079 2026年5月06日(水) 嵐の前の静けさ
休みだけど、
軽くトレーニングしに、文翔館の地下へ来た。
コンクリートの壁は、外の季節を忘れたみたいに、ひんやりしている。
足音が、長い廊下に返ってきて、ひとり分なのに、少し多く聞こえる。
借りていた旧式の端末を、若林に返却する。
受け取るときの彼女の手は、相変わらずあたたかい。
「ありがと。無理、してない?」
「してないです。たぶん」
しっかりと若林の目を見つめ頷く。
更衣室でジャージに着替えて、
ドック整備エリアの奥――
ジムエリアへ。
機械の匂いと、ゴムマットの匂いと、
ほんのり残る、あの“伝説の空気”。
山倉さんのメニューを、黙々とこなす。
ストレッチ。
体幹。
スクワット。
心拍数が、少しずつ、世界を取り戻していく。
数日ぶりのトレーニングで、
筋肉が、文句を言い始めたころ。
ドアが、開く。
児島さんが入ってきた。
……50代なのに。
腹筋、エグい。
シックスパック。
彫刻か。
どういう年の取り方したら、こうなるんだろ。
視線が、つい、ヒップラインにまで行く。
あとで、聞こう。
うん。あとで。たぶん。
「あ、片桐さん。ちょうどよかった」
児島さんは、タオルで首元を拭きながら、
いつもの“事務的と優しさのあいだ”の声で言う。
「明日ね、非公式の会議に、片桐さんも同行するように、知事に言われてるの。
大丈夫?あなたの立場上、断ることもできるけど……」
一葉は、動きを止めて、
タオルで汗を拭いた。
額から、頬から、
首筋から、
床に、ぽた、と落ちる。
息を整えて、
顔を上げる。
「大丈夫です。
いけます」
児島は、ほんの一瞬だけ、目を細めて、
それから、うなずいた。
「……そう。ありがとう」
地下のジムは、
今日も、静かに、回り続けている。
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三世議員、田中 恒一は通話を切った。
「ありがとう、父さん。……うん。大丈夫。勝手はしないよ。
もう名前は汚さない。じゃぁ」
切断音の直後、スマホを布団に叩きつける。
地面に叩きつけられない、それが彼の育ちの良さであり、弱さであった。
どうして――
息子の俺を、信じられない。
胸の奥が、熱くて、冷たい。
怒りの熱で血が走っているのに、指先は妙に冷える。
机の上のUSBメモリを見つめる。
小さくて、軽くて、
なのに、世界をひっくり返すには十分な重さがある。
もうじき、秘書に手配させた旧型のラップトップとインクジェットプリンターが届く。
新型は危険らしい。
ネットにつなぐのも、危険。
プリンターも同じだ。
ネット経由でのインストールは危険だ。
CDで使えるようにできる、有線のやつがいい。
彼は、そういう“都市伝説みたいな話”を笑えない人間になっていた。
革新者は常に孤独だ。
慎重に行かないと。
窓の外で車が一台通り過ぎ、カーテンがわずかに揺れた。
その揺れが、監視の合図に見えてしまう。
神経が、勝手に世界を敵にする。
父親は言った。
お前の我儘もこれで最後だ。
明日、山形の極秘の会議に参加できるよう、
ねじ込んでやった。
――“ありがたい話”のはずなのに、
田中の腹の底では、言葉が腐っていた。
かび臭い決まりを守る、田舎の愚か者ども。
口に出すと、余計に惨めになるから、
声にはしない。
唇の裏だけで噛み砕く。
どんな間抜けなやつらか、顔を見てやる。
USBメモリを指でつまみ上げる。
冷たいプラスチックの感触が、現実に引き戻す。
……まずは明日。
山形。
“極秘の会議”の席で、
どんな馬鹿どもが敵か、
見極める。
そして――
次の一手を打つ。
田中はUSBメモリを握りしめたまま、
布団の上に背中を落とした。
天井が、やけに遠い。
目を閉じても、
暗闇の中で、USBだけが赤く光って見える気がした。




