第4話:英雄の休息は、赤子のごとく
意識が覚醒した瞬間、ガウェインを襲ったのは、全身を万力で締め上げられるような凄絶な「硬直」だった。
「……あ。あ、が……っ」
声にならない呻きが漏れる。
瞼を持ち上げるという、人間にとって最も基本的な動作にさえ、昨日リミッターを解除した代償――『超・筋肉痛』が容赦なく襲いかかってきた。
視界の端に見えるのは、村の宿屋の質素な天井だ。
ガウェインは、今の自分の身体がどうなっているかを頭の中でシミュレートしようとしたが、思考することさえ頭痛を誘発する。
筋肉の一筋一筋が、昨日の爆発的な出力を呪うように激しく主張し、関節は接着剤で固められたかのように一ミリの遊びも許さない。
「あ、師匠! 目が覚めましたか!?」
不意に、視界に明るい金髪が飛び込んできた。
エルナだ。彼女は濡れたタオルを手に、心配そうに――というよりは、どこか楽しそうにガウェインの顔を覗き込んでいる。
「……若いの。……その、声の、ボリュームを……三割、落とせ。……脳に響く」
「あ、すみません! でも、もうお昼ですよ。村長さんが、昨日の重装鬼の死骸を見て腰を抜かしてました。あんなの、人間が拳一つでやる仕事じゃないって」
「……俺も、そう、思う……。……あがっ、指が、指が勝手に曲がる……!」
ガウェインの指先が、筋肉の痙攣で不自然な方向に折れ曲がった。
エルナは「わわっ、大変!」と叫ぶと、ガウェインの右手を掴み、力任せに引き伸ばそうとした。
「ぎゃあああああああああああああッ! 待て、待てッ! お前、力が強すぎるッ! 重力修行の成果を、こんなところで発揮するなッ!」
「えっ、あ、ごめんなさい! 良かれと思って……。でも師匠、昨日あんなに格好良く『食らって失せろ』なんて言ってたのに、今はただの、湿布の匂いがするおじいちゃんですね」
エルナはクスクスと笑いながら、ガウェインの額に冷たいタオルを置いた。
ガウェインは屈辱に震えたが、震えることさえ痛みの燃料になるため、ただ「無」になることを選択した。
「……エルナ。……笑うのは勝手だが。……俺は、合理的に、動いているだけだ」
「ええっ、この状態で、どこが合理的……痛っ、叩かないでくださいよ!」
「……叩いていない、倒れ込んだだけだ。……いいか。あの重装鬼を、正攻法で倒そうとすれば、村が半分は壊れ、お前も死んでいた。……俺が一日、動けなくなるだけで、それが回避できる。……これほどコスパの良い解決法が、他にあるか……?」
息も絶え絶えに紡がれる「合理性」の論理。
エルナは呆れたように肩をすくめ、新しいタオルを絞り始めた。バキバキと、宿の桶が壊れそうなほどの握力で。
「師匠は、いつもそうやって自分を削って、一番効率的な答えを選んできたんですね。……魔王軍との戦いも、そうだったんですか?」
「……戦場に、華やかさなんて、ない。……あるのは、誰が生き残り、誰が死ぬかという、冷徹な数字だけだ。……俺は、数字を間違えるのが、嫌いなだけだ」
ガウェインは、重い瞼を再び閉じた。
本当は、もう少し気の利いた「勇者らしい」セリフを言いたい気もしたが、今の自分には、エルナに顔を拭いてもらう以外の選択肢がない。
三十年前。修行を始めたばかりの頃も、こうして動けなくなるたびに、当時の戦友たちに担がれて帰ったものだ。
あの頃と何も変わっていない。
ただ、隣でタオルを絞るのが、かつての仲間から、新しい世代の少女に変わっただけ。
「……あ。……若いの。……そのタオルの、位置が……鼻の穴を、塞いでいる。……殺す気か……?」
「あっ! ごめんなさい師匠! 死なないでください!」
引退勇者の休息は、安らぎというよりも、新たな受難の場と化していた。
昼時を過ぎた頃、宿の部屋には、空腹を刺激する芳醇な香りが満ち始めていた。
村長自らが「救世主殿に最高の感謝を」と息巻いて運び込んできたのは、広場に散らばっていたあのジャガイモを、村一番の料理番が腕によりをかけて調理した逸品の数々だった。
「ほら、師匠。村の皆さんが作ってくれたんですよ。『黄金ジャガイモのバター蒸し・岩塩とハーブを添えて』だそうです! あと、こっちはホクホクの芋をたっぷり練り込んだ特製ニョッキのクリームソース和えですって」
「……匂いで、わかる。……脂質と炭水化物の、完璧な暴力だ。……筋肉の修復には、最高の、燃料だな……」
ガウェインは寝台の上で、首だけをわずかに動かして料理を凝視した。
立ち上る湯気。溶けたバターが黄金色の肌を滑り、焦げたハーブの香りが鼻腔をくすぐる。
だが、今の彼にとって、その皿までの距離は地の果てよりも遠い。腕を伸ばそうとすれば、二の腕の筋肉が断線した弦のように「ピシッ」と悲鳴を上げるのだ。
「……若いの。……見ているだけでは、腹は、膨れん。……皿を、口元まで、持ってこい」
「もう、しょうがないですね。……はい、あーんしてください」
「……。……あー、んだと? 俺を、誰だと、思って……」
「いいから! ほら、冷めちゃいますよ。はい、あーん!」
エルナは一切の容赦なく、スプーンにたっぷり乗せたバターまみれのジャガイモをガウェインの唇に押し当てた。
ガウェインは屈辱に震え、周囲に誰もいないことを神に感謝しながら、観念して口を開いた。
――瞬間。
舌の上で爆発したのは、大地の恵みそのものの甘みだった。
ホクホクとした食感の後に、岩塩の鋭い塩気と、濃厚なバターのコクが追いかけてくる。噛みしめるたびに、ジャガイモの持つ力強い旨味が喉を通り、疲弊しきった細胞一つ一つに染み渡っていく。
「……、……美味い。……不覚にも、涙が、出そうだ」
「でしょ? この村のジャガイモ、本当にすごいんです。はい、次はニョッキですよ」
「……お前、さっきから、給仕を、楽しんでいないか?」
「気のせいですよ。……あ、ほっぺたにソースがついてますよ? 師匠、本当に手がかかるんだから」
エルナは楽しげに鼻歌を歌いながら、ガウェインの世話を焼き続けた。
かつては戦場で「鉄壁のガウェイン」と恐れられた男が、今は十八歳の少女にジャガイモを食べさせられ、口を拭われている。
合理的判断に基づけば、これほど効率的に栄養を摂取できる手段はない。
……ないのだが、ガウェインのプライドという名の装甲は、ジャガイモの甘みに負けてボロボロに溶け去っていた。
「……ふぅ。……これほど、満足度の高い、飯は、久しぶりだ。……あの、強欲な役人に、渡さなくて、正解だったな」
「そうですね。……あいつら、師匠が倒した魔物を見て、裸足で逃げ出したそうですよ。領主様に報告するって叫んでましたけど、村長さんたちが『勇者ガウェインの名の下に、不正を告発する』って言い返したら、顔を真っ青にして消えたそうです」
「……俺の名前を、勝手に、使うな……。……引退する、身だぞ……」
文句を言いながらも、ガウェインの表情は心なしか和らいでいた。
腹が満たされると、筋肉の痛みもわずかに鈍った気がする。
「師匠。この村の人たち、皆笑っていました。家を壊された人も、畑を荒らされた人も、みんなでジャガイモを分け合って、『これからだ』って。……私、騎士になって、こういう笑顔を守りたかったんだって、改めて思いました」
エルナの瞳は、窓から差し込む午後の光を反射して、昨日の戦場よりも明るく輝いていた。
ガウェインはそれを眩しそうに見つめ、ふっと小さく、重力のかかっていない吐息を漏らした。
「……ふん。……なら、その笑顔の、対価として……お前は、もっと、鍛えなければ、ならんな。……次は、三.五倍だ」
「ええっ!? 今それ言います!? ひどい、ジャガイモ返してください!」
宿の一室に、年甲斐のない軽口と、少女の抗議の声が響く。
筋肉痛の痛みさえ、今はその賑やかさを彩るスパイスのように感じられた。
三日が過ぎた。
ガウェインの超・筋肉痛はようやく治まり、彼は「二度とリミッターなど外さん」と心に誓いながら、宿の前の広場で軽く身体を動かしていた。
一方、エルナは朝から村の自警団や若者たちを集め、基礎的な剣の振り方を教えていた。その姿には、もはや当初の「見習い」としての迷いはなかった。
「……師匠。お身体、もう大丈夫なんですね」
稽古を終えたエルナが、汗を拭いながら歩み寄ってきた。
ガウェインは三倍の重力をかけ直し、地面を「ギュッ」と踏みしめると、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「ああ。……それで、若いの。お前、荷物がまとまっていないようだが」
「……はい。私、この村にしばらく残ろうと思います」
エルナは、どこか吹っ切れたような笑顔で答えた。
「今のこの村には、守り手が足りません。魔王軍の斥候は倒しましたが、また別の脅威が来ないとも限らない。……それに、あの役人がまた嫌がらせに来るかもしれません。だから、私がここで彼らを鍛えて、守れるようになりたいんです」
「……騎士団の任務はどうする。初任務の途中で村に居着くなど、除名されても文句は言えんぞ」
「構いません。格好だけの『騎士』になるより、今、目の前で助けを求めている人たちの『盾』になりたい。……それが、師匠に教わった『合理的な生き方』だと思ったんです」
ガウェインは鼻で笑った。
自分を削って他者を守ることを合理的と呼ぶのは、彼自身の歪んだ価値観だ。それをこの真っ直ぐな少女が継承してしまったことに、彼はわずかな責任と、それ以上の頼もしさを感じていた。
「勝手にしろ。……コスパの悪い生き方を選んだものだな」
ガウェインは背嚢から、古びた、しかし精緻な魔法文字が刻まれた銀のメダルを取り出した。
それを、エルナの手に無造作に放り投げる。
「……あ。これ、何ですか? すごく綺麗な魔法の波動が……」
「護符だ。……俺の魔力を込めてある。もし、お前の手に負えない『本物の絶望』がこの村を襲った時、それを強く握って念じろ。……俺の古い戦友たちに、その信号が届くようになっている」
「師匠の、お友達に……?」
「ああ。……まあ、どいつもこいつも隠居して腰が重い連中だが。……俺の名代が困っていると知れば、重い腰を上げて一本くらい魔法を飛ばしてくれるだろう」
それは、世界を救った伝説のパーティーが、緊急時に連絡を取り合うための『英雄の招集札』だった。
ガウェインはそれを、ただの「名刺」のような口振りで少女に託した。
「いいか。それは一回きりだ。……そして、それを使う時は、お前が死ぬ気で戦った後の、最後の最後だ。……簡単に俺たちを呼び出すなよ。老人の睡眠時間は貴重なんだからな」
「……はいっ! 大切にします。絶対に、無駄にはしません!」
エルナは護符を胸に抱き、深々と頭を下げた。
ガウェインはそれを見ることなく、既に街道の先へと意識を向けていた。
師弟としての時間は短かったが、彼女の中に蒔かれた種は、このジャガイモの村で強く、逞しく根を張ることだろう。
「……それと、エルナ。……重力修行は一日も欠かすな。次に会った時、お前の足音が『羽のように軽い』ままだったら、その時は破門だからな」
「ふふっ。はい、師匠! 三.五倍、頑張ります!」
不器用な激励。
それが、ガウェインなりの「別れの挨拶」だった。
翌朝。東の空が白み始める前、ガウェインは誰にも告げずに宿を出た。
別れの挨拶など、性に合わない。湿っぽい空気は、重力魔法を維持するための集中力を乱すだけだ。
三倍の加圧を全身に受けながら、彼は静まり返った村の目抜き通りを歩く。
一歩ごとに「ギュッ、ギュッ」と、霜柱を踏むような、密度の高い足音が夜明け前の空気に響いた。
ふと視線を落とせば、村の入り口にある大きな石碑に、誰が置いたのか、まだ湯気の立っている包みが供えられていた。
中身を確認するまでもない。鼻をくすぐる香ばしい香りが、あの黄金色のジャガイモであることを教えていた。
「……フン。余計な気を使いおって。荷物が重くなるだろうが」
ガウェインは悪態をつきながらも、その包みを丁寧に背嚢の隙間へ差し込んだ。
合理的判断によれば、現地調達できない食料を携行するのは基本だ。……たとえそれが、教え子の優しさという「重み」を伴っていたとしても。
村の外れにある丘に差し掛かった時、ガウェインは一度だけ足を止めて振り返った。
朝霧の向こうに、エルナが残った「北西の村」が見える。
数日前までは絶望に沈んでいた村に、今は再建を願う人々の灯火が点々と灯り始めている。
ガウェインの胸に、奇妙な感覚が去来した。
引退して、静かに隠居する。その目的のために始めた旅だったはずが、その第一歩で、彼はまた「守るべきもの」の種を蒔いてしまった。
「……呪いだな。これは」
自嘲気味に呟き、彼は前を向いた。
街道は北西へ。さらに深く、魔王軍の残影が色濃く残る未開の地へと続いている。
かつての戦友たちとの約束。そして、この世界のどこかで今も蠢いている「根源」を断つために。
彼が一人で旅を続けるのは、誰よりもこの世界の『重さ』を知っているからだ。
「さて、次の目的地は……魔法都市の残骸か。あそこの魔力汚染は、俺の重力計算を狂わせるから厄介なんだがな」
ガウェインは地図を広げることさえせず、自身の直感だけを頼りに歩き出した。
その時。
遠く、村の門の方から、少女の叫び声が聞こえた気がした。
『師匠ーーッ! 絶対、また会いましょうねーーッ!』
ガウェインは振り返らなかった。ただ、右手で軽く背嚢のベルトを締め直しただけだ。
一人の老兵が歩む道のり。
それは、三倍の重力を背負い、地面を穿ち、孤独を刻む過酷な行軍。
だが、その背中は、どんな若き英雄のそれよりも逞しく、揺るぎない。
太陽が昇り、ガウェインの長い影が前方の街道へと伸びる。
その影が、次なる「小目標」の舞台――不運な新兵が震える戦場へと繋がっていることを、まだ彼は知らない。
引退勇者の休息は、短く。
だが、その一歩一歩が、確実に世界の重みを変えようとしていた。




