138 2026年5月18日(月)_04 異世界転生したら猫だった件について
眠い。
寝ていない。
ノートを開き、メモを取るふり。
ペン先が止まる。
視界が、ふっと暗くなる。
落ちる。
コツン。
背中を、心愛が突く。
無視。
また突く。
無視。
「片桐さん、具合悪いのかな?」
声。
顔を上げる。
横に、山部先生。
情報担当。
怒らない。
でも、時々読めない。
「すみません」
小さく言う。
「大丈夫なら起きようか。」
それだけ。
怒らない。
でも、逃がさない。
授業は続く。
いつものように。
スクリーンに映るスライド。
タイピング音。
クラスのざわめき。
日常。
でも。
その裏で、なにかが渦巻いている気がする。
いち姉ぇ。
何に巻き込まれてるの?
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昼休み。
明日から定期テスト。
問題集を開く生徒が増える。
ページをめくる音。
鉛筆の擦れる音。
陽葵は、自販機で水を買う。
戻る途中。
廊下で、帰り支度をする山部先生とすれ違う。
「先生、帰るんですか?」
「うん。非常勤だからね。今から別の仕事。」
穏やかな笑顔。
「お疲れさまです」
「ありがとう」
去っていく背中。
少し、疲れているようにも見えた。
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教室に戻る。
星奈、瑠羽、心愛。
三人が顔を覗き込む。
「大丈夫?陽葵、顔色わるいよ?」
「帰りなよ、ヤバいって」
「……うん、ありがとう」
笑う。
うまく笑えてるかは分からない。
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なんとか授業を終える。
帰り道。
いつもの寄り道は、今日はやめる。
六椹八幡宮が見えてくる。
その手前。
路地の端。
子猫が倒れている。
「……え?」
近づく。
息はある。
怪我している。
小さい。
軽い。
自宅マンションへ連れて帰る。
ペット可の物件だ。
けれど。
冬に、飼っていたトイプードルが天寿を全うした。
小さな体で、最後までがんばって、静かに眠るように逝った。
それ以来。
また誰かを迎えることが、どこか怖かった。
別れの重さを、もう一度引き受ける勇気が、まだ持てなかった。
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水を少し飲ませる。
タオルケットの上に寝かせる。
呼吸は浅い。
どうする。
動物病院?
お金。
お母さんに電話?
思考がぐるぐるする。
そのときだった。
「ありがとう。助かったよ」
確かに、声がした。
陽葵の身体が、ぴたりと止まる。
テレビは消えている。
スマホも机の上に置いたまま。
玄関の鍵は閉まっている。
窓も、さっき自分で確認した。
音の出どころが、ない。
「……え?」
喉の奥が、からからに乾く。
「驚かせてすまない。僕だ。ここだ」
落ち着いた声。
年若い、けれど妙に凛とした響き。
ゆっくりと、視線を下げる。
タオルケットの上。
怪我をしていたはずの子猫が、こちらを見上げている。
瞬きをひとつ。
そして、確かに。
小さな口が、動いた。
「僕は、聖王国キッズオルナート、聖十字騎士団二番隊隊長、水の騎士カル。カル・ヴィー・サージュ。あなたの善意に感謝する」
脳が、理解を拒否する。
聖王国?
騎士団?
二番隊隊長?
水の騎士?
……子猫?
情報が渋滞する。
整理が追いつかない。
目の前にいるのは、どう見ても真っ白い、手のひらに収まるサイズの子猫だ。
だが、声は確かに、部屋の中で響いている。
腹話術でも、幻聴でもない。
「……しゃべった……?」
かすれた声が、自分のものとは思えないほど小さく出る。
子猫――カルは、わずかに首を傾げた。
「正確には、あなたの脳に直接、音声情報を送っている。空気は振動していない。だから外部には聞こえない」
さらりと言う。
内容は意味不明なのに、口調はやけに理知的だ。
「混乱しているのは理解できる。だが、まずは安心してほしい。敵意はない。あなたが水を与え、傷を処置してくれた。その恩義を忘れるつもりはない」
陽葵は一歩、後ずさる。
背中が、壁に当たる。
現実感が、薄い。
さっきまで考えていたのは、動物病院の費用と、お母さんへの説明だったはずだ。
なのに。
聖王国。
騎士団。
異世界。
「……夢?」
「違う」
即答。
「ここはあなたの世界だ。だが、僕にとっては異界だ」
青い瞳が、真っ直ぐに陽葵を射抜く。
その視線だけが、やけに本物だった。
日常が、静かに、確実に。
音もなく、傾いていく。
「……え」
やっと出たのは、それだけ。
言葉が続かない。
思考がまとまらない。
情報が、属性が多すぎる。
カルと名乗った子猫は、ゆっくり瞬きをする。
青い瞳。
澄んでいる。
「安心してほしい。今の僕は、この異世界では猫の姿でしか顕現できない。害意はない」
久しぶりの感覚。
世界が、ひび割れる感じ。
サンタクロースがいなかったと知ったあの日。
いち姉ぇの、下手くそな嘘。
あの衝撃と、同じ。
いや。
それ以上。
「……うそ」
「信じてくれ、僕は実在する」
冷静な声。
子猫の口から。
カルが、ゆっくり言う。
「とりあえず、食事を所望したい。」
心臓が、強く鳴る。
陽葵の日常も、音を立てて傾き始めていた。




