第7話:落ちこぼれ聖女と、呪われた枯れ井戸
空気が、どろりとした澱みに満ちていた。
かつて世界最高峰の魔導技術を誇ったとされる魔法都市『アイゼンガルド』。その残骸は今や、行き場を失った魔力が変質し、視界を紫がかった霧で覆い尽くす死の街へと変わり果てていた。
「……チッ。やはり、ここの魔力汚染は計算が狂うな」
ガウェインは不快そうに鼻を鳴らし、自身の周囲の重力を微調整した。
大気中に漂う高濃度の残滓魔力が、彼の『不動の枷』の術式をじわじわと侵食しようとしてくる。ガウェインは三倍の加圧を維持しながらも、魔力をより密に、より硬く身体の表面に纏わせ、汚染物質を物理的に撥ね退けていた。
彼がここを訪れたのは、壊れかけた魔導コンパスの部品を調達するためだ。引退勇者の隠居先探しには、正確な方位計が欠かせない。
瓦礫が積み上がった広場の中央。
そこには、都市の遺物である巨大な『枯れ井戸』があった。
井戸の口からは、氷のような冷気と共に、実体を持たない黒い影――下級霊たちが絶え間なく溢れ出していた。
「ひゃぅっ!? く、来るなぁっ! 『浄化』! ……あぅ、また不発……っ!」
井戸の前で、一人の少女が膝をついていた。
聖教会の修道服を纏った彼女――セレスは、震える手で聖印を掲げているが、その指先から漏れるのは頼りない微かな光だけだ。浄化の光は亡霊に届く前に霧散し、逆にその「弱々しい魔力」に誘われるように、亡霊たちが彼女の首筋へと冷たい指を伸ばしていく。
「だ、誰か……誰か助けて……! 女神様、私、また失敗しちゃいましたぁっ!」
セレスが絶望に瞳を閉じた、その瞬間。
――ドシンッ、と。
周囲の空気が、爆ぜた。
重厚な足音と共に、ガウェインがその場に踏み込んだのだ。
彼が三倍の重力を乗せた一歩を刻んだ瞬間、魔法都市を覆う不浄な霧が一気に地面へと叩きつけられ、セレスを囲んでいた亡霊たちが、見えない巨大な鉄槌に押されたかのように地表へと縫い付けられた。
「グガァ……ッ!?」
実体を持たないはずの亡霊たちが、ガウェインの展開した『重力圏』に捉えられ、霧散することさえ許されずに地面へ陥没していく。
ガウェインは剣を抜くことさえせず、ただ不機嫌そうにセレスの横を通り過ぎた。
「……おい、若いの。挨拶がなっとらんな。……魔力がスカスカだぞ。そんな祈り方では、亡霊を退けるどころか昼飯の足しにもならん」
「え……? あ、あの……重い、です。急に、身体が……っ」
セレスは地面に這いつくばったまま、困惑と恐怖の混じった瞳でガウェインを見上げた。
彼女には見えていない。この中年男が、ただ歩いているだけで周囲の物理法則を捻じ曲げ、亡霊たちを「重圧」だけで圧殺している事実を。
「……ふん。魔法都市に一人で乗り込むとは、正気の沙汰ではないな。……自殺志願者か、それともよほどの無能か。……どちらだ?」
「ひ、ひどいです! 私は、その……呪われた井戸の調査に来ただけで……! あぅ、またベールが汚れちゃった……」
セレスは泣きそうな顔で汚れを払おうとしたが、ガウェインの重圧下では指一本を動かすのにも、彼女の普段の全力を必要としていた。
「……やれやれ。これだから、教本だけで育った聖職者はコスパが悪い。……命を無駄にする前に、とっとと帰れ」
ガウェインは吐き捨てるように言うと、井戸の奥底から伝わってくる、より巨大で、より不快な「拍動」を、その鋭い感覚で捉えた。
引退勇者の部品調達は、どうやらまたしても、死臭の漂う厄介事に首を突っ込むことになりそうだった。
「な、なんなんですか、今の! あんな、乱暴な除霊……教本には一言も載っていません!」
ガウェインの重力圏から僅かに外れたところで、セレスはようやく立ち上がり、泥のついた修道服を叩きながら声を荒らげた。
恐怖よりも、自分が信じてきた『聖女の常識』を土足で踏みにじられたことへの困惑が勝っているようだった。
「……教本? ああ、あの『優しく祈れば精霊が応えてくれる』とかいう、寝言の詰まった紙束のことか。そんなもので亡霊が消えるなら、この街は今頃、花畑にでもなっているだろうな」
ガウェインは足を止めず、瓦礫の中に埋もれていた魔導回路の残骸を、重い籠手を嵌めた手で無造作に掘り起こした。
セレスは顔を赤くして、ガウェインの背中に向かって詰め寄ろうとした。だが、一歩近づくごとに、全身に鉛を流し込まれたような重圧が襲いかかり、彼女の華奢な膝を震わせる。
「聖なる魔法は、神への帰依と慈愛の結晶なんです! それを、ただ重くして叩き潰すなんて……それはもう、除霊じゃなくてただの暴力です! 聖女としての誇りが許しません!」
「……誇り、か。その誇りとやらで、さっきの亡霊の一体でも倒せたのか?」
「それは……そ、それは私がまだ、修行不足なだけで……。聖水の調合比率を間違えて、カビを生やしちゃったりもしましたけど……」
「比率ではなく、お前の魔力の『質』が問題なんだ。……お前、自分の魔力がどういう形をしているか、一度でも考えたことがあるか?」
ガウェインは、拾い上げた部品を太陽にかざし、汚れを拭いながら低い声で問うた。
セレスは言葉に詰まった。魔力の形。教本には「清らかな泉のような」とか「黄金の輝き」といった比喩はあったが、実体としての質感を問われたことはなかった。
「お前の魔法は『浄化』じゃない。……事象をその場に留め、変質を拒む『固定』の力だ。……それを無理やり聖職者の枠に当てはめて、動いている霊体を『清めよう』とするから反発される。……例えるなら、火を消すために油を注いでいるようなものだ。コスパが悪いどころの話じゃない」
「こ、固定……? 私の力が……?」
「……無能なのは、教本を鵜呑みにして自分を見ようとしないその頭だ。……若いの、聖女の誇りとやらを守りたいなら、まずはその死に損ないのプライドを捨てろ。……戦場では、綺麗な祈りより、泥臭い勝利の方が一万倍価値がある」
ガウェインの言葉は、冷徹な刃となってセレスの心を切り裂いた。
彼女はショックでふらつき、崩れかけた壁に手をついた。
自分が「落ちこぼれ」なのは、信仰心が足りないせいだと思っていた。だが、この初対面の中年男は、彼女の全存在を否定するように、別の「真実」を突きつけてきたのだ。
「……お、おじさんは、何者なんですか……。どうして、そんなことが……」
「引退間際のおっさんだと言っただろう。……老眼が進む前に、必要な部品を集めたいだけだ」
ガウェインは背嚢を揺らし、再び歩き出した。
その背中は、どんな聖典よりも重く、揺るぎない質量を持って、絶望の霧を切り裂いていた。
セレスは震える脚を叱咤し、なぜか自分でも分からないまま、その重苦しい背中を追いかけていた。
井戸の淵から、黒い泥のような怨念が次々と溢れ出してきた。
下級霊の群れだ。それらは数、十、二十と膨れ上がり、実体のない身体を激しく震わせながら、周囲の温度を一気に奪っていく。
魔法都市アイゼンガルドの住人たちの死に際の叫びが、視覚化された影となって、ガウェインとセレスを取り囲む。
「ひ、ひぃぃ……! また来ました! おじさん、今度こそ私の『浄化』を……! え、えいっ! 女神様、どうか、どうかお助けを!」
セレスは涙目で叫び、持てる魔力のすべてを込めて聖印を突き出した。
だが、その指先から放たれた光は、亡霊の冷たい影に触れた瞬間に「パチン」と虚しく弾け、煙のように消え去る。浄化の光が、亡霊たちの不浄な密度に押し負けているのだ。
「……無駄だと言っただろう。下がっていろ、若いの。……お前のその、教本通りの『優しい祈り』では、こいつらの数千年の怨念という質量に干渉すらできん。……いいか、よく見ておけ。これが、祈りよりも確実な、物理という名の現実だ」
ガウェインは愛剣の柄に手をかけることさえせず、ただゆっくりと右手を頭上へ掲げた。
三倍の重力を維持したまま、彼の五指が、まるで虚空を掴むように鋭く開かれる。
ガウェインの周囲で、魔力が唸りを上げ始めた。それは光り輝く神聖な魔力ではなく、空間そのものを歪ませ、圧縮し、物理的な質量へと変質させる、どす黒いほどの重力波だった。
「……若いの。実体がないから剣が通らん、聖なる光で焼くしかない。……お前たちの教官は、そう教えたか? ……それは三流の、思考停止した者の理屈だ。……この世に存在している以上、そこには必ず『媒体』がある。霊体が漂うための空気、魔力の粒子、そしてお前自身が立っているこの空間そのものが、奴らの身体だ」
ガウェインは掲げた手を、垂直に、力強く引き下げた。
重力魔法『不動の枷』――大気高密度圧殺。
瞬間、周囲の空気が、まるで巨大な見えない鉄板が天空から落下してきたかのような、凄まじい衝撃音と共に凝縮された。
ガウェインが操作したのは、亡霊そのものではない。彼らの拠り所となっている『空気』そのものだ。
重力によって極限まで密度を高められた空気は、透明な壁、あるいは超質量の不可視の刃と化し、実体を持たないはずの亡霊たちを「物理的に」地面へと叩きつけた。
バリバリッ、と石畳が砕ける音が響く。
亡霊たちが、潰れた虫のように石畳へめり込んでいく。
すり抜けるはずの物理現象が、ガウェインの重圧によって強制的に固定され、逃げ場を失った霊体たちが、まるで鉄床で叩かれた霧のように霧散していく。
それは除霊という名の、純粋な『質量による蹂躙』だった。
「……あ。あぁ……。空気が、空気が固まってる……!? 幽霊が、潰されてる……! 物理攻撃が効かないはずの幽霊が、おじさんの手一つで……!」
セレスは呆然と立ち尽くし、目の前の光景を信じられないといった面持ちで見つめていた。
重力によって押し潰された空間の余波が、彼女の頬を熱風のように掠めていく。
「……気体も重くすれば、それは鋼鉄の重しと変わらん。……理屈は単純だ。……お前が信じる神様は、空気の重ささえ教えてくれんのか? 慈愛だの光だのと口にする前に、まずは自分が踏みしめている大地の重さと、頭上の空気に感謝しろ。……それが、生き残るための合理性だ」
ガウェインの問いに、セレスは答えることができなかった。
目の前で起きていることは、聖女としての十数年の修行を根底から覆す、あまりにも暴力的で、かつ合理的な「物理」の勝利だった。
ガウェインは潰れた亡霊の残骸を無造作に踏み越え、一歩ごとに地面を沈ませながら、井戸の淵へと歩み寄った。
彼の足音が響くたび、周囲の空間が震え、物陰に隠れていた影たちが恐怖に怯えるように霧散していく。
「……さて。雑魚の掃除は終わったが。……本命は、まだ寝起きのようだな」
ガウェインの視線の先、枯れ井戸の底から、漆黒の魔力が心臓の鼓動のように脈打ち始めた。
魔法都市の怨念が凝縮された「本物の闇」が、ゆっくりと這い上がってこようとしていた。
井戸の底から、粘りつくような漆黒の魔力が溢れ出してきた。
それは先ほどまでの下級霊とは比較にならない、濃密で、冷酷な「殺意」の塊だ。魔法都市アイゼンガルドが滅んだ際の、数万の民の無念が数百年をかけて凝固した、文字通りの深淵。
「……若いの。これが、お前たちが教本で『亡霊公』と呼び、絶対に近づくなと教わった相手だ。……どうだ、お前の自慢の誇りで、この寒気は止められるか?」
「ひ、ひぃぃ……っ! あ、足が……足が震えて……。これ、は……何ですか……。身体が、魂が吸い込まれるみたいで……っ」
セレスはその場に膝をついた。ガウェインの物理的な重力魔法とは質の違う、魂を直接凍りつかせるような絶望的な威圧感。
彼女の掲げる聖印は、恐怖に震える指先から今にも滑り落ちそうになり、カチカチと歯の鳴る音が静寂の広場に空しく響いた。
「……無理です。あんなの、私みたいな、聖水の分量すら間違える落ちこぼれに……どうにかできるはずが……っ! おじさん、逃げましょう! 今ならまだ、私を置いて逃げれば……!」
ガウェインは、自身の『不動の枷』の出力を一段階、静かに引き上げた。
三倍から三.五倍へ。
彼の周囲の空気がさらに密度を増し、重力の障壁が亡霊公の放つ絶望の波を、無機質に弾き返す。
「……逃げるか。いい判断だ。合理的と言ってもいい。……だがな、セレス。……お前がここで逃げれば、お前は一生、他人に決められた『無能』という枠の中で、自分を呪いながら死ぬことになるぞ」
「……え?」
「……お前には、自分でも気づいていない『質』があると言った。……お前が落ちこぼれなのは、魔法が使えないからじゃない。自分の本当の力を、教本にないからという理由で否定し続けているからだ。……俺には見えるぞ。お前の魔力の奥底に眠る、事象をこの世界に縛り付ける『固定』の根がな」
ガウェインはゆっくりと腰の剣に手をかけた。
彼は不敵な笑みを浮かべ、震えるセレスに向かって、分厚い鉄の籠手に包まれた左手を差し出した。
「選べ。このまま、誰にも期待されず、自分も自分を愛さないまま泥の中で泣き続けるか。……それとも、俺の重力に掴まって、その落ちこぼれの汚名を雪ぐための地獄を覗くか。……お前の答え次第で、今日の俺の『コスパ』が決まる。……俺を、無駄足だったと失望させるなよ」
セレスは涙を拭い、ガウェインの差し出された手を見つめた。
それは、傷だらけで、重苦しく、そして誰よりも確かな現実を掴んでいる掌だった。
彼女は、初めて「誰かに必要とされた」という奇妙な熱が、凍りついた心臓を溶かすのを感じた。
「……私。私……行きます。落ちこぼれのままで終わるのは……もう、嫌ですから! おじさんの重力に、私を連れていかせてください!」
「……ふん。上出来だ。……挨拶の次は、覚悟の証明だな」
ガウェインはセレスの細い手首を掴み、力強く引き寄せた。
「……いいか。一ミリでも俺から離れるな。……離れた瞬間、お前の魂はこの井戸の肥やしだ。……行くぞ」
ガウェインはセレスを抱えるようにして、迷わず漆黒の霧が噴き出す井戸の深淵へと飛び込んだ。
自由落下。
暗闇の中、ガウェインが展開する重力の盾が、四方八方から襲いかかる亡霊たちの牙を、激しい火花と共に弾き飛ばしていく。
魔法都市の墓標、その最深部。
引退勇者と落ちこぼれ聖女の、常識破りの除霊劇が、今まさに幕を開けようとしていた。




