第2話:修行の基本は、歩くことと食べること
大牙狼の死骸から漂う血の匂いを背に、ガウェインは迷いのない足取りで街道を進んでいた。
背後からは、ガチャガチャと落ち着きのない金属音が追いかけてくる。
振り返らなくてもわかる。先ほどの見習い騎士――エルナが、必死に自分の後を追ってきているのだ。
「ま、待ってください! ガウェイン様!」
「様を付けるな。俺はただの引退間際のおっさんだ」
ガウェインは速度を緩めない。三倍の重力を維持したままの歩行は、彼にとっては「散歩」に等しいが、地面を踏みしめる重みは常人の比ではない。
エルナは息を切らしながら、彼の斜め後ろに並ぼうと必死に足を動かしている。
「あ、あの! 先ほどはありがとうございました! 私は騎士爵家の娘、エルナ・フォント・ローレライと申します。騎士団の見習いとして初任務の途中で……その、お恥ずかしいところを」
「名乗る必要はない。お前の家の格がどうあれ、大牙狼の牙の前では肉の厚みの違いにしかならん」
「それは……仰る通りです。ですが、あの瞬間のあなたの動き! 私、何も見えませんでした。魔法を使ったようにも見えなかったのに、どうしてあんな巨大な魔獣が……」
ガウェインは歩きながら、エルナの装備を横目で一瞥した。
やはり気に入らない。
右肩の甲冑がわずかに浮いている。長旅を想定しているはずなのに、予備の靴さえぶら下げていない。
「……若いの。お前、その剣を一度でも実戦で振ったことがあるのか?」
「えっ? そ、それは……演習では何度か。先生からは『筋がいい』と褒められていました!」
「その先生とやらは、お前の親に忖度したか、よほどの節穴だな。お前の剣の下げ方じゃ、抜刀する前に首が飛ぶ。それにその鎧だ。鏡のように磨く暇があるなら、関節部の革紐を泥で汚して馴染ませろ。音がうるさくて、隠密もクソもない」
ガウェインの容赦ない言葉に、エルナは「うっ」と言葉を詰まらせた。
普通、うら若き乙女にここまで言えば、泣き出すか怒り出すかのどちらかだ。だが、エルナの瞳には、怒りよりもむしろ「驚愕」と「渇望」が混じっていた。
彼女は、ガウェインの言葉が単なる嫌がらせではなく、血の通った「真実」であることを本能で察していた。
「……やっぱり、あなたは『本物』なのですね。父が言っていました。戦場には、風貌ではなく『気配』が周囲を押し潰すような達人がいると」
「気配だと? 重力魔法を制御しきれていないだけだ。迷惑な話だろう」
「いいえ! 私、決めました! あなたが向かわれるという『北西の村』まで、護衛として同行させてください!」
ガウェインは足を止め、深く溜息をついた。
重力の影響で、彼の足元の土が「メリッ」と音を立てて陥没する。
「……護衛だと? お前が俺をか?」
「はい! ……あ、いえ、正直に言います! 同行して、あなたの背中を見て、その……戦い方を学びたいんです! このままでは、私は次の角を曲がった先で死んでしまう気がします」
意外にも殊勝な言葉だった。
プライドを捨てて己の未熟を認める。それは冒険者や騎士が生き残るための、最も重要で、最も困難な資質だ。
だが、ガウェインは首を振った。
「断る。俺は引退の旅をしているんだ。不慣れなガキの世話を焼く義理はない。コスパが悪すぎる」
「コ、コスパ……? お礼はします! あ、でも、今は路銀が少ししか……。代わりに、野営の準備や食事の世話、装備の磨き上げは全部私がやりますから!」
「お前が磨いたら、俺の鎧の重心が狂う。余計なことはするな」
ガウェインは再び歩き出した。
だが、エルナは諦めなかった。
「なら、勝手についていきます! 街道は公共のものですから、後ろを歩くのは自由ですよね!」
「勝手にしろ。ただし、泣き言を言っても絶対に助けんぞ。……いいな?」
ガウェインは前を向いたまま、口角をわずかに歪めた。
合理的判断から言えば、ここで彼女を追い払うべきだ。
だが、その真っ直ぐすぎる、破滅に向かって全力疾走しているような危なっかしさが、彼の中に眠る「お節介なベテラン」の魂を僅かに刺激していた。
「よしっ、交渉成立ですね! 改めまして、よろしくお願いします、ガウェイン様!」
「様を付けるなと言っただろう……。それと、少し離れて歩け。お前にはまだ、この距離は早すぎる」
ガウェインの忠告の意味を、エルナはまだ理解していなかった。
彼女は元気に返事をすると、軽やかな足取りで――その直後に訪れる「地獄」を知る由もなく――ガウェインの後ろを追いかけ始めた。
「……はっ、はぁ、はぁ……っ! な、なん、ですか……これ……っ!」
歩き始めてから、わずか数分。
先ほどまで軽快に喋り続けていたエルナの喉から、余裕が削ぎ落とされた。
ガウェインの後ろ、三メートルほどの距離を歩き始めた途端、彼女の全身に「異変」が起きたのだ。
まるで、空気が泥に変わったかのようだった。
あるいは、目に見えない巨大な巨人の手が、頭上から自分を地面へ押し付けているような感覚。
一歩踏み出すごとに、太腿の筋肉が千切れそうなほどに軋み、膝が笑い、視界がチカチカと明滅する。
「お、重い……っ。急に、身体が……っ!」
「……ほう、まだ立っているか。案外、根性だけはあるようだな」
ガウェインは振り返りもせず、淡々と一定のペースで歩き続けている。
彼を中心に展開されている重力魔法『不動の枷』。
その余波が、半径数メートルにわたって『重力圏』を形成しているのだ。
ガウェイン本人が三倍の負荷を受けているのに対し、外周にいるエルナにかかっているのは、せいぜい一.五倍程度。
それでも、鍛錬を積んでいない未熟な騎士にとっては、致死的な重圧だった。
「ガ、ガウェイン様……これ、あなたの、魔法……!? 私、死んじゃい、ます……っ!」
「死ぬことはない。ただ、自分の『無駄』を突きつけられているだけだ」
ガウェインは足を止めず、背中で語る。
「いいか、若いの。お前が重いと感じているのは、地球の重力だけじゃない。お前のその、無駄な力みだ。重圧に抗おうとして全身に力を入れているから、筋肉が酸素を使い果たし、自分の重さに耐えられなくなっている」
「力まないなんて、無理……ですよっ! 立っているのが、やっと、なのに……っ!」
「なら、骨で立て。筋肉で支えようとするな。重心を臍の下に落とし、地球の核を貫くイメージで一本の線を引け。その線の上に身体を乗せれば、重力はお前を潰す力ではなく、お前を大地に安定させる味方になる」
エルナは歯を食いしばり、ガウェインの言葉を必死に理解しようとした。
視界が歪むほどの重圧。
だが、前を歩く男の背中を見れば、彼はその数倍は重いであろう鎧を纏い、背嚢を背負いながら、まるでおもちゃの羽でも背負っているかのように軽々と土を踏んでいる。
一歩ごとに地面が沈むほどの荷重。それなのに、彼の肩は微動だにせず、呼吸は寝息のように静かだ。
(……この人は、いつもこんな世界にいるの? 呼吸をするだけで、骨が軋むような、こんな場所で……!)
エルナは意識を集中させた。
ガウェインの言う通り、肩の力を抜き、重心の位置を探る。
「……あっ」
一瞬。
身体を支える軸が一本に繋がった瞬間、肺に空気が流れ込んできた。
依然として重い。だが、先ほどまでの「押し潰される絶望」が、わずかに「耐えられる負荷」へと変化した。
「……少しはマシになったな。だが、歩を止めるな。止まれば、また重力に飲まれるぞ」
「はい、っ……はい、師匠!」
「師匠と呼ぶな。……あと二時間、そのペースで歩き続けろ。村に着く頃には、お前のその浮ついた足運びも、少しは地に足がついたものになっているだろう」
ガウェインは無意識のうちに、魔法の範囲をエルナがギリギリ耐えられる強度に微調整していた。
合理的判断からすれば、同行を認めた以上、足手まといの移動速度を底上げするのが最優先だ。そのためには、強制的な加圧修行で「身体の使い方」を覚え込ませるのが一番効率がいい。
(……やれやれ、我ながらお節介が過ぎるな)
内心で毒づきながらも、ガウェインはエルナが脱落しない絶妙な速度を維持した。
街道を歩く奇妙な二人組。
一人は、重力で地面を凹ませながら歩く中年男。
もう一人は、生まれたての小鹿のように脚を震わせながら、必死にその後ろ姿を追いかける少女騎士。
エルナの磨き上げられた銀の鎧は、いつの間にか汗と土埃にまみれていた。
だが、その瞳に宿る光は、街を出た時よりも遥かに鋭く、澄み渡っていた。
「……あ、あの、師匠! 一つ、聞いていいですかっ!」
「喋る余裕があるなら脚を動かせ。……なんだ」
「師匠は……どうして、自分にこんな魔法を、かけているんですか? 普通、重力魔法は、敵に使うもの、でしょう……?」
「……敵は、いつだってお前自身の『弱さ』だ。……それと、加圧トレーニングの方が、引退後のボケ防止に効く気がしてな」
最後のは照れ隠しのような嘘だったが、エルナはそれを「深い哲学」として受け止めたのか、尊敬の眼差しを強めて、再び苦悶の表情で一歩を踏み出した。
太陽が西の稜線に隠れ、街道が深い藍色に染まり始めた頃、ガウェインはようやく足を止めた。
そこは街道から少し外れた、風通しの良い高台だった。
「ひ、ひぎゃ……っ!」
ガウェインが重力魔法の範囲を解いた瞬間、エルナは糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
数時間に及ぶ『一.五倍重力行軍』。彼女の脚は、自分のものではないかのようにガクガクと震え、鎧の重みが、今さらになって真綿で首を絞めるようにのしかかっていた。
「……今日はここまでだ。若いの、死んでいないなら火を熾せ」
「む、無理です……指一本、動きません……っ」
「なら、今日の飯は抜きだな。俺の辞書に『給仕』という言葉はない」
ガウェインは冷淡に言い捨てると、背嚢を下ろした。
どさり、という重量感のある音が土を叩く。
彼は手慣れた動作で周囲の石を集めて竈を作り、市場で買った「油の染みた古布」を取り出した。魔石式の着火具に頼らず、火打石を一度打ち鳴らす。
シュン、と小さな火花が古布に宿り、やがて安定した焚き火へと育っていく。
その間、エルナは芋虫のように地面を這い、ようやく焚き火のそばまでたどり着いていた。
「……師匠。その、火の熾し方一つとっても、無駄がないんですね……」
「無駄をすれば、それだけ休息の時間が減る。戦場での一分は、睡眠薬一錠よりも価値があるからな」
ガウェインは水筒から小鍋に水を注ぎ、焚き火にかけた。
そして、あの乾物屋で買った「北部の岩塩で締めた乾燥肉」と「硬焼きパン」を取り出す。
そのまま食べれば、顎が外れるほど硬い保存食だ。
だが、ガウェインは乾燥肉を短剣で薄く削ぎ切りにし、沸騰した湯の中に放り込んだ。
さらに、背嚢の奥底から小さな瓶を取り出す。中には、数種類の乾燥ハーブと、砕いたナッツが混ざった特製の調合調味料が入っていた。
「……いい匂い。ただの乾燥肉のはずなのに、どうして」
「北部の岩塩は、熱を加えると独特の甘みが出る。そこにハーブの香りを乗せれば、泥水のような保存食でも、高級宿のスープに化ける。……ほら、パンを浸して食え。そのまま噛むなよ、歯が折れるぞ」
ガウェインは、木製の器に並々と注いだスープをエルナに差し出した。
エルナは震える手でそれを受け取り、熱いスープに浸かって柔らかくなった硬焼きパンを一口、口に運んだ。
「っ……美味しい……! 何これ、身体の芯まで染み渡るみたい……っ」
「塩分と糖分、それにナッツの脂質だ。疲労した筋肉が一番欲しがっているものを、最も消化に良い形で流し込む。それがベテランの食事だ。華やかさはないが、明日の一歩を保証してくれる」
ガウェイン自身も、無言でスープを啜る。
かつて、魔王軍との戦いの中で、雪山に閉じ込められたことがあった。
あの時、凍える手で仲間たちと分け合った、このスープの味。
今は亡き戦友の一人が、「引退したら、この味を売り出す店でも開くか」と笑っていたのを思い出す。
「……師匠、あの。私、思っていました。勇者様たちの旅って、もっと……こう、魔法で豪華なテントを出したり、ご馳走を食べたりするものだって」
「それは吟遊詩人が作る物語の中だけの話だ。実際の旅は、泥と、空腹と、自分自身の重さとの戦いだ。……魔法で贅沢をする魔力があるなら、それを一発でも多く、敵を殺すための重力に回すべきだ。それが俺の合理性だ」
エルナはスープを飲み干すと、ふぅ、と深い溜息をついた。
重力から解放され、温かい食事が胃に落ちたことで、ようやく彼女の顔に赤みが戻ってきた。
「……合理性。私、今まで格好ばかり気にしていました。でも、師匠の作るこのスープの方が、騎士団の晩餐会よりもずっと、私を強くしてくれる気がします」
「……ふん。口の減らんガキだ。食べたらさっさと寝ろ。見張りは俺がやる」
「えっ、でも師匠も疲れているはずじゃ……」
「俺は三倍の重力を背負って寝るのが日常だ。お前のような初心者に横で寝返りを打たれる方が、よっぽど眠れん」
ガウェインはそう言って、焚き火のそばに座り込んだまま、目を閉じた。
横になることさえせず、座ったまま休息を取る。
それは、いかなる急襲にも即座に対応できる「戦闘睡眠」の構えだった。
エルナは、その無骨な横顔を見つめながら、毛布にくるまった。
パチパチと爆ぜる焚き火の音と、ガウェインの静かな呼吸。
かつてないほどの全身の痛みを感じながらも、エルナは不思議な安心感に包まれ、深い眠りへと落ちていった。
深夜、焚き火が赤い炭火へと姿を変えた頃。
森の深淵から、無数の「光」が浮かび上がった。それは星の輝きではなく、飢えた捕食者の瞳――夜行性の魔獣『影這い(シャドウクリーパー)』の群れだった。
彼らは音もなく距離を詰め、毛布の中で泥のように眠るエルナへと狙いを定める。
だが、その標的に牙が届くより早く、闇の中に低い声が響いた。
「……夜食にしては、少々数が多いな」
ガウェインは目を開けていた。いや、最初から眠ってなどいなかった。
彼は座った姿勢を崩さず、膝の上に愛剣を鞘ごと横たえたまま、冷徹に状況を把握していた。
影這いたちが、一斉に跳躍する。
その瞬間、ガウェインの周囲の空気が、爆鳴と共に凝縮された。
『不動の枷』――指向性展開。
ガウェインが自分にかけていた三倍の重力を、扇状に、前方へ向けて「放出した」。
空中で襲いかかろうとした魔獣たちは、まるで不可視の巨大な鉄槌に叩かれたかのように、不自然な角度で地面へと叩きつけられた。
ミシリ、と骨の砕ける音が静寂を切り裂く。
ガウェインは立ち上がらない。左手で鞘を固定し、右手で柄をわずかに三センチほど引き抜いた。
キィィ、と金属が擦れる音が一度だけ響く。
重力によって地面に縫い付けられ、身動きの取れない魔獣たちの首筋へ、抜刀の衝撃波――真空の刃が最短距離で駆け抜けた。
血飛沫が舞う。だが、ガウェインの鎧には一滴の汚れも付かない。
最小限の動き。最小限の魔力。
「座ったまま殺す」という、およそ騎士の決闘とは程遠い、効率のみを追求した屠殺の光景。
「……ひ、えっ!? な、なんですかっ!?」
異様な衝撃音と血の匂いに、エルナが跳ね起きた。
彼女が慌てて剣を抜こうとして、自分の手足が鉛のように重いことに気づき、再び地面に這いつくばる。
「動くな。まだお前の『修行』の範囲内だ」
「師匠! これ、魔物……!? えっ、もう死んで……?」
エルナの目の前には、頭部を正確に断たれた影這いの死骸が転がっていた。
彼女の視線が、平然と座ったままのガウェインへと向く。
彼は既に剣を鞘に収め、炭火に新しい薪をくべていた。
「いいか、若いの。お前は重力下での疲労で、周囲の警戒を完全に切らしていた。もし俺がいなければ、今頃お前の綺麗な首筋には、あいつらの牙が刺さっていただろう」
「申し訳、ありません……。私、全然気づかなくて……」
「謝る暇があるなら、今の感触を覚えておけ。……なぜ、お前の身体が今、これほど重いかわかるか?」
エルナは、脂汗を流しながら自分の身体を見下ろした。
先ほどよりもさらに重い。立ち上がるどころか、呼吸をするだけで胸が痛む。
「お前が寝ている間、俺はお前への加圧を二倍に上げた。……魔物が近づいた時、お前の身体は本能的に逃げようとしたはずだ。だが、重力がそれを許さなかった。お前は逃げる代わりに、無意識のうちに『重圧の中でどう動くか』を思考した。それが、死線を潜るための第一歩だ」
ガウェインは、立ち上がれないエルナの前に、一本の棒を放り投げた。
「夜明けまであと三時間。その重力の中で、その棒を百回振ってみろ。一回でも『正しい位置』を通れば、明日の朝飯に干し肉を一枚増やしてやる」
「百回……!? この重さで……っ?」
「嫌なら寝ていろ。明日、筋肉痛で動けなくなったお前を置いていく手間が省ける」
ガウェインの突き放すような言葉。
だが、エルナは震える手で棒を掴んだ。
彼女は理解していた。ガウェインが座ったまま魔物を仕留めたのは、単なる力の誇示ではない。
「どんな状況でも、最小限の力で目的を遂行する」という、ベテランの真理を見せてくれたのだと。
「……やります。やってみせます、師匠!」
深夜の森に、少女の苦悶に満ちた呼気と、空を切る鈍い音が響き始める。
ガウェインはそれを背中で聞きながら、再び目を閉じた。
(……やれやれ、本当にコスパの悪い旅だ。隠居先を見つける前に、俺の筋肉痛が限界を迎えそうだな)
翌朝。
そこには、朝露に濡れた地面で、棒を握りしめたまま「くの字」に固まって動けなくなっているエルナと、
「おい、出発だ。立てないなら引きずっていくぞ」と、情け容赦なく背嚢を背負うガウェインの姿があった。
引退勇者の旅は、まだ始まったばかりである。




