192 2026年5月28日(木)_02 牛肉どまん中
山形駅。
午後の光が、ホームのコンクリートを柔らかく照らしていた。
やがて、遠くから低い風切り音が近づいてくる。
白い車体に紺のストライプにオレンジが映える、
滑らかな曲線。
山形新幹線が、静かにホームへと滑り込んできた。
空気が押し出される。
衣服がわずかに揺れる。
橘陽介は、その光景を一瞬だけ眺めてから、
ゆっくりと向き直った。
目の前には、石原と児島。
橘は軽く頭を下げる。
「お世話になりました」
児島は、いつもの調子で手を振る。
「気をつけてね」
軽い声。
だが、その奥に、わずかな温度がある。
石原は腕を組んだまま、短く言った。
「また来いよ」
それだけ。
だが、十分だった。
発車ベルが鳴る。
ドアが開く。
橘は一度だけ頷き、
振り返らずに車内へ入った。
――14時04分発。
山形新幹線。
橘陽介は、二人の見送りを背に、
帰路についた。
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だが今回の帰還は、
静かなものではなかった。
内閣府 大臣補佐官となった渡部のサポートとして、
資料管理室から二名が派遣されている。
一人は――青山。
元自衛官。
無駄のない体つき。
剃刀のような鋭さを纏った男。
整えられたシルバーヘアーのツーブロックの髪型が、
年齢と合わさり妙な色気を纏う。
もう一人は――大沼。
よれたスーツを雑に着込み、
白髪をオールバックにまとめた男。
神経質そうな目つき。
そして、どこか面倒な気配を纏っている。
橘は、指定された席に腰を下ろした瞬間、
わずかに眉をひそめた。
(……なんだ、この空気)
まだ何も起きていない。
だが――
席に着くなり、大沼が通路挟んで青山を横目で見た。
「……青山」
低い声。
「おまえ」
少し間を置く。
「若いふりして、若い髪型してるだろ?」
青山は窓の外を見たまま答える。
「ん?ああ、いいだろ?」
さらりと言う。
「孫娘がな……、美容師志望でな」
「練習台にされてるんだ」
大沼が眉をひそめる。
「その眼鏡も……」
じっと見る。
「なんか狙ってるだろ?」
「その……女性受けとか」
青山は少しだけ首を傾げる。
「いや?」
「息子夫婦が眼鏡店で働いていてな」
「選んでもらってる」
大沼が沈黙する。
数秒。
そして、ぼそりと言った。
「……おまえ」
「俺が、娘とかから嫌われてるの知ってての嫌味だろ?」
青山はため息をついた。
「それはな?……大沼さん?」
ちらりと見る。
「あんたのその性格が絶ッ対悪い」
間髪入れずに続ける。
「いい加減、娘婿に嫌味言うのやめた方がいい」
大沼が即答する。
「いやだ」
腕を組む。
「俺の娘を奪ったやつだぞ?」
「しかもジムのインストラクターとか」
「知性の欠片もない風貌で」
青山は小さく笑う。
「とか言いつつな」
指を立てる。
「出張のたびに娘さんの世帯に土産買ってるの知ってるからな?
孫にも偶に添い寝してあげてるんだろ?」
大沼の肩が一瞬だけ止まる。
青山は続ける。
「あとな、あんたの娘と、うちの次女と嫁ちゃん」
「高校一緒でな? 大の仲良しなんだよ」
静かに言う。
「愚痴、全部こっちに来る」
大沼の顔が引きつる。
「……愚痴?」
青山はあっさり答える。
「ああ」
「大沼さん、あんたがかまってちゃんで鬱陶しいって」
「全然可愛げないって」
大沼が言葉を失う。
青山は少しだけ柔らかく言った。
「なあ……。いい加減、俺らジジィなんだ」
窓の外に視線を戻す。
「可愛げないと、……まずいぞ?」
そして、最後に付け加える。
「あと、大樹くん? 彼、かなりのやり手経営者だぞ?」
大沼は、うなり声のような音を出す。
「む……むぅ……」
視線を落とす。
「いや……でも……」
言葉が続かない。
言葉が思いつかない。
その横で、
絶賛27歳の橘陽介は、
無言で弁当のフタを開けていた。
カチ。
音がやけに大きく響く。
(……なんだこれ……)
箸を持つ。
一口、口に運ぶ。
もぐ。
(……うま)
一瞬、現実に戻る。
(いや違う、今それどころじゃない)
(なんで俺は出張先の謎の人間関係に巻き込まれてるんだ?)
視線を上げる。
左――家庭崩壊未遂のジジィ。
右――それを正論で殴るジジィ。
(……地獄だ……)
もう一口。
もぐもぐ。
(……これ、任務中だよな?)
(俺、いま何してる?)
(お? 付け合わせの昆布にニシン入ってる、うま)
静寂。
車内に響く老害トークの余韻と、
咀嚼音未満の咀嚼。
橘は気遣いを発動する。
音を消す。
気配も消す。
存在すら薄くする。
もはや“乗客”ではない。
概念だ。
(……食に集中するんだ、流れ弾がやって来ない様……)
だが――
その努力ごと、
空気の重力に押し潰された。
もぐ。
(……牛肉煮のとこもうま)
現実逃避が加速する。
(いやほんと、これだけが救いだ)
(戦闘でも会議でもなくてよかった)
(いや、よくはない、全然よくはない)
ふとラベルを見る。
牛丼弁当 牛肉どまん中。
(名前の圧、強すぎだろ、牛の字、多すぎだろ)
(でも正直――)
もう一口。
しみじみ。
(……これ、うま)
結論。
この車内で一番まともなのは、
駅弁だった。




