第3話:騎士の誇りと、ベテランの匙加減
「あ、あがががが……っ! 師匠、待って、待ってください! 身体が、身体が変な方向に固まって……ッ!」
夜明けの森に、エルナの悲痛な叫びが木霊した。
無理もない。昨夜、一.五倍の重力下で数百回の素振りを強制され、そのまま地面で泥のように眠ったのだ。乳酸と疲労が蓄積した彼女の筋肉は、朝露に濡れて冷え固まり、今や錆びついた機械のように一歩動くたびに「ギチギチ」と音を立てんばかりの悲鳴を上げている。
対するガウェインは、昨夜の激闘(といっても座ったままの屠殺だが)などなかったかのように、涼しい顔で背嚢を背負っていた。
彼は悶絶するエルナを一瞥すると、無造作に指を鳴らした。
その瞬間、エルナを取り巻く空気がさらに「ドスン」と重くなる。
「ひぎゃんっ!?」
「……朝の挨拶代わりに三倍に上げた。筋肉痛を治す一番の薬は、血流を無理やり回すことだ。立て。立って歩けば、心臓が嫌でも血液を隅々まで送り届ける」
「ご、拷問です! これ、絶対騎士団の規約に触れるレベルの拷問ですよ……!」
「俺は騎士ではないし、お前もまだ騎士ですらない。……行くぞ。日が昇りきれば、村の連中が動き出す。余計な注目を浴びる前に到着するぞ」
ガウェインは容赦なく歩き出した。
エルナは白目を剥きかけながらも、本能的に「置いていかれたら死ぬ」と察し、四つん這いから這い上がるようにして立ち上がった。
重力三倍。
それは、昨夜の彼女が死に物狂いで耐えていた負荷の二倍。
だが不思議なことに、一度立ち上がってしまえば、昨夜学んだ「骨で立つ」という感覚が、呪いのように彼女の身体を支えていた。余計な力みを捨てなければ、文字通り圧死する。その極限状態が、彼女の身体に「効率的な直立」を強制させていたのだ。
「……はぁ、っ、はぁ……っ! し、師匠……意外と、いけます。動けます、私!」
「ふん。ならさらに五分、歩速を上げろ。村まであと一里(約四キロ)だ」
街道を抜けると、視界が開けた。
そこには、緩やかな斜面に広がる石造りの家々と、それを取り囲む畑が見える。「北西の村」――ギルドのミーナが言っていた、ガウェインの最後の一仕事の現場だ。
しかし、村に近づくにつれ、ガウェインの眉間に深い皺が刻まれた。
朝のこの時間帯、農村であれば畑を耕す音や、家畜の鳴き声、朝餉を準備する活気で溢れているはずだ。
だが、この村は静まり返っていた。
それも、のどかな静寂ではない。家々の窓は固く閉ざされ、路地には人影一つない。漂ってくるのは、怯えと停滞の気配だ。
「……不自然だな」
「えっ? あ、はい、確かに。魔王軍の斥候が出ているという話でしたが、それにしては……」
「いや、魔物ならもっと『荒らされた』跡が残る。家屋は無事、畑も手入れはされている。だが、人がいない。……これは、外敵よりも内側の毒が回っている顔つきだ」
ガウェインは鼻を鳴らし、重力魔法を隠密用の「低荷重モード(一.五倍)」へと切り替えた。
村の入り口にある、古びた宿屋兼酒場の看板が見える。
ガウェインは躊躇なくその扉を蹴破らんばかりの勢い(実際には蝶番を壊さないよう、精密に力を調整して)で開けた。
「……おい、店主。生きてるなら何か食わせろ。金ならある」
薄暗い店内に、ガウェインの野太い声が響く。
カウンターの奥で震えていた初老の男が、幽霊でも見たかのように顔を上げた。その顔は土気色で、ひどく癪に障るほど疲弊していた。
「あ、ああ……冒険者……ですか? 悪いことは言いません、すぐに立ち去ってください。この村は今、最悪の『徴収』の最中なんです……」
「徴収だと? 魔王軍が税でも取るようになったのか?」
「……いいえ。もっと質の悪い、人間の皮を被った魔物ですよ」
店主の言葉が終わるより早く、村の広場の方から、何かが壊れる鈍い音と、女性の悲鳴が聞こえてきた。
ガウェインは無言で店主の前に銀貨を叩きつけると、踵を返した。
「師匠! 悲鳴です!」
「わかっている。……エルナ、いいか。これから起きることは、魔物退治よりもよっぽど不愉快な仕事だ。正義感で目が眩まないよう、腹に力を入れておけ」
ガウェインの足取りが、僅かに速まる。
一歩踏み出すごとに、村の静寂が「どしん、どしん」という重苦しい足音に上書きされていった。
村の中央広場には、無残にもひっくり返された荷車と、泥にまみれたジャガイモが散乱していた。
その中心で、立派な毛皮の外套を羽織った小太りの男が、部下と思わしき武装した男たちを従えて踏んぞり返っている。
「……いいか、村長。これは『防衛特別税』だ。北西の街道に魔物が出たという報告がある。それを見逃してやっているのは、我が領主様の慈悲あってのことだぞ?」
「そ、そんな無茶な! 先月も納めたばかりです! これ以上持っていかれたら、冬を越すための種芋さえ……っ!」
地面に膝をつき、必死に懇願する村長の胸元を、役人の部下――質の悪い装備を纏った「ならず者冒険者」たちが、嘲笑いながら蹴りつけた。
エルナの顔が、怒りで真っ赤に染まる。腰の剣に手をかけ、一歩前に出ようとしたその瞬間。
がしり、と。
鉄の万力のような力で、ガウェインが彼女の肩を掴んだ。
「放してください、師匠! あんなの、放っておけません!」
「……待て。まずは状況の確認だ。感情で動くのは二流だぞ、若いの」
ガウェインはエルナを制しながら、広場の隅にあるベンチへと悠然と腰を下ろした。
どさり、という異常な重量音が響き、ベンチがミシリと悲鳴を上げたが、役人たちは自分たちの略奪に夢中で気づかない。
ガウェインは散らばったジャガイモの一つを拾い上げると、無造作に指で土を払い、じっと見つめた。
「……ほう。この土質でこれだけ実の詰まった『キタアカリ』系の品種か。蒸してバターを乗せれば絶品だろうな。引退後の隠居先で育てるには悪くない」
「師匠!? 今、そんな話をしている場合じゃ……っ!」
「重要だ。飯の美味くない村を救っても、後の楽しみがないだろうが」
ガウェインの声は、喧騒の中でも不思議なほど通った。
役人の一人――顔に大きな傷のある大男が、苛立った様子でこちらを振り返る。
「あぁん? なんだてめぇらは。見ねぇツラだな。……おい、そのジャガイモは領主様の所有物だ。勝手に触るんじゃねぇよ、おっさん」
「……おっさん、か。確かに否定はせんが、せめて『ベテラン』と呼んでほしいものだな」
ガウェインはジャガイモを大切そうに懐へ収めると、ゆっくりと立ち上がった。
彼が立ち上がっただけで、周囲の空気が「ピリッ」と凍りつく。それは殺気というよりも、物理的な圧力に近い。
「おい、役人。俺は今、ひどく腹が減っている。この村のジャガイモ料理を、平和に堪能したいだけなんだ。……その荷車を元に戻して、とっとと失せろ。今なら『公務執行妨害』で殴る手間を省いてやる」
広場に、一瞬の静寂が訪れた。
役人の男は、ガウェインのあまりにも堂々とした物言いに、呆気に取られた後、下卑た笑い声を上げた。
「……ハッ! 公務執行妨害だぁ? 笑わせんじゃねぇぞ。おい、野郎ども! この身の程知らずの老いぼれと、横の小娘を叩き出せ! 娘の方は、税の代わりに領主館へ連れて行ってもいいぞ!」
ならず者たちが、下卑た笑いを浮かべながら剣を抜き、二人を囲む。
エルナは緊張に身体を固くしたが、ガウェインは彼女の横で、大きな欠伸を一つした。
「……やれやれ。これだから若者はコスパが悪い。話し合いで解決すれば、治療費も浮くというのに」
「師匠、戦うんですか!? 私、準備はできています!」
「いや、俺は動かん。筋肉痛の予兆があるからな。……エルナ、お前が行け。昨夜の百回振った感覚を、このゴミ掃除で試してこい」
「えっ!? わ、私一人で……ですかっ!?」
ガウェインはエルナの背中を、無造作にポンと叩いた。
その瞬間、エルナを取り巻いていた「三倍の重力」が、パッと霧散する。
枷が外れた。
エルナの瞳が、驚愕に見開かれた。
「……え?」
枷が外れた瞬間。
エルナは、自分の身体が「消えた」のではないかと錯覚した。
先ほどまで全身を苛んでいた、泥沼に沈むような重苦しさが一掃されている。
それどころか、一呼吸置くだけで身体が勝手に宙へ浮き上がるような、異常な浮遊感。
三倍の重力下で「骨で立つ」ことを覚えた彼女の肉体は、今や標準の重力において、爆発的な反発力を生むバネへと進化していた。
「おいおい、腰が抜けて動けねぇのか? 安心しな、まずはその綺麗な顔を……」
先陣を切ったならず者が、下卑た笑みを浮かべて剣を振り下ろす。
エルナの視界。
いつもなら「速い」と感じるはずの刃が、まるで止まっているかのように見えた。
昨夜、重力に押し潰されながら魔獣の動きを先読みしようとした集中力。それが今の彼女に、敵の筋肉の動き、視線の先、剣の軌道を鮮明に伝えてくる。
「……遅い」
エルナは一歩、踏み込んだ。
ただの踏み込みではない。重力を撥ね除けようとする全身のバネが解放された、音なき突進だ。
シュンッ、と。
ならず者の男は、目の前の少女が消えたと思った。
気づいた時には、エルナの柄頭が男の鳩尾を深く抉っていた。
「が、はっ……!?」
ガウェイン直伝の、最短距離を通る一撃。
派手な剣筋も、無駄な叫びもない。ただ「そこに置く」ように放たれた衝撃が、男の意識を刈り取る。
「な、なんだぁ!? 今、何をした!」
「次、来るよ。……右、肩が上がってる」
エルナは、自分でも驚くほど冷静だった。
左右から襲いかかる二人の男に対し、彼女は最小限のステップでその間をすり抜ける。
これまでは「避ける」ために大きく跳び、体勢を崩していた。だが今は違う。
ガウェインに叩き込まれた「コンマ数秒、数センチの回避」。
耳元を刃が掠める音さえ心地よい。
彼女は、まるでダンスを踊るかのように、抜き放った剣の「腹」で男たちの手首を次々と叩いた。
「ぎゃあぁっ! 俺の腕が!」
「手が、手が痺れて剣が……っ!」
武器を落とし、蹲る男たち。
エルナは一度だけ剣を振って血(実際にはついていないが)を払う仕草を見せ、ガウェインを振り返った。
「師匠! すごいです、身体が、身体が勝手に動きます!」
「……ふん。浮かれるな。お前のそれは、まだ身体のポテンシャルを使い切れていない。今の動きでも三回は無駄な足首の捻りがあったぞ」
ベンチに座ったままのガウェインが、手元のジャガイモを弄りながら冷淡に指摘する。
だが、その瞳の奥には、わずかな満足感が宿っていた。
「ふ、ふざけるな! たかが小娘一人に……! 野郎ども、構わねぇ、殺せ! 殺してしまえ!」
役人の絶叫に、残った部下たちが顔色を変えて殺到する。
今度は遊びではない。殺意のこもった、一斉攻撃。
エルナは深く息を吐き、重心を落とした。
(大丈夫。師匠のあの『重み』に比べれば、こんなもの……!)
彼女は大地を蹴った。
銀色の閃光が広場を駆け抜ける。
重力修行によって鍛えられた脚力は、彼女の突進を「瞬間移動」に近い速度まで引き上げていた。
一人、また一人と、ならず者たちが虚空を斬り、直後に後頭部や腹部に衝撃を受けて沈んでいく。
わずか数十秒。
広場には、呻き声を上げる役人の部下たちと、呼吸一つ乱さずに立つエルナの姿だけが残された。
「……ば、化け物か、お前は……」
腰を抜かした役人が、後ずさりしながら震える指をエルナに向ける。
エルナは剣を鞘に納め、真っ直ぐに彼を見据えた。
「私はローレライ家の騎士、エルナです。……村の方々から奪ったものを、すべて返してください。さもなくば、次は剣の『峰』では済みません」
その凛とした立ち姿は、もはや見習いのそれではなく、一人の戦士としての威厳に満ちていた。
だが。
ドクン、と。
その場にいた全員の心臓が、一瞬だけ跳ね上がるような「不快な振動」が、北の森から伝わってきた。
ガウェインが、初めてジャガイモを懐にしまい、ゆっくりと立ち上がった。
「……エルナ。そこまでだ。……ゴミ掃除の時間は終わったぞ」
ガウェインの視線は、役人ではなく、その背後の森――影が濃く落ちる境界線へと向けられていた。
森の境界線から溢れ出してきたのは、先ほどのならず者たちとは比較にならない「死」の気配だった。
木々をなぎ倒し、泥を跳ね上げながら姿を現したのは、全長三メートルを超える巨躯――魔王軍の斥候隊が誇る『重装鬼』だった。
全身を分厚い漆黒の外部装甲で覆い、手には巨大な鉄塊の棍棒を握っている。
その単眼が広場の獲物を捉えた瞬間、空気が凍りついた。
「な、なんだ……あいつは。斥候……だと? あんなの、一個小隊が全滅するレベルの化け物じゃないか!」
腰を抜かしていた役人が、悲鳴を上げながら四つん這いで逃げ惑う。
エルナもまた、先ほどまでの高揚感が霧散し、身体が小刻みに震えるのを感じていた。
本能が告げている。先ほどまでの「ゴミ掃除」とは、前提条件が違う。
あの一撃を喰らえば、修行で鍛えた骨も肉も、一瞬でひき肉に変わるだろう。
「……師匠。あれ、は……」
「下がっていろ、エルナ。……強敵判定だ。お前の手には余る」
ガウェインは静かに、しかし有無を言わせぬ威圧感を持ってエルナの前に出た。
彼はゆっくりと、首の骨を鳴らす。
「……やれやれ。引退前の隠居先を下見に来ただけだというのに、どいつもこいつも俺の安眠を妨げおって。……おい、デカブツ。そのジャガイモを食うつもりなら、まずは俺の許可を取れ」
ガウェインの言葉に反応し、重装鬼が咆哮を上げた。
大地を揺るがす突撃。巨体が繰り出す棍棒の掃射は、周囲の家屋の軒先を紙細工のように粉砕し、ガウェインの頭上へと振り下ろされた。
エルナが悲鳴を上げようとした、その刹那。
ガウェインが、短く唱えた。
「――『重力転換・不動の枷、解除』」
瞬間、ガウェインの身体を包んでいた不可視の歪みが消滅した。
同時に、彼が自分にかけていた「三倍の重力」という名のエネルギーが、一点に凝縮され、突進してくる重装鬼の足元へと「転写」される。
どっ、と。
重装鬼の足元の地面が、一瞬で直径五メートルにわたってクレーター状に陥没した。
重装鬼の巨体が、まるで神の見えざる手に押し潰されたかのように、前のめりに地面へと叩きつけられる。自らの質量と、ガウェインから叩き込まれた重力デバフ。その相乗効果により、装甲さえもが「ベキベキ」と不穏な音を立てて歪んだ。
「グ、ア……ッ!?」
「……お前にはまだ、この『重み』は早すぎたか?」
ガウェインは、羽が生えたような軽やかな足取りで、もがく巨体へと近づいた。
リミッターを解除された彼の肉体は、三十年間の修行の成果――「重力下で培った爆発力」を、ついに解き放つ。
ガウェインが右拳を引いた。
ただの構えではない。全身の筋肉が、圧縮されたバネのように収縮し、放出の瞬間を待っている。
「……これぞ、引退間際の老人の『肩こり解消』だ。食らって失せろ」
閃光。
ガウェインの拳が、重装鬼の胸部装甲を直撃した。
音は、一瞬遅れてやってきた。
ドゴォォォォォンッ! という、大砲の着弾にも勝る轟音。
厚さ数センチの漆黒装甲が、ガラス細工のように粉々に砕け散り、その背後にある巨体の中心部まで衝撃波が突き抜ける。
重装鬼の巨体は、重力に逆らって後方へと吹き飛び、村の外れにある大樹をなぎ倒して、ようやく動かなくなった。
一撃。
魔法も、剣も必要なかった。
ただ「重力を解いて、殴った」だけ。
広場に、静寂が戻った。
ガウェインは、ゆっくりと息を吐き出すと、自身の腕を見つめて「ふん」と鼻を鳴らした。
そして、おもむろにその場に膝をつく。
「……あ。あぁ……やっぱり来たか」
「し、師匠! すごいです! 一撃で、あんな化け物を……!」
駆け寄るエルナ。だが、彼女が目にしたのは、先ほどまでの威厳あふれる勇者の姿ではなかった。
ガウェインの顔面は蒼白になり、全身が小刻みに震え、額からは脂汗が滝のように流れている。
「……おい、若いの。……捕まれ。……筋肉が、筋肉が……あがががががっ!」
「師匠!? えっ、どうしたんですか、急に!」
「……リミッターを、外したツケだ。……明日の朝まで、俺は……指一本、動かさん。……いや、動けん。……悪いが、今日の宿は、おんぶして連れていけ……」
ガウェインはそのまま、エルナの肩に崩れ落ちた。
あれほどの絶技を見せた男が、今はただの、全身筋肉痛で悶絶する情けないおじさんと化していた。
エルナは呆気にとられた後、ふっと小さく笑った。
「……わかりました。お任せください、師匠。ジャガイモ料理の美味しそうな宿を、私が探してきますから」
村人たちが、おそるおそる窓を開き始める。
英雄的な勝利と、それ以上に人間味あふれる「代償」。
引退勇者の「最後の一仕事」は、村の再生と共に、新たな師弟の絆を深く刻んで幕を閉じた。




