068 2026年5月01日(金)_05 親子の対話
綾は、キッチンの明かりだけをつけたまま、
熱めに淹れたお茶を、静かに飲んでいた。
湯気が、ゆっくりと天井へ溶けていく。
その向こうに、
どうしても思い出してしまう光景がある。
“箱”に乗ってしまった娘。
外宇宙の悪意と、
神話めいた何かと、
現実の向こう側で戦わなくてはいけない仕事。
辞めさせたい。
本音は、そこに尽きる。
でも――
辞めさせるということは、
「見なかったことにしろ」と言うのと、
どこかで、同じ匂いがした。
綾は、湯飲みを置く。
カチリ、と、
やけに大きな音が、キッチンに響いた。
時計を見る。
8時を、少し過ぎている。
この時間は、
現場からの連絡か、
悪い知らせか、
あるいは――
心が折れかけた人間からの、
呼び出しだ。
スマホが、震えた。
一葉からだ。
>今からあえる?
>仕事の話
綾は、しばらく、画面を見つめる。
“仕事の話”。
この時間に、
この言葉を選ぶということが、
もう、答えだった。
指を、動かす。
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<綾>
どうしたの。
今から?
<一葉>
うん
ごめん、急で
でも、いまじゃないと無理
---
その言葉の重さを、
綾は、よく知っている。
昔、自分も、
同じ文面を、
尊敬する先輩、児島裕子に送ったことがあった。
---
<綾>
どこにいるの
<一葉>
八日町。
家の近所のコンビニの前に来た。
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綾は、ゆっくり息を吐く。
カーディガンを羽織り、
鍵を掴み、
玄関の電気を消す。
「陽葵ー、コンビニいってくるー」
部屋から「いてらー」と声が漏れる。
綾は、車のキーを握りしめる。
多分、車が必要。
内容はデリケート。
“親”として行くのか。
“引退した先輩”として行くのか。
どちらでもいい。
一葉の、あの子の顔が頭に浮かぶ。
エンジンが、静かにかかる。
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八日町。
数十秒で着く。
深夜でも、駅前に近いはずなのに、
人の気配が、あまり無い。
自動販売機の光。
遠くを走るタクシーのテールランプ。
コンビニの、キャンペーンのノボリがはためく。
その前に、
一葉が立っている。
相変わらず可愛くない柄のトレーナーに、スウェット。
髪は、適当にまとめただけ。
皮脂だらけの眼鏡。
手には、ぬるくなったミルクティー。
ブラックコーヒーとか飲む癖に、
本当は甘いミルクティーが好きなのも、
昔から変わらない。
目の下が、少し赤い。
綾は、ひと目でわかる。
——これは、ただの“仕事の話”じゃない。
これは、明らかに“何かあった”話だ。
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「寒くないの」
「平気」
一葉は、そう言いながら、
ペットボトルを両手で包む。
指先が、少し白い。
綾は、鍵を開けて、助手席を指す。
「内容が内容だし、車、乗りな?」
一葉は、無言で頷く。
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国道13号線。
山形県を縦断する、大動脈を、
一路南へ。
街灯が、フロントガラスの上を、規則正しく流れていく。
しばらく、ラジオもつけない。
綾が、先に口を開く。
「……仕事の話って」
一葉は、窓の外を見たまま、言う。
「ねえ、母さん」
「今さ」
一瞬、言葉を探す。
「私、“守る仕事”してるじゃん」
綾の指が、ハンドルの上で、わずかに強くなる。
「それでさ」
「誰かが、傷ついたり」
「……死んだり、してさ」
赤信号。
車が止まる。
信号機の赤が、二人の顔を、ぼんやり照らす。
「私、この仕事、続けられるかなって」
一葉は、笑おうとする。
でも、口角が、途中で止まる。
表情筋が強ばる。
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「今日ね」
「変なデータ、見ちゃって」
「名前と」
「年齢と」
「家族構成と」
指が、ぎゅっと、ペットボトルを握る。
「“観測終了”って、書いてあった」
綾は、何も言わない。
ただ、聞く。
一葉の声が、少しずつ、崩れる。
「私さ」
「守ってるつもりだったんだよ!」
「ロボに乗って!」
「結界張って!」
「怪物殴って!」
「ヒーロー気取りで!」
「定時で帰りたくて!」
「お給料、沢山欲しくて!」
小さく、笑う。
「フォルダの中、全部“現実”だった」
「私がいなければ、誰も死ななかったんじゃないかな?」
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綾は、赤信号のまま、ハンドルを握り直す。
「一葉」
声が、少し低くなる。
「母さんね」
「その“記録”を、毎日、見てた」
一葉が、はっとする。
「見続けるのが、辛くなって」
「“指令室”から、離れた」
「逃げたって言われても、仕方ない」
一葉は、首を振る。
「でも、母さんは観測班で」
「私は、パイロットだよ」
「動かしたの、私だよ」
綾は、アクセルを踏む。
車が、ゆっくり動き出す。
「違う」
「見えなかっただけで」
「世界は、ずっと、壊れてた」
「あなたが乗る前から」
「母さんが辞める前から」
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一葉は、唇を噛む。
「誰も、傷つけたくない」
「誰にも、傷ついてほしくない」
「そんなこと、起きないでほしい」
「そんなこと、起こさせない」
綾は、静かに言う。
「それね」
一拍。
「出来るのは、神様だけ」
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反対車線のライトが、綾の横顔を、白く照らす。
「昔ね」
「同じこと、言ってた人がいた」
一葉が、ちらっと、見る。
「誰一人、傷つけたくない」
「誰も失わせたくない」
「そう言って」
「全部、背負おうとした人」
「27年前」
「帰ってこれなかった」
一葉の目が、少し大きくなる。
「……それ」
「浮雲さん?」
綾は、苦笑する。
「さあね」
「名前は、どうでもいい」
「おかげで、あの人まで、メンタル病んじゃつて」
「何年かしたら、突然迎えに行くとか言いはじめて」
「家に帰って来なくなったから、別れた」
「あんたと、生まれたての陽葵いたしね。」
綾が笑う、少し寂しそうに。
「ただね」
「やっと帰ってきたら」
「本当に“神様みたいな存在”になってた」
「笑っちゃうでしょ」
「あの人は大切な友達で」
「世界にとっては英雄で、
あなたに未来を託した人だった」
「でも、私にとっては——
夫だった人の心まで、幽世に連れていった人」
---
しばらく、二人とも、黙る。
上山の方角。
暗い空に、城のシルエットが、ぼんやり浮かぶ。
綾が、聞く。
「一葉は、何になりたいの」
「……わからない」
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「じゃあさ」
「仕事、辞めたい?」
一葉は、すぐに答えない。
五秒。
十秒。
「……わかんない」
「でも」
「逃げたいわけじゃない」
「ただ」
「ちゃんと、知ったまま、続けたい」
「少なくとも」
「私の見えるところでは」
「悲しいこと、起こしたくない」
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綾は、ゆっくり、頷く。
フロントガラスに映る信号の光が、彼女の横顔を塗り替える。
「それでいい」
ハンドルから片手を離し、軽く目元を拭い、続ける。
「知らないふりをして、続けるより」
「ずっと、まし」
一瞬、間を置く。
エンジン音と、一定の走行音だけが、車内に残る。
「一葉」
綾の声は、母親のものでもあり、
かつて“現場にいた人間”のものでもあった。
「現場ってね」
「“守れなかった数”が、増えていく場所なの」
「報告書の行が増えて」
「名前が増えて」
「日付が増えて」
「いつの間にか、
“守れた記憶”より、
“失った記録”の方が、分厚くなる」
一葉は、黙って聞いている。
膝の上で、ペットボトルを転がす指が、わずかに震える。
綾は、前を見たまま、言う。
「でもね」
「“守れた一人”を、覚えていられるなら」
一拍。
「その人は、まだ、人でいられる」
「数字にならない顔を」
「報告書に載らない声を」
「“ここにいた”って記憶を」
「ちゃんと、胸に残せるなら」
ゆっくり、息を吐く。
「あなたは、多分」
言葉を、選ぶ。
「……きっと私の自慢の“後輩”」
---
一葉の目が、少し潤む。
「陽葵には、言わないで」
「言わないし」
「言えないよ」
綾は、即答する。
「まだ、普通の世界に、いさせてあげたい」
---
「帰ろか」
上山城の影が、フロントガラスの端に流れる。
「……うん」
一葉は、空になったペットボトルを、ぎゅっと握る。
冷めたボトルが、小さく、間の抜けた音を立てた。
綾の軽自動車は、
静かに、山形市へ戻っていく。
昔ながらの街道に灯る街灯の下を、
ひとつ、またひとつ、くぐりながら。




