第1話:引退勇者の静かなる(?)日常
ドスン
寝台から足を下ろしただけで、床板が悲鳴を上げた。
宿屋の一室、早朝の静寂を破るその音に、ガウェインは「やれやれ」と頭を振った。
四十五歳。冒険者として、そして勇者として三十年を戦い抜いてきた肉体には、至るところにガタが来ている。特に、目覚めてすぐの膝と腰の強張りは、魔法でどうにかなる種類のものではない。
「……ふん、ぬっ!」
短く呼気を吐き出し、立ち上がる。
その瞬間、ガウェインを取り巻く空気が目に見えて歪んだ。
重力魔法『不動の枷』。
彼が二十代の頃から一瞬たりとも欠かさず、自分自身にかけ続けている制約だ。
現在の倍率は、標準的な重力の五倍。
常人であれば内臓が押し潰され、毛細血管が弾けて即死する絶圧である。それをガウェインは、朝の洗顔をするのと同じ平然とした顔で受け止めている。
いや、平然とは言い難い。
加圧された筋肉は鋼のように硬くなり、一歩踏み出すごとに床がみしりと沈み込む。
「……重いな。昨日より少し、骨に響く」
寝ぼけ眼をこすりながら、壁に立てかけてあった重装鎧を手にする。
使い古され、無数の傷が刻まれたその鉄塊を身に纏う動作は、流れるようにスムーズだ。重力で体の動きが制限されているはずなのに、その挙動には一切の無駄がない。
最小限の力で、最短の軌道を通る。
それが、この異常な重圧下で三十年を生き抜くために彼が編み出した『技巧』の極致だった。
鎧の最後の一箇所を締め終え、ガウェインは鏡を見た。
そこには、手入れの行き届かない無精髭と、どこか冷めたような、それでいて深い経験を感じさせる瞳を持つ中年男が映っていた。
かつて世界を救ったパーティーの一員。
『金剛のガウェイン』。
そんな大層な二つ名で呼ばれた時期もあったが、今ではギルドの隅で若者に小言を吐く、煙たがられる古参の男に過ぎない。
「さて……今日で終わりだ」
独り言が、冷えた朝の空気に溶ける。
引退。
その二文字を胸に抱いて、ガウェインは部屋を出た。
階段を下りる足取りは慎重そのものだ。気を抜けば、重力魔法の余波で宿屋の階段を粉砕してしまう。
合理的であること。
準備を怠らないこと。
それがガウェインの信条だ。
宿の主人がまだ寝静まっているのを確認し、彼はカウンターに宿泊代と、床を少し傷つけたことへのわずかな色をつけて置いた。
宿の外へ出ると、冷涼な風が頬を打った。
まだ夜明け前の街並みは静まり返っている。
ガウェインは街外れの広場へと向かった。そこが彼の、三十年間欠かしたことのない修行場だ。
広場の中央に立つと、彼は腰の剣を抜くことさえせず、ただゆっくりと腰を落とした。
五倍の重力下でのスクワット。
地味で、過酷で、何の華やかさもない光景。
だが、その一挙手一投足には、数多の死線を潜り抜けてきた男の『厚み』が凝縮されていた。
「一、二……三……」
筋肉が悲鳴を上げ、関節が軋む。
だが、ガウェインの心は凪いでいた。
彼は知っている。魔王軍の幹部が放つ一撃の重さを。
死の淵で、わずか数センチ体をずらすだけで命を拾えることを。
この『重み』に比べれば、戦場での恐怖など取るに足らない。
「……挨拶もできんような若造が、昨日は魔王を倒すと息巻いていたな」
昨夜、酒場で大声を上げていた新米冒険者たちの姿を思い出す。
装備はピカピカだが、重心が浮いている。
声は大きいが、周囲への警戒が疎かだ。
そんな奴らから死んでいく。
自分もかつてはそうだった。多くの仲間を失い、死に物狂いでこの重力魔法を編み出し、自分を追い込んできた。
だが、もういいだろう。
魔王軍の本隊は北部へ退き、この辺りには小規模な群れしか出没しない。
自分のような老兵が、重力で地面を凹ませながら街を歩く時代ではないのだ。
「……九十九、百」
修行を終えたガウェインの額からは、滝のような汗が流れていた。
だが、呼吸は乱れていない。
彼はゆっくりと立ち上がり、自身の魔法を微調整した。
五倍から、移動用の三倍へ。
ふっと体が軽くなった錯覚に陥るが、それでも地面にかかる荷重は常人の三倍だ。
彼は足元に残った深い足跡を、慣れた手つきで周囲の土を寄せて均した。
立つ鳥跡を濁さず。
引退を決めた男にふさわしい、静かな朝の始まりだった。
街の中央に位置する冒険者ギルド『双剣の銀翼亭』の扉を、ガウェインはいつものように慎重に開けた。
勢いよく開ければ、蝶番が吹き飛ぶ。そんな些細な気遣いも、三倍の重力を背負う彼にとっては「合理的な判断」の結果だ。
朝のギルドは、活気に満ちていると同時に、どこか浮き足立った空気が漂っていた。
これから依頼へ向かおうとする若者たちの甲高い声。武器の手入れをする金属音。そして、安っぽいエールの匂い。
「おっ、ガウェインの旦那! 今日も朝から重苦しいツラしてまんなぁ!」
声をかけてきたのは、受付カウンターの近くでたむろしていた若手パーティのリーダー、カイルだった。
二十歳そこそこの、勢いだけは一人前の剣士だ。その隣では、仲間たちがクスクスと笑いながらこちらを見ている。
ガウェインは足を止めず、低い声で返した。
「……カイル。お前、その剣の下げ方はなんだ。柄がわずかに右に寄っている。抜く時にコンマ数秒、鞘に引っかかるぞ」
「へーへー、また始まった。旦那の『一秒を惜しむ者が一生を得る』教訓っすね? でも俺ら、旦那みたいにノロマな戦い方はしないんで。スピード重視、最新の流行りですよ」
カイルが仲間と肩を組み、大げさに身をかわす仕草を見せる。
ガウェインは内心で深く溜息をついた。
スピード重視、聞こえはいい。だが、その足運びでは濡れた石畳一つで体勢を崩す。戦場での『速さ』とは、単なる移動速度ではなく、いかに無駄を省き、いかに予備動作を消すかにある。
それを教えようとしても、この年代の連中には「おっさんの説教」としてしか響かない。
「……死なない程度にやってこい。装備の手入れを怠るなよ」
「了解っすよ、お師匠様! じゃ、俺たちは魔王軍の残党狩りに行ってきまーす!」
嵐が去るように若者たちがギルドを出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、ガウェインはカウンターへと歩を進めた。一歩ごとに、ギルドの床が「ギィ……ギィ……」と、不穏な悲鳴を上げる。
カウンターの奥にいたのは、十年来の付き合いになる受付嬢のミーナだった。彼女はガウェインの顔を見るなり、苦笑いを浮かべて羽ペンを置いた。
「おはようございます、ガウェインさん。今日も床の強度が試されていますね」
「……おはよう、ミーナ。宿の床も昨日より沈んだ。そろそろ潮時だと思ってな」
「潮時?」
ガウェインは鎧の内側から、丁寧に畳まれた一枚の羊皮紙を取り出した。
それを、音を立てないよう静かに——しかし、三倍の重力のせいで「ドン」という鈍い音と共に——カウンターに置いた。
「引退届だ。受理してくれ」
ミーナの動きが止まった。
彼女は羊皮紙を手に取り、そこに記された内容を二度、三度と読み返す。
「……本気、なんですか? あなたが辞めたら、ここの平均レベルがガタ落ちですよ。それに、北部での戦況はまだ不安定だって、ギルド長も心配して……」
「北部には、新しい世代の『勇者』とやらが送られたんだろう? なら、俺のような骨董品の出番はない。……それに、最近は膝が笑ってかなわん。重力を維持するだけで精一杯だ」
それは、半分は嘘で、半分は真実だった。
身体能力の衰えは確かに感じている。だが、それ以上に「守るべきものがなくなった」という空虚さが、彼の背中を押していた。
かつての戦友たちは、今や一国の軍を率いる将軍や、魔法塔の主、あるいは悠々自適な領主だ。自分だけが、現場の空気にしがみついている必要はない。
「……わかりました。一応、預かっておきます。でも、即受理とはいきませんよ? ギルド長の判子も必要ですし、何よりガウェインさんに片付けてもらいたい『事務処理』が山ほど残っていますから」
「事務処理だと?」
「ええ。あなたが各地で『ついでに』壊した地形の修繕報告とか、やりすぎた過剰防衛の苦情処理とか。あと、あなたに勝手に弟子入りした気になっている若者たちへの、最後のお別れもね」
ミーナは悪戯っぽく笑いながら、引退届をカウンターの下に仕舞い込んだ。
ガウェインは眉間に皺を寄せた。
壊した地形、と言われても心当たりは一つや二つではない。重力を制御しきれず、地面を陥没させたことなど日常茶飯事だ。
「……面倒なことだ。引退するのも一苦労か」
「それが『生ける伝説』の責任ってものですよ。あ、そうだ。引退するにしても、最後の一仕事くらいはしていってくださいね? ちょうど、北西の街道沿いの村から、護衛の依頼が来ているんです」
「護衛か。新人にやらせればいいだろう」
「それが……さっきのカイルくんたちが『あんな地味な仕事、報酬が安すぎてやってられない』って断っちゃって。でも、あそこは最近、魔王軍の斥候らしき影が見えるって噂があるんです」
ガウェインは舌打ちしそうになった。
報酬が安い。地味。
だからこそ、新人が受けるべき仕事なのだ。そこで基礎を学び、地味な仕事の積み重ねが命を守ることを知る。
それを放棄して、華やかな「残党狩り」へ向かう今の若者の風潮には、ヘドが出る。
「……やれやれ。これだから若者はコスパが悪い。俺が魔王城に向かうついでに、その村を通ってやる。受理しろ」
「ありがとうございます! じゃあ、これが依頼書です。……あ、ガウェインさん」
踵を返そうとしたガウェインに、ミーナが真剣な声をかけた。
「魔王城に『向かうついで』って言いましたけど……本当に行くつもりなんですか? たった一人で」
「……約束したからな。あいつらと。誰かがトドメを刺しに行かなきゃならん」
ガウェインはそれだけ言うと、今度は少しだけ力を込めて扉を開けた。
ギィィ……と鳴る扉の音は、まるで引退間際の中年男の悲鳴のようだった。
外の光が、三倍の重力を背負う彼の背中を、残酷なほど明るく照らしていた。
ギルドを後にしたガウェインは、市場の喧騒の中へと身を投じた。
三倍の重力を維持しながらの歩行は、傍目には悠然とした大人の余裕に見えるかもしれないが、実際には一歩一歩が精密な魔力制御の産物だ。
石畳を割らないよう、荷重を分散させる。同時に、行き交う人々との接触を避ける。
もし、不注意な子供が彼にぶつかれば、それは時速六十キロで走る鉄の塊に激突するのと同じ結果を招くからだ。
「……さて。最後の旅だ。妥協は許されん」
ガウェインは市場の片隅にある、年季の入った乾物屋の前に立った。
店主の老人は、ガウェインの顔を見るなり、カウンターの下から特別な包みを取り出した。
「旦那、いつものやつかい? 北部の岩塩で締めた乾燥肉と、三年保存が利く硬焼きパンだ」
「ああ。それと、水に溶かして飲む栄養粉末を三週間分。それから、予備の着火剤だ。最近の魔石式は便利だが、魔力封じの罠の中ではただの石ころになる。油を染み込ませた古布が一番確実だ」
店主は感心したように頷きながら、商品を包んでいく。
今の若手冒険者なら、魔法の鞄に贅沢な食料を詰め込み、魔石式の調理器具を持って意気揚々と出かけるだろう。
だが、ガウェインは違う。
彼は知っている。魔王軍の支配域に一歩足を踏み入れれば、最も頼りになるのは「魔法がなくても機能する、原始的な道具」であることを。
そして、空腹は剣を鈍らせ、準備不足は死に直結することを。
「旦那も相変わらずだねぇ。今どき、そんな重い荷物を背負って歩く奴なんていやしないよ」
「……重いのは慣れている。重みがないと、どうにも落ち着かなくてな」
ガウェインは皮肉げに笑い、代金を払った。
商品の入った袋を手に取ると、一瞬だけ指先に力がこもり、袋の取っ手がミシリと鳴った。
慌てて魔力を調整し、事なきを得る。
三倍の重力下での生活は、彼に「常人の三倍の筋力」を要求する。その調整ミスは、日常のあらゆる場面で破壊を招く。
次に彼が向かったのは、街の外れにある小さな武具店だった。
看板は傾き、客の姿もない。だが、ガウェインは迷わずその暖簾をくぐった。
「親父、いるか。防具の最終調整を頼みたい」
店の奥から、煤けた顔のドワーフが現れた。
彼はガウェインの鎧を見るなり、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……またその鎧か。いい加減、新しいのを打たせろと言っているだろう。そんな化石みたいな鉄板、今の俺ならもっと軽く、もっと頑丈に作れる」
「断る。こいつは俺の『重心』を一番よく知っている。軽くされたら、俺の魔法の計算が狂う」
「ケッ、修行馬鹿が。……まあいい、脱げ。関節部の油差しと、革紐の交換だな」
ガウェインが重い鎧を脱ぎ、カウンターに置くと、ドワーフの作業台が「ゴリッ」という嫌な音を立てて数センチ沈み込んだ。
ドワーフはそれを見て呆れたように溜息をついた。
「おい、また重力を上げただろう。この鎧自体の重さは変わってないはずなのに、置いた瞬間にこれだ。お前の魔力が染み付いて、鎧そのものが質量を持とうとしてやがる」
「……気のせいだ。最近、少し体が重いだけだ」
「四十を過ぎた男のセリフじゃないな。……まあ、一時間で終わらせてやる。奥で茶でも飲んでろ」
出された茶を啜りながら、ガウェインは店内の隅に置かれた一本の剣に目を留めた。
それは、派手な装飾が施された、儀礼用の細身の剣だった。
最近の『勇者志願』の若者たちが好みそうな、軽くて美しい剣。
ガウェインは自分の横に置かれた、無骨で厚みのある愛剣を見つめた。
かつて、魔王軍の幹部と切り結んだ際、その一撃の重さに耐えきれず、多くの仲間の剣が折れた。
生き残ったのは、ガウェインのように「美しさ」を捨てて「頑丈さ」と「重量」を選んだ者だけだった。
「……美学だけじゃ飯は食えんし、命も守れん。お前らもそう思うだろう?」
ガウェインは、既にこの世にいない、あるいは遠い場所で隠居しているかつての仲間たちに問いかけるように呟いた。
返ってくるのは、ドワーフが振るう槌の音だけだ。
調整を終えた鎧を再び身に纏う。
革紐が新しくなり、関節の動きが滑らかになった。
ガウェインは立ち上がり、軽く肩を回す。
三倍の重力が、心地よい拘束感となって彼を包み込む。
これだ。この『枷』があってこそ、自分は自分であれる。
「代金だ。……親父、世話になったな。しばらくは戻らん」
「……フン。死ぬなよ、ガウェイン。お前みたいな偏屈な客がいないと、俺の槌も鈍っちまう」
店を出ると、日は既に高く昇っていた。
市場の喧騒はさらに増し、平和そのものの光景が広がっている。
ガウェインは背嚢のベルトを締め直した。
中身は三週間分の乾燥肉、水、予備の着火剤、砥石、そして少々の着替え。
華やかな勇者の旅立ちとは程遠い、まるで夜逃げのような、地味で、合理的で、重苦しい準備。
「……さて。まずはその『北西の村』とやらへ向かうか。引退後の隠居先として、適しているかどうか見極めてやる」
彼は独り言を吐き捨てると、雑踏の中を悠然と歩き出した。
彼の通った後の地面には、誰も気づかないほど微かな、しかし等間隔の深い足跡が残されていた。
街の北西門。そこは魔王軍の脅威が薄れた今、交易路としての活気を取り戻しつつあった。
ガウェインは門番にギルドの通行証を提示し、街の外へと一歩踏み出した。
三倍の重力下にある彼の足が土を踏みしめると、乾燥した地面から「ギュッ」と身の詰まった音が漏れる。
「……ふむ。やはり土の上の方が足裏の感覚が分かりやすいな」
石畳の上では、床を壊さないための魔力制御に神経の三割を割かなければならない。
それに比べれば、少々沈み込んでも文句を言わない土の道は、ガウェインにとって唯一リラックスできる場所でもあった。
もっとも、リラックスといっても五倍の負荷を三倍に緩めているだけなのだが、彼にとってはこれが「羽が生えたような軽やかさ」なのだ。
街道をしばらく進むと、前方に一台の馬車と、それを取り囲むように歩く一団が見えた。
その最後尾に、ひときわ目立つ「浮いた」存在がいた。
輝く金髪を一つに束ね、太陽の光を反射するほどピカピカに磨かれた銀の鎧。
背負っているのは装飾の施された立派な長剣だ。
ガウェインは一目見て、深い溜息をついた。
「……あれは、昨日ギルドで騒いでいた若造どもの仲間か? いや、あれはもっと質が悪い。実戦の『匂い』が微塵もしない」
その少女騎士――エルナは、周囲の警戒をしているつもりなのだろうが、視線が泳いでいる。
足の運びは不安定で、重心が高い。あれでは不意に足元を掬われれば、重い鎧の自重で起き上がることさえ苦労するだろう。
何より、彼女が手にしている革の手袋は、まだ指の形に馴染んでさえいない。
ガウェインは関わり合いを避けるように、街道の端を一定のペースで歩き続けた。
だが、すれ違いざま、彼の鋭い感覚が「音」を捉えた。
街道沿いの茂み。
風の音に混じり、生き物が喉を鳴らす微かな振動。
そして、嗅ぎ慣れた――獣の腐敗臭。
(……大牙狼か。それも、群れからはみ出した『はぐれ』だな。飢えている)
ガウェインは立ち止まらなかった。
合理的判断によれば、ここで彼が手を出す必要はない。
あのお嬢様騎士がどれほど未熟であれ、馬車には御者もいるし、距離もある。彼女が悲鳴を上げれば、その時に対処すればいい。
……そう自分に言い聞かせながらも、ガウェインの足取りは、無意識のうちにエルナの数メートル後方で速度を落としていた。
「よしっ! 今日も異常なし! このまま無事に村まで送り届ければ、私の初任務は成功だわ!」
エルナが自分を鼓舞するように小さく拳を握る。
その無防備な背中に向かって、茂みから影が飛び出したのは、その直後だった。
「ひっ……!?」
エルナの悲鳴が上がる。
大牙狼は、彼女の予測を遥かに上回る速度で、その喉元へ向けて跳躍した。
エルナは剣を抜こうとしたが、ガウェインの懸念通り、馴染んでいない手袋が柄を滑り、初動が遅れる。
絶体絶命。
その瞬間、エルナの視界に「壁」が割り込んだ。
どぉん! と。
それは、ただ男が踏み出しただけとは思えない、地面を揺らす轟音だった。
空中で牙を剥いていた大牙狼が、何かに叩き落とされたかのように、地面へとめり込んだ。
ガウェインは剣を抜いてさえいない。
ただ、大牙狼が飛び出す軌道に立ち、その巨体に肩を「置いた」だけだ。
三倍の重力、そしてそれを維持するために鍛え抜かれた鋼の肉体。
突進してきた獣にとって、それは山に激突したのと同義だった。
「ガハッ……!?」
大牙狼は内臓を激しく損傷したのか、一度も立ち上がることなく絶命した。
ガウェインは、地面に尻餅をついたまま呆然としているエルナを一瞥し、鼻で笑った。
「……おい、若いの。挨拶がなっとらんな」
「え……? あ、あの……今、何が……」
「剣を抜く前に腰が引けている。鞘の角度、手袋の馴染み、重心の置き方。……一つも合格点は出せん。そんな恰好だけで戦場に出るのは、自殺志願者と変わらんぞ」
ガウェインは、動かなくなった大牙狼の死体を、重力加圧のかかった足で無造作に脇へ退けた。
エルナは、目の前の「むさ苦しいおっさん」が、自分を襲った恐怖を一瞬で、しかも何をしたのかさえ見せずに処理したことに、震える手で地面を掴んだ。
「……あ、ありがとうございます。私は、その……」
「礼はいらん。……だが、今日中に筋肉痛で動けなくなりたくなければ、その無駄な力みは捨てろ。コスパが悪すぎる」
ガウェインはそれだけ言うと、再び街道の先へと歩き出した。
一歩ごとに、地面が僅かに沈む。
エルナは、その重厚すぎる後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。
「……な、何者なんですか、あの人……」
彼女の問いに答える者はいない。
ガウェインの頭の中にあるのは、助けた少女への感慨ではなく、「今の動きで膝が少し鳴ったな、帰ったら湿布が必要か」という、極めて現実的で、地味な老兵の悩みだけだった。
引退を決意したはずの旅。
だが、その第一歩は、図らずも「教育係」としての第一歩となってしまった。
魔王城へと続く長い街道に、赤く染まった夕陽が落ちていく。
ガウェインの影は、その重力のせいか、他の誰よりも長く、深く、大地に伸びていた。




