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9. 二つの平和と大いなる犠牲


 その男、ノインは確かに『ヴァンパイア』と名乗った。

 幼い頃、母の読み聞かせで出てきただけの凶悪な魔族。魔獣を従え、国を滅ぼそうとする人類にとっての災厄。


 御伽噺でしか出てきてこない空想の生き物が、今私の目の前に立っている。


「……嫌、だ」


 思わず、既に事切れた父の元へと近寄る。

 本能からなのか、誰かの肌を触れなければ立っていられなかった。


「……ほう、その人間はお前の父か」


 人並外れた大きな血牙を見せ、ノインは口角を上げる。

 すると、


「邪魔をしてすまない。存分にその身体を抱きしめて慟哭せよ。愛する者を奪われる痛みは、我がよく知っている」

「…………え」

「その者が抵抗するあまり、我が思わず命を奪ってしまった。許せ、小さな人間」

 

 ノインははあろうことか、私に向かってゆっくりと頭を下げた。

 人の親を殺しておきながら罪悪感に苛まれることなく、律儀に当人の目の前で謝罪をする。

 父の亡骸を目の前にして、何故か私は怒りの気持ちすら湧かなかった。


「……なんで、私に謝るの?」


 異形の存在に、率直な疑問をぶつける。


「ふむ、その疑問を答えるには、まず我がここに来たのは理由を説明せねばならぬな。そも、我は表に吊るされてある『眷属』を連れて帰ろうとしたのだ」


 血に濡れた襟を正し、ノインは私の元へと近づいてくる。その足が一歩ずつ進んでいくたびに、周りに冷気が漂い始める。


「ところが我がここに来た時、我が眷属は既に血を流して絶命しておった。手塩に掛けて育ててやろうとした我の家族を、お前の父は奪ったのだ」


 奴はその紅の眼を父の亡骸へと向ける。

 その眼には侮蔑を浮かべていた。


「……だから我は代償を欲したのだ。ヴァンパイアである我は血を求めて彷徨う魔族。家族を奪われたこの悲しみを、その血で贖えとな」

「…………だから、お父さんを────」

「────否。我らは無用な殺しはせぬ。大人しく血を差し出せば、我もその腹を咬まずに済んだのだがな」


 ふと見ると、父の手には血抜きで使う短刀が握られていた。恐らくはこれで抗おうとしたのだろう。


「しかし、我は激昂のあまり血を吸うことを忘れておった。肉は食したものの、血がまだ足りない。血を吸わずに人間の命を奪うのは言語道断、恥ずべき行為だ」


 ノインは顔を手で覆い、深いため息を一つ吐く。

 自分の過ちを憂うその姿は、少しだけ人間と似ていた。


「これが我が貴様ら下等の人間に頭を垂れた理由だ。

人間は弱い。だからこそ我々が寵愛し、不要な殺生を禁ずる。その禁を破ったが故に、我は貴様に謝罪をした。それだけだ」

「……ち、寵愛?」

「そうだ。人は我らの下に生きている有象無象の一つだが、知恵がある分目を見張るものも持っておる。悪戯に命を奪うには勿体ない価値のある存在だ」


 身体に突き刺さるかのように冷えたその声は、私の耳を鋭く揺らす。

 そこでようやく、ヴァンパイアと人間の違いについて理解した。


 そもそも私たち人間とヴァンパイアには決定的な思考の乖離がある。あの魔族にとって、人間が下であることは常識なのだ。

 ただ、人の命に価値を必死に()()()()()しているだけで、基本は有象無象の命なのだと。

 父を殺して謝罪したのは命を奪ったからではない。何の意味もなく父を殺したことを悪く思っただけだ。

 

 理由があって人の命を奪うのは問題ない、とノインは考えているのだ。

 

 その前提が違うからこそ、目の前の何かを受け入れることは土台無理な話だった。


「我はその過ちを二度と犯さない。魔族の王子たる振る舞いを見せねばならぬ。道に咲く小さな花にも、敬意を持って摘み取るべきなのだ」


 ノインの紅の瞳が私の身体を映す。


 するりと、冷え切った手が私の首元へと近づいてくる。長く伸びきった爪を柔らかな皮膚に当てて、その感触を確かめるかの様に撫で回す。


 直感した。私は今から喰われる。どれだけ泣き叫ぼうとも赦しを請おうとも、その手は止まらないだろう。

 ただそれに抵抗できずに為されるがまま、眼を瞑ることしかできなかった。


 すると、


「……なんと、利口な小娘だ」

「────ぁ、ぐっ!?」


 男はその爪で目蓋をこじ開ける。

 暗闇から一瞬で光ある世界に戻された私の目の前には、不気味な紅い眼が二つ浮かんでいた。


「恐怖を目の前にして叫びもせずに動揺しないその心構え、至極気に入った。我の眷属にしてやっても構わないがどうする?」

「…………ぁ、ぁ」


 言葉が出なかった。そもそも、聞かれている内容すらも頭に入ってこない。

 乾ききった眼は潤いを求めて涙を流し、それに呼応して嗚咽が漏れる。呼吸すらも忘れて、その男をただ見つめるばかり。

 その様子を見たからか、ノインは慈悲の表情を浮かべる。


「何、心配はいらない。眷属となれば命は保証する。我の元で忠実な僕となれば、お前は血に飢えることも────」

「────やめて! 私の娘に触らないで!」


 畳の間から響く声。

 その声はよく聴き慣れていた。


「……お、母さん」

「テン! 今助けるからね!」


 ノインの向こうから、母が這いずりながら私の元へと向かってくる。

 手で地面を掻きながら、必死に台所へと身体を進めていく。立たずに身体を這わせている訳は聞かずとも分かった。


 母の下半身は、鮮血に溢れていた。


「……脚をなくした死に損ないが。今頃意識を取り戻して何をするというのだ」

「決まっているでしょ! テンを助けるのよ!」

「その脚で、か。面白いことを曰う阿呆がいるものだ」


 蔑みの笑みを浮かべながら、ノインは母の方へと向く。

 目蓋を裂く爪から解放された私は、腰が抜けたのかすとんと地面へと座り込む。

 その瞬間、心臓が鼓動を大きく刻み始める。指先の末端まで冷え切っていた身体に熱が戻ってくる。

 久々の呼吸の味は、ほのかな血の匂いがした。

 

「人間は母に守られて生きる動物だと知るが、どうやら我らと似たところはあるものだな」

「貴方達と一緒にしないで! 私たちは平和に暮らしてきたのよ! 私たちは貴方たちの様に簡単に誰かを殺したりなんかしないわ!」

「ほざけ。貴様らは我らよりも下劣だ」


 母の叫びを、奴は一声で鎮めた。


「……下劣、ですって」

「それどころか貴様ら人間は、どの魔族よりも下劣で下等に位置する」


 重く、低く。

 その声は耳を犯して脳髄へとずるりと雪崩れ込む。


「そも、貴様らの唱える『平和』とはなんだ。全ての人間が生き存える世界か。人間の存在を脅かす獣が居ない世界か」

「……そうよ。あなた達みたいな魔族や魔獣がいない、安全な世界が────」

「────黙れ、劣等種が! 貴様らの曰う平和などトロールの吐瀉物にも満たんわ!」


 宵闇に響き渡るその声は、ビリビリと私の身体を震えさせた。恐怖もさることながら、その声量は人の比ではない。

 後に少し落ち着いた様子を見せ、ノインは乱れた髪を軽く整えた。


「……貴様らは『自分の種族が一番』と決め付けている。全ての種族を見下し、その命を悪戯に貪る。

 なんと悪徳、なんと傲慢。彼らの命は、貴様らよりも重い筈だ」

「……何よ。私たちは生きる為にその命を頂いているの。家畜に対して敬意を払わなかったことはないわよ」

「ははっ、そこが傲慢極まりない! 貴様ら人間は己の『食物』にしか目が行かないのか。食い意地の張った馬鹿どもだな!」

「なっ…………!?」


 ノインは噴き出し、腹を抱えて壁に寄りかかる。

 長く伸びた爪で涙の粒を拭う。その仕草が、何故か人と同じように見えたのは気のせいか。

 

「噂通り、人間の視野はどうやら狭いようだ。自分の利益しか見ておらぬ。そして、悪益となるものは排除するしか手立てをもっておらぬ」

「……悪益って何」

「我らのような魔獣、魔族のことだ。貴様らの命を奪う、人類にとっての恐らく災厄の存在だ」

「それは仕方のないことじゃない! 私達のことを殺そうとする奴らを逆に殺して何が悪いの!?」

「ああ、悪いとも。最悪だ。貴様らは大きな勘違いをしている」


 母の悲痛な声を奴は軽くあしらう。

 そしてその顔は、笑みに溢れていた。


 「人間は()()()()()()()()()()()()のだ。最下等生物であるからこそ、全ての魔獣に餌として命を狙われる。

 それを受け入れず、あろうことかその魔獣を狩ろうと目論むのが悪徳なのだと我は言っている」


 瞬間、身体の奥が冷え切った。

 人間の生存の否定を、今目の前の男は平然とやってのけた。食される為に生きるのが人間だと。人が生きる意味は食される為だと。

 それに抗うことは、世界の全てが望むことではないことだと。

 

 ふと見た母の瞳孔は、その怒りからか開きっぱなしだった。拳に力を込め続けて、目の前に立ち塞がるヴァンパイアへと視線を向け続ける。

 脚を失っていなければ、すぐさまにでも殴りかかっていそうな迫力を感じた。

 

「……なら教えて。あなた達の言う『平和』って何よ」


 何処にもぶつけられない怒りを喉へと押し込み、母はノインへと問い質す。


「気になるか。ならば冥土の土産として持っていくが良い」


 這いつくばる母を下に見ながら奴は私たち二人に、否、全ての生物に向けて高らかに『平和』を語り始めた。


「我らの求める『平和』とは()()だ。我らヴァンパイアが世界の王となり、生きとし生けるものに安寧を齎さんとする。それが我らの求める平和だ」


 全ての生き物に慈悲を振りかざす。

 等しくその平和を、その安寧を分け与えられる世界を創り出す。

 

 それは不可能に等しい。この世の全てを統一するのは神の為す所業。力や財では敵わない、この世に生きる物が到達できない領域へと、ヴァンパイアは目指している。

 

 圧倒されている私たち二人を意に介することなくノインは話を続ける。


「全ての魔獣や魔族を従え、世界に争いをなくす。無意味な殺生は許さぬ。無益な殺生は許さぬ。その代わりに餌を我らが配ってやる」

「……それが人間、と言うの?」


 母の言葉に、ノインは満面の笑みを浮かべる。


「察しが良いではないか! 貴様ら人間が餌だ。

 何、心配は要らぬ。先に言った通り、無意味な殺生を許さぬ。他の魔獣に襲われないよう、我らがしっかりと見張っておいてやる。人間は二度と、魔獣に怯えずに暮らせるのだ」


 全てのものに平和と安寧を齎すのであれば、まず餌の取り合いを防ぐことが先決である。その為には標的になる人間をヴァンパイアが守り、餌の供給を計画的に行う。

 

 確かに人間は二度と魔獣に襲われない生活が出来る。ただそれは、鳥籠の中で生き続けることが前提である。


「────っ、ふざけないで! そんな不自由な生活を私たちが認めるものですか!」

「認める認めないの問題ではない。それが自然の摂理だ。貴様らは最下等生物で、全ての魔獣にとっての食物なのだ」

「ギルドの人達が黙って見てないわよ!」

「我らは今そいつらとの抗争をしている最中だ。それももう時期終わるがな」

「……人間を甘く見ないで。私たちは強いのよ!」

「強い弱いの話ではない。貴様らは餌なのだ。餌が捕食者に逆らえる道理はないだろう。

 足掻くのなら精々足掻け。皿の上での踊り食いもまた一興よ」


 淡々と、ノインは母の反論を打ち砕く。

 その口論は最早、児戯に等しかった。力の差が歴然としており、ノインはそれを口論と認識していないのかもしれない。


「……嫌よ。そんな生活で私たちが生きていけるわけがないわ」


 悔しそうにギリ、と歯を食いしばる母。

 人の尊厳を失わせるその『平和』は到底認められない。

 だが、母は何もできずに地面に這いつくばるのみ。

 人類の敵を見上げることしかできないその現状に、至極腹が立っているのだろう。


 それを見たノインはきょとん、とした顔を浮かべるが、またすぐににやり、と不気味な血牙を見せつけた。


「ははっ、もしや、貴様は自分の飯を心配しているのだな! 心配は無用だ。豚や牛などは貴様らに預ける。それでいつものように食いつなげ。

 我らは共存を求める魔族だからな。我らが満たせる欲があるのなら下賜するのが当然だろう?」


 それは人に対する明らかに侮辱。

 人は食物にしか目がいかない哀れな生き物であると、ノインは言ってのけた。


「────────!!」


 母の怒りは眼に見えて分かった。

 普段、私が眼にすることのないその憤りは猛々しく、潰れてしまっているであろう脚を必死に動かしてノインの元へと近づこうとしている。

 激痛か憤怒か、母の眼には涙が浮かび上がっていた。


 しかし、


「失せろ。劣等種が」


 ノインの脚が母の顔に突き刺さる。

 声もなく母は倒れ込み、辺りには小さな血溜まりが出来ていた。


「興が醒めた。娘を頂く」

「────────っ、ぁ!?」


 冷たい声と共に、再び私の首元に爪が立てられる。

 今度は撫でる程度ではない。突き刺す爪に力を込め、ゆっくりと私の身体が持ち上がっていく。


「────嫌、嫌ぁっ、ぅっ、ぃ……!」


 身体は既に宙へと浮き上がり、動けば動くほどその爪が首に深く突き刺さっていく。

 喉が締め付けられ、脳に酸素が行き届かない。

 眼に見える世界は既に白黒に点滅していて、今が何処かも定かではない。


「貴様の父の様な無益な殺生は二度と行わん。

 故に我は貴様に敬意を払おう。その血に、その命に、その生涯に」


 遠く聞こえてくる誰かの声は、何故か私に感謝をしている。

 何でだろう。私は何もしてないのに。お父さんが殺した動物もこんな感じだったのかな。もしそうだったらそれはちょっと悲しいな。

 いきなり誰かの手で幕引き、だなんてやるせないもの。


「やめて! 殺すなら私にして! その子の血を吸うのだけは、それだけはやめて!」

「ふん、貴様の血は鮮度が悪い。王子たる我にその様な腐った血を食せというのか」


 女の声と男の声が耳の中で入り混じる。

 思考は段々と鈍っていく。誰が誰かも分からない。

 次第にその眼は、真暗闇以外何も映さなくなっていた。ただ、冷たい吐息だけが、首元をいじらしく擽り続けている。


「その子はまだ幼いの! まだ街にも出たことがないの! だから、だから────」

「────食事の時間だ。もう遅い」


 かぷり、と身体中に音が響く。

 眼は見えない。耳はもうほとんど聞こえない。頭も回らない。

 ただ、感覚はしぶとく残り続けている。

 

 薄れゆく意識の中で、私は最後に感じた。


 身体中を巡る冷たい何かが、私の身体を容赦なく蝕んでいくのを。


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