201 2026年5月31日(日)_03 母、参戦
片桐綾は、泣き疲れて再び眠りについた娘の枕元に、小さな巾着をそっと置いた。
「ん……?」
「あ、ごめん。一葉。起こしちゃった?」
一葉は微かに首を横へ振る。
綾は巾着を持ち上げた。
「これね、あなたの“おまもり”なんでしょ?」
優しく微笑む。
「なかなか良い出来だったんだけど、血まみれになっちゃってたから。袋だけ新しくしておいたの」
綾は巾着を軽く揺らした。
「中に入ってた剣みたいなの? あれはそのままよ」
少し首を傾げる。
「お母さんにはよく分からないけど、大事なんでしょう?」
淡いパステルブルーの巾着。
以前より少し丁寧な縫い目。
手縫い特有の温かみが残っている。
「ふぁわふぃぃ!」
嬉しそうな声にならない声が漏れる。
「あとね」
綾はハンカチに包んだ何かを取り出した。
手のひらに乗る程度の小さな金属片。
鈍く赤みを帯びた光を放っている。
「あなたの対Gスーツから出てきたんだけど、これも大事なの?」
「ふぁ! ふぉっふぇふぃふゃったふだ!」
綾は苦笑する。
「何言ってるか全然分からないけど、大事なのは分かったわ」
小さな破片を巾着の中へ戻す。
「人造ヒヒイロカネなんて普通は持ち歩かないものね」
そしてぽつりと呟いた。
「……きっと真さんの仕業ね」
一葉は反論しなかった。
まさにその通りだったからだ。
綾は立ち上がる。
「じゃあ母さん、一回日本に戻るわね」
「おふぁふぁん……」
不安そうな声。
綾は足を止めた。
娘の視線が自分を追っている。
その目は幼いとき風邪で寝込んだ時のように弱々しかった。
だから。
綾は少し考えた後、得意げに胸を張る。
「大丈夫よ、一葉」
そして言った。
「母さん、実は強いの」
「……?」
「ほら」
綾は真顔で両手を前に出した。
数秒。
沈黙。
さらに数秒。
病室が静まり返る。
やがて。
枕元のウォーターピッチャーが――
ふわり。
一センチほど浮き上がった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
さらに数秒。
ピッチャーは静止しながら空中に留まる。
そして。
そっと元の位置へ戻った。
水面には波一つない。
綾は肩で大きく息をした。
「ふぅぅぅぅぅぅぅぅ……」
額にはうっすら汗。
「ほら」
息も絶え絶えに笑う。
「母さん、実は念動力使えるのよ」
さらに深呼吸。
「児島さんや若林さんみたいに魔術は使えないけどね?」
もう一度息を整える。
「だから安心して休みなさい。一葉」
そう言って綾は病室を後にした。
扉が静かに閉まる。
残された一葉は、
去っていく母親の背中を見つめる。
そして。
さっきよりも少しだけ。
不安そうな顔になった。
―――
病室の外には、一人の男が立っていた。
スーツを着崩した壮年の男。
痩せた体躯。
ぎょろりとした目。
一見すれば不健康なだけの中年男だ。
だが。
襟元には鈍く光るピンバッジ。
着色のない無地の金属。
それは《会議室》において特級エージェントのみに許された意匠だった。
綾は思わず足を止める。
「護衛が“会議室”の特級エージェント……」
小さく息を吐く。
「VIP待遇もここまで来ると凄いわね」
男を観察する。
記憶を探る。
だが一致しない。
「失礼ながら、私が顔を知らないということは……新人さんか、序列三位以上の方でしょうか?」
男は面倒臭そうに首筋を揉んだ。
そして。
ゆっくり綾を見る。
まるで値踏みするように。
「ふん」
鼻を鳴らす。
「引退しておった割には、まぁまぁの反応じゃな」
次の瞬間。
男は肩を竦めた。
「いかにも」
軽い口調。
あまりにも軽い口調で告げる。
「儂は“会議室”特級エージェント序列第一位」
一拍。
「《魔王》ナンバーシックスじゃ」
綾の思考が止まる。
「……は?」
聞き間違いかと思った。
《魔王》。
序列第一位。
伝説。
神話。
記録。
それらの中にしか存在しない名前。
「まさか……」
声が震える。
「《魔王》その人を寄こすなんて……」
ナンバーシックスは意地悪そうに笑った。
「まさにVIP待遇じゃろ?」
その顔は、
子供に悪戯を仕掛ける悪ガキそのものだった。
「なに。儂はただの使いっ走りよ」
ジャケットの内ポケットからロリポップを取り出す。
包装を剥く。
口に入れる。
そして。
噛み砕く。
バキッ。
「《虚》の奴には頭が上がらん」
まるで飴ではなく氷でも砕いたような音だった。
「困ったことにな」
綾は何も言えない。
言葉が出ない。
「さて」
ナンバーシックスは病室の扉へ視線を向ける。
「お嬢さん」
綾は一瞬、自分の後ろを見た。
誰もいない。
「ここは儂が守る」
さらりと言う。
だが。
その言葉には不思議な説得力があった。
「安心して自分の戦場へ行け」
一歩近づく。
「足は伯爵が手配しておる
一番速い奴と運転手じゃ」
「……ありがとうございます」
綾は自然と頭を下げていた。
終始圧倒されていた。
だが。
「お嬢さん」と呼ばれた瞬間だけ、
調子を狂わされた。
五十を過ぎてそんな呼ばれ方をするとは思わなかった。
ナンバーシックスは豪快に笑う。
「大丈夫じゃ」
胸を叩く。
「儂は強く」
一拍。
「気配りもできる」
カラカラと笑う。
その笑い声を聞いているうちに、
綾の中の不安が少しだけ薄れていく。
病室を振り返る。
眠る娘。
そして再び前を見る。
もうそこにいたのは娘の母ではない。
嘗ての山形県防衛課。
そして新生された資料管理室。
観測班の一人。
片桐綾だった。
―――
聖メアリー・ティーチング大学病院。
屋上ヘリポート。
夕暮れの風の中、一機のVTOL機が待機していた。
《会議室》所属の小型輸送機。
エンジン音は驚くほど静かで、機体はまるで空中に溶け込むように停まっている。
その機体から、一人の男が降りてきた。
パイロットらしい。
手には封筒を持っている。
「お待ちしておりました」
男は一礼した。
「渡部様からの依頼により、片桐綾様を日本国山形県までお送りするよう申し付かっております」
「……その封筒は?」
綾が視線を向ける。
「辞令だそうです」
綾は封筒を受け取る。
中には二枚の書類。
まず一枚目。
令和八年六月一日付。
山形県総務部付属資料管理室
(文化財・特殊記録担当)
同組織を改編し、
山形県総務部付属資料管理室
Historical Anomaly Custodian Office
略称――
H.A.C.O.
として再編する。
綾は思わず眉を上げた。
二枚目をめくる。
片桐綾を
観測班長として任命する。
綾は数秒黙った。
そして。
深く息を吐く。
「……本当にやるのね」
半ば呆れたように呟く。
パイロットは苦笑した。
「まだございます」
「え?」
「児島裕子様からの伝言です」
綾は嫌な予感がした。
パイロットは事務的に読み上げる。
「『着任前で悪いけど至急力を貸して』」
沈黙。
綾は天を仰ぐ。
そして。
額を押さえた。
「……やっぱりそうなるわよね」
ため息。
だが口元は少しだけ笑っている。
昔からそうだった。
児島は人を休ませない。
綾は書類を封筒へ戻した。
「ありがとうございます」
そう言って機体へ乗り込む。
シートへ腰を下ろす。
ハーネスを固定。
キャノピーが閉じる。
次の瞬間。
VTOL機がふわりと浮上した。
機首が空へ向く。
そして。
現実空間が歪む。
位相の隙間へ機体が滑り込む。
目的地。
日本国山形県。
移動時間。
約二時間。
人類の航空技術としては異常な速度だった。
だが。
綾にとっては。
人生で最も長い時間になりそうだった。
病室に残してきた娘。
新生防衛課『H.A.C.O.』
そして。
再び始まろうとしている戦い。
——まずは状況整理ね。
児島。
若林。
浮雲。
そのほか1999年の主要メンバー。
現場戦力は揃っている。
それでも私を呼び戻した。
なら問題は戦力不足ではない。
情報だ。
そして情報戦で最も厄介なのは――
奈良透。
相手は這い寄る混沌。
万全ですら足りない相手だ
窓の外を見ながら。
片桐綾は静かに目を閉じた。




