第5話:死にたくないなら、泥を舐めろ
空は、低く垂れ込めた鈍色の雲に支配されていた。
一週間前から降り続く長雨は、この湿原地帯を底なしの泥沼へと変え、街道という概念さえも押し流していた。
ガウェインは、膝下までどっぷりと浸かる褐色の泥を掻き分けながら、不機嫌を絵に描いたような顔で歩を進めていた。
「……やれやれ。近道を選んだつもりが、これではブーツの予備がいくらあっても足りん。コスパという概念がこの土地には存在せんのか」
独り言を吐き捨てながら踏み出す一歩は、しかし、周囲の泥を「ギュッ」と異常な密度で圧縮していた。
三倍の重力加圧。
ガウェインが自分自身に課しているその制約は、この悪路において奇妙な効果を発揮していた。彼の足が泥に触れる瞬間、重力魔法の余波が泥に含まれる水分を弾き出し、一瞬だけ「踏みしめられる土」へと変質させるのだ。
そのため、彼は膝まで泥に浸かってはいるものの、その足裏だけは常に確かな手応えを掴んでいた。
しばらく進むと、霧の向こうに歪なシルエットが浮かび上がった。
それは「砦」と呼ぶにはあまりにも粗末な、木杭を並べただけの囲いだった。
地図上では魔王城への最短ルート上にあるはずの『泥濘の砦』。だが、現状は戦略的価値を失い、軍の本隊からも忘れ去られた、文字通りのゴミ捨て場のようであった。
「……誰かいるか。生きていても死んでいても、返事くらいはしろ」
ガウェインが砦の崩れかけた門を潜ると、そこには腐った藁の匂いと、絶望の気配が充満していた。
砦の隅、雨漏りのひどい軒下で、一つの影がガタガタと震えていた。
それは、ぶかぶかの革鎧に身を包んだ、まだ幼さの残る少年だった。
手にした槍は錆びつき、先端は泥で汚れている。少年はガウェインの重厚な足音を聞くと、悲鳴に近い声を上げて槍を突き出した。
「わ、わあああっ! 来るな! 来ないでくれ! 僕は、僕は食べても美味しくないぞ!」
「……落ち着け、若いの。俺が魔物に見えるなら、お前の眼球は節穴か泥が詰まっているかのどちらかだ」
ガウェインは突き出された槍の穂先を、指一本で軽く横に逸らした。
その動作に伴うわずかな魔力の揺らぎが、少年の周囲の重力を一瞬だけ歪ませる。少年は、まるで見えない巨人に肩を叩かれたかのように、その場に尻餅をついた。
「ひぅっ……。に、人間……? 冒険者、さん……?」
「四十五歳の引退間際のおっさんだ。……名前は?」
「れ、レオです。農家の……徴兵されて、ここに送られました。……一週間前までは、十人くらいいたんです。でも、みんな泥に足を取られて、魔物に引きずり込まれて……残ったのは、僕一人だけです」
レオと名乗った少年は、顔中に泥と涙を塗りたくったまま、壊れた玩具のように震え続けていた。
ガウェインは周囲を見渡した。
転がっている食器、半分埋もれた荷車。そこには激しい戦闘の跡はない。あるのは、ただ環境に負け、心から折れていった者たちの無残な残滓だけだった。
「……逃げなかったのか。お前ほどの臆病者なら、軍規など無視して脱走しそうなものだが」
「む、無理ですよぉ! この泥を見てください! 一歩外に出れば、足首まで埋まって動けなくなるんです。そんなところで魔物に背中を見せたら、すぐに……すぐにパックンですよ!」
少年の言葉には、英雄的な決意も、国への忠誠心もなかった。
ただ、「今ここで動けば死ぬ」という、野生生物のような剥き出しの生存本能だけがあった。
ガウェインは、その情けない姿を見つめながら、ふっと鼻を鳴らした。
(……悪くない。正義感で突っ込むエルナのような手合いより、よほど合理的だ)
死にたくないから、動かない。
逃げられないから、ここに留まる。
それは、戦場における最も基礎的で、最も重要な「臆病さ」という名の才能だった。
「おい、レオと言ったか。その槍を杖代わりに使うのはやめろ。道具が泣いている」
「そんなこと言ったって、これがないと歩けないんです! ……おじさん、お願いです、助けてください! ここから、僕を連れ出してください!」
「……断る。俺は近道をしに来ただけで、迷子の守りをする趣味はない」
ガウェインは突き放すように言い放ち、砦の中央にある、比較的マシな雨避けの下へと歩いていった。
背後でレオが「そんなぁ!」と絶望の叫びを上げるが、ガウェインは意に介さない。
彼は背嚢を下ろすと、中の荷物が湿っていないかを確認し始めた。
三倍の重力を背負ったまま、彼は周囲の泥濘を凝視する。
霧の向こう。泥の中から、幾つもの「泡」が立ち上っていた。
それは呼吸の跡。
この劣悪な環境を苗床にする、下級の魔物たちが獲物の気配を察知した証拠だった。
「……チッ。やはり、ゆっくりと乾燥肉を噛む時間はなさそうだな」
ガウェインは、自分にかけている『不動の枷』の出力を微調整した。
三倍から、周囲への干渉を含めた広域モードへ。
泥の中に沈みかけていた砦の沈下が一瞬だけ止まり、空気が「ミシリ」と重厚な音を立てた。
引退勇者の「近道」は、どうやらまたしても、厄介な横道へと逸れ始めていた。
「お、重いっ……!? なんですか、これ! 体が、地面に吸い込まれる……っ!」
ガウェインが自身の魔力を周囲に波及させた瞬間、レオはカエルのような声を上げて泥の中に這いつくばった。
三倍重力の余波。
ガウェインにとっては呼吸と同じ日常だが、ひ弱な新兵であるレオにとっては、目に見えない巨人に背中を踏みつけられているのと同義だ。
「……若いの。死にたくないと抜かしたな。なら、まずはその『浮ついた足取り』を直せ。泥に足を取られるのは、地面に自分の体重を預けすぎているからだ」
「そんな、理屈言われたって……っ! 立てない、指一本動かせないですよぉ!」
「立て。筋肉で立とうとするな。重力に抗うのではなく、重力を自分の『芯』に通せ」
ガウェインは泥に塗れたレオの襟首を、まるで仔猫でも扱うように片手でひっ掴み、無理やり引きずり起こした。
ガウェインの周囲、半径三メートル以内は、彼の重力魔法によって泥に含まれる水分が強制的に押し出され、コンクリートのように硬化している。レオはその「硬い地面」の上に立たされ、ガクガクと膝を震わせた。
「いいか。この『枷』の中では、お前の体重は実質一.二倍だ。重いだろう? だが、この重圧に耐えて一歩を踏み出せれば、外の泥沼などただのぬるま湯に変わる」
「な、何を言ってるんですか、おじさん……。僕はただ、おうちに帰りたいだけで……っ」
「帰りたいなら歩け。歩きたいなら沈まない術を覚えろ。……ほら、一歩だ。出さないなら、このまま重力を三倍まで引き上げるぞ。お前の細い骨が、景気よく鳴るのを聞きたいか?」
ガウェインの瞳に宿る冷徹な光。それは、戦場で数多の部下を死なせてきた男の、容赦のない「生存への執着」だった。
レオは恐怖で顔を引き攣らせ、泣き出しそうな顔で右足を持ち上げようとした。
だが、上がらない。
一.二倍の重力。さらに、ガウェインがわざと不安定に揺らしている重力波が、レオの三半規管を狂わせる。
「……あ、あが……っ。足が、鉛みたいだ……」
「重心が後ろに寄っている。泥の上でそれやれば、一瞬で背中から沈んで終わりだ。……臍の下に魔力を集めるイメージを持て。足裏で地面を押すな。地面を『掴む』んだ」
ガウェインはレオの背中を、ドンと無造作に叩いた。
その衝撃でレオが前のめりに倒れそうになるが、ガウェインが調整した重力場が、彼の身体を不自然な角度で空中に留める。
「倒れる力」を「推進力」に変える。それが、ガウェインが重力加圧三十年で辿り着いた、あらゆる地形を走破するための理論だった。
「……ひ、ひぃぃ……!? 今、僕、浮いた!? 倒れなかった!」
「倒れる寸前の『傾き』を利用しろ。それが歩法の本質だ。……もう一度だ。次は自分で行け。できないなら、そこに転がっているゴブリンの餌にする」
レオは死に物狂いだった。
目の前のおっさんは、魔物よりも恐ろしい。その直感が、彼の潜在的な集中力を引き出していた。
重い。苦しい。泥の匂いが鼻について吐き気がする。
それでも、レオはガウェインの重圧の中で、必死に自分の「中心」を探した。
右足が出る。続いて左足。
泥の上を歩いているはずなのに、ガウェインの魔法圏内にある足元だけは、まるで石畳の上を歩いているような奇妙な安定感があった。
「……はぁ、っ、はぁ……。おじさん……これ、不思議です。重いのに……重いのに、前よりちゃんと歩けてる気がする……」
「……ふん。ようやく理解したか。地面に頼らず、自分の中の『軸』を頼りにする。それができれば、泥だろうが雪山だろうが関係ない。……もっとも、お前のそれはまだ、赤子のハイハイ以下だがな」
ガウェインはそう毒づきながらも、背嚢から一本の木の棒を放り投げた。
「それを持て。槍の代わりだ。……重力下での歩行を維持しながら、その棒を垂直に保ってみろ。少しでも傾いたら、重力を五割増しにするぞ」
「鬼だ……! このおじさん、絶対本物の鬼だぁ……っ!」
レオは絶叫しながらも、泥まみれの手で棒を掴み、ガクガクと震える脚で一歩を踏み出した。
砦の周囲を囲む霧が、少しずつ濃くなっていく。
その霧の中から、飢えた魔物たちの「クケケ」という耳障りな笑い声が聞こえ始めていた。
「……お喋りは終わりだ。若いの、練習相手が来たぞ。練習通りにやらんと、本当にパックンだ」
ガウェインは腰の剣を抜くことすらせず、足元の泥を掬い上げ、手の中で弄び始めた。
その指先には、重力を極限まで一点に圧縮した、禍々しいほどの魔力が集っていた。
霧の深淵から、最初に飛び出してきたのは泥にまみれた緑色の影だった。
ゴブリン。この湿原に巣食う、魔王軍の末端にして最も卑俗な捕食者たちだ。
彼らは手に手に錆びたナイフや骨の棍棒を握り、奇声を上げながら砦の崩れかけた柵を乗り越えてくる。その数は十、二十――いや、霧の奥からはさらに倍以上の気配が漂っていた。
「わ、わああああっ! 来た! 本物だ、本物が出たぁ!」
「……若いの、騒ぐな。呼吸が乱れれば重心が浮くと言っただろう。棒を落とすな、垂直を保て」
ガウェインは襲い来る魔物の群れを歯牙にもかけず、足元の泥を手のひらで転がし続けていた。
彼の指先が触れるたび、泥に含まれる水分が弾け飛び、それは直径三センチほどの完璧な「球体」へと成形されていく。
重力魔法『不動の枷』――一点圧縮。
ただの泥の塊が、ガウェインの魔力によって鉄球以上の密度へと変質していた。
先頭のゴブリンが、よだれを垂らしながらレオの喉元へ向けて跳躍する。
レオが絶望に目を閉じた瞬間、ガウェインの指が、パチンと軽やかに弾けた。
――シュンッ!
それは、弓矢の風切り音よりも鋭く、重い音だった。
放たれた泥の弾丸は、空中でゴブリンの額を正確に射抜き、その衝撃だけで魔物の頭部を粉砕した。絶命したゴブリンは、そのまま後方の仲間を巻き込みながら泥沼へと沈んでいく。
「……計算が狂うな。やはり湿気が多いと、空気抵抗の補正に魔力を食う」
「え……えっ? 今、何をしたんですか? おじさん、手、振っただけ……」
「ゴミ掃除だ。……ほら、次が来ているぞ。棒を振るなよ、それはお前の『軸』だ。倒せば重力を上げる」
ガウェインは淡々と、次から次へと泥の弾丸を生成しては放っていく。
一発、また一発。
無駄のない指先の動きだけで、殺到するゴブリンたちの心臓や眉間が、寸分の狂いもなく撃ち抜かれていく。
それはもはや「戦闘」と呼べる代物ではなかった。
熟練の職人が、ベルトコンベアから流れてくる不良品を淡々と弾き飛ばしていくような、退屈で、合理的で、圧倒的な作業。
魔王軍の斥候たちは、自分たちの仲間が「ただの泥」で次々と絶命していく異常事態に、ようやく恐怖を覚えたのか足を止めた。
だが、ガウェインは逃がさない。
「……逃げる労力も無駄だ。ここで終わらせるのが、お前たちにとっても一番コストが低いだろう」
ガウェインが右足を軽く踏みしめる。
瞬間、周囲の泥濘が「ボコン」と大きく波打った。
重力波の伝播。
逃げようとしたゴブリンたちの足元で、泥がまるで生き物のように跳ね上がり、彼らの脚を強固に拘束する。
「さあ、若いの。俺が敵の足を止めてやった。……お前なら、どうする? 棒を持ったまま、泥の上を歩いて、そいつらの喉を突けるか?」
「えっ!? 僕が!? 無理ですよ、怖いですよ!」
「……ふん。怖がっている間に、あいつらの仲間が予備のナイフを投げてくるぞ。……生き残るための、最初の『一歩』だ。行け」
ガウェインはレオの背中を、重力魔法を込めた掌で軽く押し出した。
レオの身体が、氷の上を滑るように前方へと突き進む。
恐怖に顔を歪めながらも、レオはガウェインに教わった「垂直の棒」を握りしめ、泥に足を取られることなく魔物の目の前へと滑り込んだ。
ガウェインはそれを背後で眺めながら、残った泥の弾丸を指先で弄んでいた。
この程度の雑魚を相手にリミッターを外す必要など、微塵もない。
だが、彼にとっては日常の「作業」でも、泥まみれの新兵にとっては、それが人生の分岐点となることを、彼はよく知っていた。
「う、うわああああああああッ!」
絶叫と共に、レオは泥の海へと突き出された。
ガウェインに背中を押された瞬間、彼の身体には「前方への重力加速」が加わり、意思とは無関係に弾丸のような速度で滑り出していた。
目の前には、ガウェインの重力波によって足元を固められ、身動きの取れなくなったゴブリンが三体。
「突け、レオ! 呼吸を止めるな、軸をぶらすな!」
「む、無理無理無理っ! ああああっ!」
レオは恐怖で目を剥きながらも、握りしめた木の棒をがむしゃらに突き出した。
本来なら、腰が引けた素人の一突きなど、魔物の皮膚を掠めることさえ難しい。だが、今のレオには、背後からガウェインが調整した「慣性の重み」が乗っている。
――ドォンッ!
木の棒がゴブリンの胸板に触れた瞬間、それは槍で貫いたかのような衝撃となって魔物を吹き飛ばした。
続いて、反動で体勢を崩しそうになったレオの膝に、ガウェインが「鉛の重圧」を一瞬だけかける。
「ひぎゃっ!?」
強制的に地面へ縫い付けられたことで、レオの身体は転倒を免れ、不自然なほど完璧な「中腰の構え」へと復帰した。
レオ自身はパニックの極致にあるが、ガウェインによる外付けの重力制御が、彼の肉体を「達人の挙動」へと書き換えていたのだ。
「右だ! 棒の先端を、斜め下に置け!」
「み、右!? こっちですかぁっ!」
レオが言われるがままに棒を突き出す。
そこへ、拘束を無理やり引きちぎって跳躍してきたゴブリンが、自ら串刺しになるような形で衝突した。
バキッ、と。
生木の棒がゴブリンの喉笛を粉砕し、絶命した死骸が泥の中に沈む。
「……あ。あ、あれ……? 倒せた……? 僕が……?」
「……お前がやったんじゃない。お前の身体が、俺の『重み』に最適化されただけだ。……だが、生き残ったのは事実だな」
ガウェインはゆっくりと歩み寄り、残った最後の一体を指先の泥弾丸で仕留めた。
霧の奥にいた他の斥候たちは、この砦に潜む「正体不明の怪物」の力を悟ったのか、蜘蛛の子を散らすように気配を消していった。
静寂が、泥濘の砦に戻る。
レオは膝をつき、泥だらけの顔を上げて、信じられないものを見るような目で自分の手を見つめた。
ガウェインはそんな少年の頭を、大きな手で無造作に、しかし少しだけ優しく叩いた。
「……若いの。お前、さっきの突きで一度も足が滑らなかったな。……泥に負けない足腰。それがお前の、最初の戦果だ」
「……師匠……じゃなかった、おじさん。僕……僕、まだ生きてます。……死んでないです」
「ああ。……だが、生き残った対価は高いぞ。……ほら、受け取れ」
ガウェインが放り投げたのは、昨日市場で買った少し硬い乾燥肉と、携帯用の水筒だった。
「……食え。身体を動かした後は、胃を動かせ。……それとレオ。明日からは、その木の棒を三倍の重さにするからな」
「……え。……ええええええええええッ!? これ以上重くするんですかぁっ!?」
「当たり前だ。……引退勇者の近道に付き合うんだ。……この程度の『重み』、笑って背負えるようになれ」
ガウェインは焚き火の準備を始めながら、不機嫌そうに、しかしどこか満足げに鼻を鳴らした。
泥だらけの砦。
臆病な新兵と、お節介な老兵。
奇妙な二人組の夜が、静かに更けていく。
ガウェインの背中は、夜の闇の中でも、誰よりも深く、確かな質量を持ってそこに在った。




