206 2026年5月31日(日)_07 血に染まるかすみ公園
日曜日。
本来なら休日だった。
山形県総務部付属資料管理室。
武藤恵子は休日当番の部署を片っ端から捕まえ、電話とFAX、メールを送っていた。
実務そのものは齊藤が担っている。
類まれな会計管理能力で、膨大な数字を淡々と処理していく。
だが。
数字を動かすのは帳簿ではない。
人だ。
そして、その「人」と向き合う役目を武藤が引き受けていた。
「至急必要なんです」
受話器を握る手に力が入る。
「これがなければ、こちらの作業が止まってしまいます」
電話の向こうから、休日出勤中の旧所属の管理職が怒鳴りつける。
「誰の許可で進めた?」
「県費を使う権限がお前にあるのか?」
「仕事舐めてんのか!?」
以前の武藤なら、
言葉を飲み込み、
謝り、
その場を取り繕っていただろう。
だが、もう違う。
資料管理室が何を守っているのか。
そこで働く人たちが、何を背負っているのか。
それを知ってしまった。
自分がここで引けば。
作業が止まる。
誰かが傷つく。
そして。
誰かが、死ぬ。
だから。
引けなかった。
それでも怒鳴り返さない。
武藤は、全ての理性で感情を押さえ込む。
奥歯が軋む。
ストレスで歯の根元が痛む。
それでも声だけは静かだった。
「でしたら」
武藤は一枚のメモへ視線を落とす。
「正式な手順を整備しましょう」
「発注者」
「負担者」
「校了者」
「承認者」
一つずつ区切るように告げる。
そして。
電話先の管理職が最も軽視していたものを口にした。
「全て記録に残します」
沈黙。
武藤は続ける。
「今後は、たとえ誰かの鶴の一声であっても、正式な承認手続きを経ない限り、県費は動かしません」
「その運用であれば、ご懸念も解消できると考えますが、いかがでしょうか」
武藤は深く息を吐いた。
通話が切れたあとも、受話器を置く手が震えていた。
怒りではない。
恐怖でもない。
その二つが混ざった、名前のない震えだった。
戦う場所が違うだけだ。
現場には現場の戦いがあり、
事務には事務の戦いがある。
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陽葵はスマホのカメラを周囲へ向け、ライブ映像をハコ子へ送る。
>足元の砂利や草木の動きから解析。全個体、実体があります。
>カルさん、相手の戦力は測れますか? 私の目算では……少なく見積もってもネームドクラスの邪神相当です。
カルは竜骨剣を構えたまま、慎重に周囲を見渡した。
「"ネームド"という呼び方は僕には分かりませんが、一体一体に実体があるという見立てには同意します」
一拍。
「階位は即答できません。ただ、それぞれが先日の路地で交戦した魔族・・・邪神と、ほぼ同格と見ています」
>了解です。この情報は資料管理室へ共有します。
「何だか知らないけど、人間じゃないんでしょ?」
心愛の瞳に怒りが宿る。
「だったら――私、本気でいくよ!」
言うが早いか、九本の石槍へ力を込める。
さらに高密度に。
さらに鋭く。
さらに攻撃的に。
その瞬間。
二人のパーカー男が、ニヤつきながら心愛へ襲いかかる。
巨大なスレッジハンマーが振り下ろされた。
ギャン!
星奈の光刃が、その一撃を弾き返す。
「心愛の邪魔はさせない!」
星奈はあえて構えを正眼へ戻す。
最も基本的で、最も間合いを測りやすい構えだった。
カルが短く告げる。
「心愛さん。この者たちは、おそらく人間です」
>カルさんの見立てと一致します。司法で裁く必要があります!
いつもの柔らかな笑顔はない。
心愛は怒気を隠さぬまま頷いた。
「つまり、生きてさえいればいいんでしょ!」
「いくよ、星奈!」
「おっけー!」
限界まで圧縮された九本の石槍が一斉に放たれる。
その瞬間。
星奈の光刃が後方から石槍を正確に突いた。
石槍は光を纏い、九本の光槍へと変貌する。
一直線にパーカー男たちへ襲いかかる。
「「くらえぇっ!!」」
だが。
八人を牽制していたカルが、小さく呟いた。
「……だが、浅い」
言葉が終わるより早く、カルは陽葵を背中へ庇いながら、心愛と星奈の前へ躍り出る。
その瞬間。
パーカー男たちは、それぞれ手にしたナイフとスレッジハンマーで、
飛来した光槍を次々と弾き返した。
暴れる慣性のまま、
九本の光槍が今度は心愛たちへ降り注ぐ。
「八重垣――からの、逆さ水鳥の太刀」
カルが一歩踏み込む。
一本をすれ違いざまに斬り払う。
その反動を利用し、
水鳥が水面へ舞い降りるかのような滑らかな剣筋で、
残る八本を次々と切り伏せた。
その一連の動きは、
一秒にも満たない。
だが。
その一秒にも満たない時間が、
致命的な隙となる。
十の殺気が同時に動いた。
剣を振り抜いた直後。
カルが最も無防備になる、ほんのコンマ数秒。
そこへ。
二本のスレッジハンマーが質量を伴って投擲される。
カルは咄嗟に左の手甲で受けた。
ゴンッ!
鈍い衝撃。
骨は折れていない。
だが左腕に激痛が走り、
握力が一気に奪われる。
その隙を逃さない。
四人のパーカー男が同時に心愛と星奈へ躍りかかった。
カルは無理やり剣筋を変える。
竜骨剣の切っ先から、無詠唱の魔法障壁が展開された。
四人の攻撃が火花を散らし、
すべて弾かれる。
しかし。
その代償は大きかった。
ドスッ。
ドスッ。
ドスッ。
無防備となったカルの胴へ、
三本のナイフが深々と突き刺さる。
「カルーーーーーーーーッ!!」
陽葵の悲鳴が響く。
「っぁあああああああああああああっ!!」
カルが咆哮した。
あえて制御をしなかった魔力が周囲へ爆ぜる。
指向性のない衝撃波が三人を吹き飛ばした。
同時に、自らへ治癒魔法を重ねる。
止血しなければ危ない。
出血性ショックで意識を失う。
最悪、この場で死ぬ。
だが。
その代償として、一つだけ。
防げない殺意が残った。
肩を撃ち抜かれながらも立ち上がった男が、
陽葵へ向かってスレッジハンマーを振り下ろす。
「っ!」
カルは血を流しながら飛び込む。
全身で陽葵を突き飛ばした。
ドンッ!
直撃だけは避けた。
それでも。
ハンマーの頭が陽葵の足を強かに打ち据え、少女の身体が吹き飛ばされる。
「陽葵ぃぃぃ!」
星奈が叫ぶ。
「やめてぇーーー!!」
心愛の悲鳴。
カルは腹部を押さえたまま、血に濡れた手を必死に伸ばす。
何かを叫ぶ。
届かない。
吹き飛ばされた陽葵が地面を転がり、ゆっくりと振り返る。
その眼前には。
スレッジハンマーの鉄塊が迫っていた。
「あ……」
お母さん。
いち姉ぇ。
お父さん。
時間が、
伸びる。
避けられない。
頭だ。
――死ぬ。
その瞬間。
深紅の腕が、横からハンマーヘッドを掴んだ。
「うちの娘に何しとんじゃ、ワレぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
深紅の強化外骨格が咆哮する。
フルフェイスマスクの奥から、綾が血まみれのカルを見つめた。
「カルさん」
「娘を守ってくれて、ありがとう。
長井くん!加藤さん!カルさん最優先!」
通信が公園へ響く。
「H.A.C.O.観測班長・片桐綾」
次の瞬間。
綾は握ったハンマーヘッドを、そのまま握り潰した。
鋼鉄が悲鳴を上げる。
さらに。
公園へもう一体の強化外骨格が降り立つ。
そして、黒いスーツの老人。
遅れてフルフェイスマスクにジャージ姿の男。
遠くビルの屋上からも微かな反射光。
綾は静かに、しかし底冷えするような声で告げた。
「おい、若造」
「五体満足で帰れると思うなよ」
――山形県総務部付属資料管理室。
その精鋭たちが、戦場へ到着した。




