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10. 二人の命と大嫌いな肉


 身体が溶けていく。

 手も足も、耳も鼻も口も喉も臓物も全て溶けていく。

 生きる気力も、抗う心さえも。

 私という存在が溶かされて、誰かの元へと吸い寄せられていく。

 このままの勢いでは、余さず残さず食べ尽くされる。


「……良い。美味だった」


 どすん、と身体が落ちる。

 途端に首元から熱が帯びていく。溶かされた身体が段々と戻っていく。感覚も、意識も、奪われたもの全てが私の元へと帰ってくる。


 だが、戻ってきた身体は少しだけ何かが違った。

 

「此度の食事は良かった。感謝するぞ」


 男の声が煩く耳の中で響く。

 その感謝は誰に向けてなのかよく分からない。これまでの記憶もだいぶ希薄だ。

 

「小娘よ。我は余り腹が空いてはおらぬが故にその血は全て飲まずにおいた。運が良ければ生き残ることもあろう」


 冷たい声が脳髄を揺さぶる。

 生き残る、とは何か。そもそも私は死ぬ間際なのか。血を吸うとは何か。その声の主は誰なのか。

 湧き出る疑問が頭を駆け巡っていく。


「生きたいので有れば血を啜り、肉を食らえ。そうせねば貴様は程なくして死ぬ。己の本能に従い、自然の摂理に抗って見せよ。我を殺そうと言うのならば人間を超えて見せよ。

 貴様は今、生まれ変わろうとしている」


 言葉の意味が分からない。

 私は肉が嫌いだ。あのぐちょぐちょを、赤の地に塗れた汚い物体を口に入れるなんてもっての外だ。

 それを食べるくらいなら死んだほうがマシだ。


「────────ぁ、ぅぁ」

「テン……! 無事なのね!」


 拒絶を言葉にできない。

 せっかく戻ってきた口に何かがこびりついている。それが邪魔になって、舌がうまく回ってくれない。


「……ああ、テン。大丈夫よ。お母さんがついてるわ」


 暗闇の中で暖かみを感じる。

 身体に何かが重くのしかかると同時に誰かの鼓動が聞こえてくる。どくん、どくんと私の心臓と同じリズムを刻んでいく。

 どこか懐かしい感覚だ。生まれてからずっと、この暖かみに支え続けられていた気がする。


「……ぉ、かぁ……さん?」


 辛うじてその名を呼ぶ。

 瞬間、一層暖かみが増していく。苦しいくらいに身体を抱きしめられて、呼吸がうまくいかないくらい。 

 でも、それが何故か心地よかった。

 生憎、感謝しようにも今の私の口は動かない。だから同じようにその暖かさを抱きしめよう。

 

「良かった…… 本当に、生きていてくれてて」


 目の前から聞こえるその声は震えていた。

 胸に滴る熱い液体。その熱が、私の身体全体を更に暖めてくれる。


「……ふん。後は好きにしろ、人間」


 ばさ、とマントを翻す音と共に、冷たい誰かの存在は一瞬で消えていく。

 その瞬間、私の目の前の暗闇は光を帯び始めていった。


「目を開けられたのね……!」


 目の前にいる母の顔が綻んでいく。

 その眼には一筋の光が溢れていて、その笑顔がより一層に映えて見える。

 

 しかしその顔には、


「…………血?」

「ああ、これのことね。大丈夫、そんなに痛くはないわ」


 母は鼻の下を指でさすり、その赤の液体を拭う。

 ぽたぽたと指先から垂れていくその雫を見たその時、身体の奥から何かが湧き上がってくるのを感じた。骨が、筋肉が、内臓が、脳髄が、これまで以上に熱を帯びていく。

 これまで動かなかった身体が、何かの欲求に駆られてその活動を始めていく。


 その感覚が段々と怖くなっていって────


「────おぇっ、はっ、ぁっ……!」


 思わず私は拒絶して嗚咽を漏らす。

 身体は何かを求めている。でも()()は私が一番求めていないものなはずだ。それを一度喰らえば、この身体は私のものじゃなくなる。


 何か、大事なものを捨て去ってしまう気がする。


「嫌…… ダメ、私は────」

「どうしたの! どこか痛むの!?」


 頭を抱える私を、『お母さん』は必死に心配してくれる。身体を摩ってくれたり、額に手を当ててくれたり。

 その触ってくれた手の温もりで、少しだけ自分を取り戻した気がした。

 

「────っ、はぁ、はぁ…… 大丈夫」

「良かった、持ち直したのね」


 私の声で安心したのか、安堵の声が聞こえてくる。

 しかしその実、身体の中の欲は収まっていない。

 少し気を抜けばすぐに私は欲に塗れてしまう。それだけはダメだ。私は()()を食べることなんてできない。


 獣のような呼吸がいつまでも続く。肩で息をして、溢れ出す身体を必死に押さえ込む。

 細糸で辛うじて繋がれているその欲は、何かのきっかけでいつかはぷつんと切れてしまうだろう。


 それでも、今この瞬間に切らすのだけは嫌だった。


「ねえ、ちょっとだけ横にならない? テンも疲れたでしょ」

「……うん。疲れた」


 母の言葉に対して思わず嘘をついてしまう。

 本当は疲れていない。むしろ感じたことのないほどの強大な力が身体中を循環している。今すぐに()()飛びつこうと思えばできてしまう。

 

 でも、それだけはできない。せめて横になればその欲も収まってくれるのではないか、という一縷の望みにかけるしかなかった。


「……先に寝るね。お母さん、ちょっと疲れ過ぎちゃったみたい」


 柔かな表情を浮かべながら、母は台所の床へと寝そべる。外の砂が入ってきていて酷く汚れた地面にも関わらずに力なく横たわる。


 そして、目の前には、


「血────────」


 鮮血が広がっていた。

 下半身を潰された母の胴元から今も流れ出るそれは、私の身体を勢いよく朱に染めていく。


 舞い上がる血生臭い肉の香り。

 刹那、胸の動悸が強まっていく。


「…………ダメ、だって」


 身体は渇望していた。

 乾き切った喉が求めている。空き切った腹が求めている。


 それを。その液体を。その肉を。


「……ぁ、ああ。嫌、なの」


 身体を掻き毟る。爪を立てて、痛みを与えて警告する。

 それはいけない事。食べてはならないもの。

 そもそも私はそれが大嫌いで────────


「────────は」


 ふと、口元を拭う。

 そこには粘り気のある透明な液体。

 あろうことかそれは、どろどろと際限なく口から流れ出てくる。拭っても拭っても、身体は出し続ける。

 涎が流れることは、身体が本能で求めていること。


 『早く喰わせろ』と身体の奥から囁きが漏れ出す。


「食べたくない! 嫌なの! 私は血も肉も大嫌いなの!」


 涙が溢れる。

 自分への怒り。欲求に対する葛藤。

 どれだけ食欲が膨れ上がっても母を食べようとは思えない。

 それは人間の所業ではない。あの吸血鬼と同じだ。残虐に人を喰らい、人は餌だと言い張る奴らを肯定することとなる。

 

『貴様は今、生まれ変わろうとしている』


 あの男の言葉が頭に響く。

 ふざけるな。私は人間だ。吸血鬼の僕なんかにはならない。


 どれだけの辛さを背負おうとも、私は人間としてこの命を────────



「────────テン。おいで」



 優しい母の声が耳に届く。

 見ると、うつ伏せの母は私に向かって手招きをしていた。


 蒼白になった顔に浮かぶ笑顔は、まるで乾いた大地に咲く一輪の花。放っておけば跡形もなく消えてしまいそうなその花が私を呼んでいる。 

 まるで、消える前に私に摘んでくれと言わんばかりに。


「でも、私、私……!」

「良いの。お母さんはもう疲れちゃったから」


 嫌がる私に、母の手が差し伸べられる。

 その手には暖かみは既にない。指先は既に冷え切っていて、そこに生命は感じられなかった。


「……お、母さん?」

「ごめんね、テン一人に辛い思いをさせちゃって。不甲斐ないお母さんとお父さんで、本当にごめんね」


 母の紡ぎ出す声は、心なしか段々と弱々しくなっていく。

 

「でも、テンだけは生きてて欲しいの。だから、私とお父さんを────」

「────嫌! 食べたくない!」


 言葉を遮るように必死に首を振る。

 大好きな二人だからこそ食べたくない。

 そんな二人をみっともなく食い散らかす私なんて、頭の中で思うだけで吐き気がする。


「テン、お願いだから言うことを聞いて」

「ダメ! 聞けない! 私は食べたくない!」

「好き嫌いはダメでしょ? 何でも食べなきゃ大人にならないのよ」

「嫌いなものは嫌い!」


 諭すように食べることを促す母を全力で否定する。

 

 でも身体はそれを求めて続けているようで、いつのまにか目の前には涎の溜まりができていた。

 

「……やっぱりお腹空いたのね。味はよく分からないけど、お腹は膨れると思うわ」


 私の涎を見た母は柔和な笑みを浮かべ、右手で赤の液体を援う。

 差し出されたその器は震え続けていて、指の間からしとしとと零れ落ちていく。


「おかわりは沢山あるから遠慮せず食べてね。いっぱい食べて元気を出してくれたら、お母さんもお父さんも嬉しいから」

「でも、でも────!」

「もしかしてお母さんのこと気にしてくれてるの?」

「当たり前じゃん! お母さんを食べるなんてそんなこと……!」

「なら気にしないで。お母さんもお父さんも、テンの中で生き続けるから」

「……え?」


 困惑する私に、母は最後の言葉を紡いでいく。


「テンが食べたものは全部、テンの身体の一部になって一緒に生きることができるの。

 だから、私たちを連れて行って頂戴。テンがこの先歩んでいく人生の景色を見るのが、何よりも嬉しい」


 乾きった唇はもはや動いてないに等しい。

 喉からの声で、ようやく言葉を発している。


 その命の灯火は既に消えかかっていた。


「私とお父さんとテンの三人で一緒にいきましょ。

 家族でなら、どんな辛いことだって乗り越えれるはずだもの」


 最後に、母は笑った。

 瞬間、差し出された器が地面へと落ちる。

 赤の雫がぱしゃりと弾けて辺りに飛び散る。


 時間が止まったかのように、その身体は動かなかった。




 ────それからは断片的な記憶しかない。


 私は泣き叫びながらその血を啜り、肉を喰らった。

 血生臭くて、暖かくて、妙に柔らかいその物体は、笑えるくらいに美味しかった。

 口の中で咀嚼する度に滲み出す肉汁。鼻腔を擽る血の匂い。喉越し良くつるりと胃袋の中へと収まっていく。

 食べる度に旨味に気付く自分が嫌で嫌で仕方なくてまた泣き叫ぶ。

 一通り泣き終えたら腹が減っていてまた肉を貪る。


 そんなことを一日中繰り返している内に、身体の飢えは次第に収まってきた。涎を垂れ流すこともなく、渇きを覚えることもなくなった。

 眠らずに居たのに不思議と疲れはなくて、身体の中に力が際限なく溢れ出てくる。

 そして、いつの間にか口の中には肉を断ち易いような牙が生えていた。


 私の身体はもう既に人間ではなくなっていた。

 

 それを思うとまた悲しくなって泣き出して、腹が空いて肉を喰らう。

 母のは既に食い尽くしていて、今度は隣に寄りかかっている父の肉を食べる。

 日が経っていたからか余計に臭みが増していて、何度も嗚咽を挟みながら腹の中へと父を入れる。そこに美味しさなどはなく、ただ義務感しかなかった。


 三人で一緒に生きていくためになら、私は大嫌いな肉を食べることくらいは我慢できた。


 私が連れて行ってあげる。私が見える景色全部見せてあげる。三人で行けなかった街に行こう。色んなものを見て回って色んなものを食べ歩こう。

 そしていつか、あのヴァンパイアに逢いに行こう。

 お父さんとお母さんの仇を私が取ってあげる。


 私ならできる。

 だって、二人がついているんだから────



***************************************************************

 


 台所に朝焼けが差し込む。

 鳥のさえずりが山に響き渡り、朝であることを伝えてくれる。

 陽の光に照らされながら、私は足を抱えて蹲っていた。

 身体は芯まで冷え切っていて、春の陽気が漂うにも関わらず吐く息は白かった。

 目の前には乾いた血の痕と少しくすんだ白の骨。

 母の約束通り、私は全てを食べ尽くした。ここにはもう、何もなかった。


「……街に、下りよう」


 きっと二人もここの景色は飽き飽きしているに違いない。もっと華やかで、綺麗なところを見に行こう。

 ここから南の山を下ればイザリア、と言う商人の街がある。

 一度も行ったことはないが、母は昔にそこから来たのだと話してくれていたことを思い出した。


「まず、着替えないと」

 

 一着しかない麻布の服は血で汚れていた。

 洗濯する暇も恐らくはない。それにこの血が落ちることはないだろう。

 重い身体を起き上がらせ、畳の間にある竹で編んだ大きな籠の中を探る。

 

「……あった」


 そこには、私が昔よく着ていた着物が綺麗に畳まれていた。

 昔、道に迷った行商人を泊まらせ、一宿一飯の恩義で私に着物をくれたことがある。

 しかし、十年も前の話だ。紺色無地のその着物は当然の如く丈が合わず、膝上までしか覆ってくれない。

 それでも、血塗れの服よりかはマシだ。


 その着物に身を包んだ後、改めて家を眺める。

 恐らく、二度とここには来ないだろう。

 その前に、持っていけるものは皆持って行きたかった。


「……みんな連れて行くからね」


 部屋にかけられていた父の毛皮の羽織りものとマフラーを着ける。身体は冷え切っていたが、心は少しだけ暖かくなった。

 そして台所へと向かい、父の手から母がよく使っていた短刀を取る。銀に煌めくその刃渡りは二十センチ程。道中で出会した動物を狩るくらいには十分すぎるものだ。


「じゃあ、行こう」


 二人の形見と少しの銭を懐に入れ、私は生家から離れて行く。

 振り向きはしない。振り向いたらまた泣いてしまう。泣いてしまったらまた腹が減ってしまう。

 私の乾ききった涙腺は二度と潤わせないつもりだ。

 

 進む道が朝焼けに照らされる。

 今まで真っ暗だった私()()の道に道標を立ててくれるかのよう。


 歩むべき道は、天の思し召すままに。


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