016 2026年4月21日(火)_05 しょかんのクッキー
月面の砂塵は、ただの砂ではない。
鋭角な微粒子が静電気で装備に貼りつき、気道を傷つけ、機械の摩耗を加速させる。
宇宙線は遮蔽で減衰できても、防げはしない。
高エネルギー粒子は半導体に誤作動を起こし、生体にはDNA損傷として蓄積する。
海底では、さらに単純だ。
圧力は構造を内側から畳む。
そこにあるのは、善悪ではなく物理法則だけ。
――そういう環境が、“あちら側”だと記録されている。
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1999年7月。
冥王星軌道外縁と接続するはずだったワープゲート様構造が発生。
地球側の最大戦力が投入された。
全戦力は一時的に観測圏から消失。
数時間後、地上へ再出現。
搭載ログは約30年相当の戦闘時間を記録していたが、
生存者の加齢は確認されなかった。
聞き取りは成立せず、記録は「計測系異常」として再分類された。
グレート山形ロボに単身搭乗したパイロットは、
MIA――行方不明。
回収された機体のコックピットは、無人だった。
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山形ロボの外装は、
自己修復性高分子層、複合セラミック、
精神感応型機能性合金――ヒヒイロカネの多層構造。
理論上、恒久損傷は成立しない。
だが、1999年以降、修復されない傷痕が残っている。
技術班はこれを、
「破壊」ではなく、
構造的否定と分類した。
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山形ロボが残された理由は単純だ。
壊せなかった。
完全解体の試算は、
地方自治体の年間予算数十年分超。
国は関与せず、
装置は「用途不明の歴史的構造物」として保存された。
製作者不詳。稼働履歴なし。撤去不可。
英雄でも、神でもない。
ただ、撤去できなかった構造物。
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「……片桐さん?そのページ、ひっくり返ってるわよ」
児島裕子が、紙束の向こうから声をかけた。
「え、あ、すみません!数字ばっかりで、どれが上下かわかんなくて……」
「新人あるあるね」
若林がクッキーをかじりながら笑う。
「深く考えないほうが、長生きするよ」
「え、怖いこと言わないでくださいよ……」
児島は、小さく微笑んだ。
机の上には、古い報告書と、湯のみと、ちょっと奮発したクッキーの袋。
あの日、命を賭けた記録と、
今日のおやつが、同じ机に並んでいる。
それが、守られた世界の形だった。
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一葉が最初に覚えた違和感は、
予算書の一行だった。
それが、さっきからずっと、胸の奥に小さなしこりのように残っている。
老朽化対策費。
耐震補強費。
維持管理費。
そこまでは、分かる。
だが――
「発電され、売電されている電気代」
ただの箱。
学生時代は「箱大仏」なんて呼んでいた、あの構造物。
それでも、
この項目だけは毎年、削減されずに計上されている。
「……やっぱり、なんかおかしくないですか。
普通じゃないですよ?
週刊誌とか、来ないですよね?」
若林は、肩をすくめた。
「来たら、そのときはそのとき。
私たちは、お出迎えするだけよ」
児島は、何も言わずに、静かにコーヒーの入った湯のみを傾ける。
壊せなかったから、残した。
理解できなかったから、名前を変えた。
怖かったから、予算に押し込めた。
山形ロボは、今もそこにいる。
英雄でもなく、神でもなく、
ただの――
「撤去できなかった構造物」として。




