077 2026年5月05日(火)_03 消えた消臭剤の謎
新しい指令室。
新しい匂い。
新しい携帯端末――タブレットタイプ。
全部が新しい。
壁はまだ工事の“白”が残っていて、床はワックスの光を引きずっている。
足音が少しだけ、よそよそしい。
機械の起動音も、どこか緊張しているみたいだ。
一葉は、ぐるりと見回してから、ふと眉をひそめた。
あれ?
大量にあった消臭剤が、ない。
棚の上。机の角。配線ラックの隙間。
前の指令室では、まるで“お守り”みたいに鎮座していた、あの巨大なボトルたちが、跡形もない。
「あれ?そういえば前の指令室の時、なんで消臭剤そこかしこに置いてたんですか?」
その瞬間。
空気が、止まった。
児島が不自然に目をそらす。口元がピクリと歪む。
若林は、笑顔のままプリングルスをアヒル口にして、ゆっくりとそっぽを向く。
父親は、何も言わずに足早に部屋を出る。
それを反射的に追いかける鎌田。
齋藤は、逆さまの監査書類を、人生で一番真剣な顔で睨みつける。
武田は、口元を渾身の握力で封印する。
今田は、観察日記に“カリカリカリカリカリ”と、もはや筆記音が機関銃のような速度で何かを書き込む。
槌谷は真顔のまま、口角だけが、ありえない角度に歪む。
「……?」
一葉が首をかしげた、その横を、
「キッチンカー巡りすっべ。スパムにぎり食いたい。」
「「ああ」」
シルバー軍団五人衆が、やけに息ぴったりで逃げていく。
足音が、廊下に消えるまで、誰も振り返らない。
医務室のドアが、そっと開く。
中を一瞬だけ覗き込んだ今野が、空気を察して、何も言わずに、そっと閉める。
……何?
何なの?
私、何か踏んだ?
児島が、壊れた人形みたいに、ぎこちなく口を開く。
「いえ、すべての問題は解決したので、問題ないわ」
語尾だけが、やたら丁寧で、視線は天井の換気口を見つめている。
「ふぉうよ、ふぉうよ」
若林が、まだプリングルスをくわえたまま、何か言っている。
「若林さん、食べるか話すか、どっちかにして。マジで」
その瞬間を、救ったのは武田だった。
「ほら、先輩。先輩のタブレットですス」
差し出された端末。
空いている手は、関節が白くなるほど、ぎゅっと握りしめられている。
一葉がそれを受け取ろうとした、そのとき。
ガチャリ。
防音扉が、低い音を立てて開く。
浮雲が入ってきた。
黒いコート、新しいのをニューライフカネタで若林が買ってくれた、
の裾が揺れ、視線が室内を一周して――一葉で止まる。
「一葉、久しぶりだな。いい眼になった。
そして……臭くなくなったな。
いっつも臭かったからな、お前」
一葉の思考が、一拍、遅れた。
「……は?」
次の瞬間。
「「「「浮雲ぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!」」」」
誰の声かも分からない、魂ごと引きずり出すような絶叫が、指令室の天井を震わせる。
今田の観察日記には、でかでかと“事故”の二文字が書き足され、
若林は、ついにプリングルスを噛み砕いた。
――その後。
浮雲さんは、指令室の真ん中で、
きっちり正座をして、
一時間、私に謝り続けた。
―――
山形ロボのコクピットは、臭かった。
最終決戦。
時間という概念が意味を失うほどの、長時間戦闘。
負荷で急上昇する室温。
密閉された鋼鉄の棺の中で、健康な肉体の成人男性が、極限まで追い込まれる。
流れ落ちる汗。
皮膚から噴き出すストレス臭。
霊子と電子が衝突し、空間にオゾンが生まれる。
熱と圧と感情が、見えないスープみたいに、コクピットの空気を煮詰めていく。
そして――
帰還後。
霊子認証されたパイロットは、二度と戻らなかった。
解放されるはずのハッチは開かれず、
27年間、
宇宙空間でも短時間活動できるレベルの気密性能を誇るコクピットは、
“完全密閉”のまま、
当時。県立中央病院建設前の臨時カタパルトだった場所で、
眠らされた。
骨まで染みる冬の冷気と、
最高気温が嘗て日本最高値を記録した夏の熱気を浴びて。
時間が、仕事を始める。
熟成されるタンパク質。
発酵する汗と皮脂。
霊子と微細な物質が、ゆっくりと、ゆっくりと、姿を変えていく。
結果として完成したのは――
卵が、酸っぱく、腐ったような、
説明不能で、記憶にこびりつく、あの匂いだった。
それは、シートの繊維の隅々まで染み込み、
配線の影、電子機器の隙間、ネジ穴の奥にまで入り込み、
もはや“空気”ではなく、“存在”としてそこに居座った。
鎌田と早川の連名サイン入り報告書には、
こう記されている。
――完全分解洗浄を行わない限り、匂いの除去は不可能。
出動。
訓練。
シミュレーションモード。
搭乗のたびに着用する対G服にも、その匂いは移る。
脱げば、髪に残る。
皮膚に残る。
服に移る。
そして、指令室へ。
自宅へ。
ソファへ。
カーテンへ。
枕へ。
卵が、酸っぱく、腐ったような独特のにおいが、
静かに、しかし確実に、生活圏を侵食していく。
人間の鼻は、優秀だ。
あまりの臭気でも、しばらくすれば、慣れる。
感じなくなる。
――だから、気づかない。
風通しのいい場所に放置すれば、二日ほどで、匂いは薄れる。
だが、地下ドックは、完全密閉。
逃げ場はない。
匂いは、循環し、熟成し、深化する。
一葉は、ゆっくりと天井を見上げた。
換気口。
無言のファン。
白すぎる蛍光灯。
すべてが、つながった。
「……みんなの優しさが、辛い……」
その瞬間、脳裏に、日常の断片がフラッシュバックする。
29日。
やたらショッピングセンターが混んでいたのに、
誰とも、ぶつからなかった。
帰り道。
いつものコンビニ。
なぜか、店員さんが一歩、下がった。
え?
え?
え?
女子的に――
終わってない?
そこへ。
イケメン角度で正座した浮雲が、やたら優しい声で言う。
「一葉。大丈夫だ。
お前はもう、臭くない。安心しろ」
一瞬、
本当に、一瞬だけ、
救われた気がした。
次の瞬間。
「匂いの、すべての元凶は――
おまえじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!!」
指令室に、魂の絶叫が反響する。
新品の空気清浄機が、同調するように全力で唸った。




