034 【昭和編】1960年5月16日(月) 地域防衛用構造物 試作一号機 起動試験
1960年5月16日。
表の歴史では、
この国は安保改定をめぐって揺れていた。
国会前には人が集まり、ラジオと新聞が毎日のように「政治」と「未来」という言葉を繰り返していた。
だが、山形の空は静かだった。
山形県の某駐屯地。
滑走路の端に設けられた仮設格納庫の中で、
“それ”は、初めて立ち上がった。
公式記録上の名称は、
地域防衛用構造物 試作一号機。
後に「山形ロボ」と呼ばれることになる機体の、原型だった。
フレームには、政府の研究部門から極秘裏に支給された新素材が使われていた。
分類不能。金属でもセラミックでもない。
報告書では、仮称としてこう記されている。
――人口ヒヒイロカネ系構造材。
当時の工業技術では加工そのものが困難で、
設計は必然的に“単純な箱形”に寄せられた。
結果として、機体は全高約20メートル級。
都市部での運用を想定し、
射撃兵器はあえて搭載されなかった。
破壊ではなく、“受け止める”ことが目的だったからだ。
最大の問題は、移動速度だった。
自走はできる。
だが、遅い。
そこで使われたのが、
廃棄予定だった旧日本軍の戦車の足回りだった。
解体された履帯と駆動輪を両脚部に外付けし、
“歩く”のではなく、“引きずる”ようにして移動する。
記録映像には、
巨大な箱が、戦車の残骸をまとって、
砂煙を上げながら滑走路を横切る姿が残っている。
警備責任者は、石原幸一郎。
現・石原修の祖父にあたる人物だった。
戦中・戦後をくぐり抜けた世代で、
この計画を「兵器」とは呼ばなかった。
「構造物だ。
あれは、“人が逃げるための壁”だ」
そう言い切っていたという。
操縦者は、陸上自衛隊からの出向者。
山田一等陸士。
極秘選抜だった。
理由は単純で、適性試験を通過したのが、彼一人だったからだ。
政府側の連絡役として現場に常駐していたのが、
成田仁。
汗かきで、体格のいい中年男性。
書類を抱えて走り回り、
誰に対しても腰が低く、
だが、いつも笑っていた。
「ヒホヒホフ、ヒフヒヒ……大丈夫ですよ、大丈夫」
当時の警備記録には、誰かの走り書きでこう残っている。
>成田氏、終始ご機嫌。
>理由は不明。
>こちらの緊張感と、どうにも噛み合わない。
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異変は、早朝に起きた。
気象レーダーが、
“形を持たない反応”を捉えた。
高度、距離、質量。
どの数値も、計算に合わない。
当時の天文学的知見から、
後年、報告書にはこう推定が記される。
「冥王星軌道付近から侵入した可能性」
滑走路の向こう、空気が歪んだ。
粘性を持つ影のような“何か”が、地表に滲み出る。
石原幸一郎は、即座に命じた。
「起動だ。
山形を、壁で囲え」
山田が操縦席に入る。
機体が、軋みながら立ち上がる。
戦車の履帯が、地面を削る。
鉄とアスファルトの焦げた匂いがする。
戦闘記録は、わずか7分。
射撃は一切行われていない。
山形ロボは、ただ前に出て、
“それ”と、押し合った。
最終的に、
粘性体は、空気の中に溶けるように消失した。
公式報告書には、こう記された。
「未確認気象現象。被害なし」
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その日以降、
この計画は、
“都市防衛ロボット構想”として、水面下で継続される。
だが、記録の多くは破棄された。
残ったのは、
設計図の一部と、
笑い声のメモだけだった。
成田仁は、
その後も、ずっと現場に現れ続ける。
年を取らないように見えた、
と、何人かの職員が証言している。
そして、
その名前は、やがて別の形で記録されることになる。
――奈良透。
――あるいは、
ナイアルラトホテップ。
だが、1960年5月の山形県の某所では、
ただの“よく笑う政府の男”だった。
巨大な箱の前で。




