかぶりつく。
びくりと、少女の身体が跳ねた。
一文字に閉じられた唇の上を、彼の熱い舌がなぞる。頬に添えられていた手は移動して耳たぶを優しく撫でていた。
アマリエの身体を、形容しがたいなにかが駆け巡っていく。
「……アマリエ」
一向に誘いに乗らない婚約者に、ローグヴァルトが少し不満げな声を出した。
熱い吐息を感じながら、アマリエは必死に紅い視線から逃げる。
「こ、こういうのは、やっぱり良くないと、思います」
「今更だな。口付け程度、最近では普通だろう」
それは最初にも使われた言い訳だった。
その真偽も確かめないまま、彼の誘いに乗ったことをアマリエは深く後悔している。
少女の腰に回された手に力が籠もった。
「アマリエ」
低く、彼は名前を呼ぶ。とっくに声変わりの済んだその声が少女の脳を揺らす。
「俺を受け入れてくれ」
それは、懇願の形をした命令。
――私のほうが、一つ年上なのに。
すっかり主導権を握られていることが彼女は悔しい。
これ以上のものは望まない、とアマリエは強く思う。
――だからこんなこと、本当はだめなのに。
必死に言い訳を探すがうまい言葉は見つからない。そもそも皇太子様の命令に気弱なアマリエが叶うはずもなく。
小さく唇を開けば、優しく舌をねじ込まれた。歯列をなぞられ舌を絡め取られると、もう彼女の身体は言うことを聞かなくなる。
舌の柔らかさも、口の中を晒す羞恥も、彼に教えられた。彼しか知らない場所が、増えていく。
呼吸がままならなくて、アマリエは彼の制服を掴んだ。苦しさを逃がすため、必死に握る。けれどそれはローグヴァルトを煽る結果になった。
彼はより彼女を抱き寄せて、深い所の味を確かめていく。
――溶か、される。
ローグヴァルトが満足するまで貪り尽せば、そこに残ったのは身体も瞳もとろけきった婚約者だった。
深い森の瞳は涙に滲んで、唇には零れた唾液で潤んでいる。
自分だけを映すその瞳に、劣情が煽られるのを感じながらローグヴァルトは満足そうに笑った。
「かわいいな、アマリエ」
――これ以上、望んじゃだめなのに。
歪んだ視界の中でも、ローグヴァルトの紅い目はすぐわかる。
普段、彼女がその鋭い目を見つめ返すことはない。見られているとはわかっていても、どうしても逃げてしまう。
今だけ、と理由を付けて、彼女はその紅に見惚れる。その視線に籠った熱を、全身で浴びる。
――私、もっと、って思ってる。
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