017 2025年4月21日(火)_07 箱大仏、起動
定時前の夕方。
片桐一葉は、椅子をきい、と鳴らして立ち上がった。
「……トイレ、遠すぎなんだよな、ここ」
文翔館の事務所からお手洗いまでは、観光客用の動線と同じ廊下を通らなければならない。
レンガ壁と高い天井。夕日が差し込むと、やたらと“きれいな場所”になるのが、彼女のちょっとした不満だった。
帰り道、正面玄関ホールの脇で、背の低い女の子が立ち尽くしているのが目に入った。
小学一年生くらい。金髪。大きなリュック。
きょろきょろと見回す目が、完全に“迷子”のそれだった。
「……あ」
一葉は、県庁時代に受けた研修を思い出す。
来館者・観光客が困っている場合、業務に支障のない範囲で補助を行うこと。
規則以前に、放っておけなかった。
「Hello. Are you… lost?」
女の子は一瞬きょとんとしてから、勢いよくうなずいた。
その勢いで、ほっとした顔になる。
「オーケー。オーケー。パパ、ママ、いるとこ、いこ」
一葉は、たどたどしい英語と身振りで、管理事務所の方向を指した。
文翔館の施設管理は、
公益財団法人 山形県生涯学習文化財団。
観光対応の窓口も、正面近くにある。
夕日が廊下の床に長い影を落とす。
レンガの壁がオレンジ色に染まって、やけに映画みたいだった。
受付に着くと、見るからに観光客な両親が、心配そうな顔で待っていた。
「Oh my god…! Thank you!」
何度も頭を下げられて、一葉は照れる。
「いえいえ、どういたしまして……」
流れで、なぜか記念写真を撮ることになった。
場所は、正門の外。
文翔館のシンボル、時計塔が見える位置。
スマホを構えられ、一葉は家族の隣に立つ。
その瞬間だった。
——空気が、ずれた。
世界が、ほんの一拍、噛み合わなくなる。
---
同じ頃。
文翔館管理室・特別保全担当。
児島と若林は、それぞれ湯呑とマイカップを手に、ひと息ついていた。
「……あんた、ほんとにコーヒーを湯呑で飲むの、やめないわね」
若林が苦笑する。
「楽なのよ。これ」
児島は、何でもないように答えた。
「……新人の片桐ちゃん、いい子だよね」
児島は少しだけ視線を落とす。
そして、静かに頷いた。
「……そうね」
一拍。
「綾……あの子、ちゃんと母親してたんだね」
若林は椅子にもたれ、天井を見上げる。
「うん」
少しだけ笑う。
「こうやってさ、何も知らない子が入ってきて、
それで、あの出来事も、ちゃんと風化していくんだろうね」
児島は返事をしなかった。
そのとき。
一葉のデスクに置かれたスマホが、ぴ、と光る。
児島の視界に、一瞬だけ待ち受けが入った。
★Nara Tohru Ch★
投資系チャンネルの配布壁紙。
黒髪で、愛想のいい、どこにでもいそうな青年の笑顔。
——児島の喉が、ひくりと鳴る。
「……若林」
「なに?」
「“あれ”、覚えてる?」
若林が画面を見て、顔色を変えた。
「……まさか」
その瞬間。
事務所の空気が、冷えた。
スピーカーが、勝手にノイズを吐く。
> ああ、やっぱりその名前、覚えてたんだ
柔らかい声。
27年前と、まったく同じ口調。
> でもさ。
> それ、ここで僕の“名まえ”を呼ぶと“扉”になるんだよ?
湯呑の縁に、細かな結露が走る。
若林が、引き出しを乱暴に開ける。
「……来るの?」
児島は、目を逸らさない。
「“来る”んじゃないわ。
もう、いるのよ」
二人は、同時に、
古びたデスクの奥にある樹脂カバー付きの赤いボタンを叩き割る。
——山形県総務部 防衛課・指令室再起動。
床下のどこかで、低い振動音が目を覚ました。
壁だったものが展開し、無数のブラウン管が現れる。
事務所の床下から古びた電子機器が露出し、急降下する。
地下50メートル、かつての最前線へと。
---
正門前。
石原は、鼻を突く焦げたような匂いに顔をしかめた。
「……まさか……!!」
七日町通りの建物の角。
空間が、煙のように歪む。
ぬるり、と。
四つ足の、巨大なオオカミのような“何か”が、現れる。
視線が向く先は、一点。
——観光客の家族と、片桐一葉。
「お嬢ちゃん達!!門の中に逃げろ!!」
遠くから誰かの声。
声が、思ったより出ない。
脚が、思うように動かない。
怪物が、舌を垂らす。
一葉は、無意識に家族の前に立った。
眼鏡が微妙にずれる。
「……あ、無理かも」
そう思った。
火花散る信号。
ゆっくりと、
ゆっくりと、
落下してゆく。
真下に誰か。
速度感がバグる。
大きさ、箱大仏といい勝負だな、なんて、
どうでもいいことが頭をよぎる。
咢が、ゆっくり開く。
——次の瞬間。
ごうっ!!
爆音。
時間が元に戻る。
円柱のような“腕”が、怪物の口にねじ込まれていた。
「……箱大仏様……?」
---
山形市青柳。
“オブジェ”と呼ばれていた場所。
丸い二つのカメラが、淡く発光する。
20メートル級の巨体が、文翔館の方向を向く。距離にして約5キロ
耳障りな異音、
装甲が展開。
前腕のタービンが甲高い音を立てる。
ペンチのような無骨な手が、空間を“掴む”。
——真空が、生まれる。
巨体が、そこにねじ込まれる。
マッハ50。
カタログスペック上だけの机上の速度。
後には、
倒壊防止用のワイヤーだけが、重力に従って落ちていった。
その日、青柳から旅籠町にかけて、
突風、霜、結露、電子機器の瞬断が多発した。
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正門前。
無人の山形ロボが、怪物の咢に拳を突き立て、仁王立ちしている。
箱のような胴体。
太く、単純な手足。
半球状のカメラが、微かに光る。
ガラス越しに見ていた人々の中で、
若い世代が叫ぶ。
「箱大仏だ……!」
だが、
一定以上の年齢の者たちは、違う名前を口にしていた。
「……山形ロボだ」
守護神。
壊れなかったもの。
撤去できなかった構造物。
その角ばった体が、
27年ぶりに邪悪と対峙していた




