20 モイゼス焦る
指導部からの調査でモイゼスが尤もらしく婚約者への疑惑を吹き込んだにも関わらず、あれから数日経っても、エメリエラとその身の回りに変化はなかった。
モイゼスは焦れていた。
彼が立てていた予想では、早々に指導部がエメリエラの取り調べを始め、ピオニアへのいじめを疑われたエメリエラが憔悴するなり取り乱すはずだった。
そこで自分がフォローに入り、汚点がついたエメリエラを慰め、変わらず婚約者でいることを許してやる筋書きであったのだ。
なのに、エメリエラは変わりなく涼しい顔で登校し、内心じりじりとしているモイゼスに形式的な挨拶と微笑みを見せるだけだった。
とうとうしびれを切らした彼は、今朝、取り巻き達をつかって噂を流した。
噂の内容は指導部に吹き込んだ事とほとんど同じだ。
ピオニアの実家への事をつけ足したくらいである。
勿論これについては、払うことにはならないだろう。
彼女からの連絡で実家が噂を知ったとしても、さすがに男爵家風情が上位貴族に金銭を要求してくることはあるまい。
これは全てただの『噂』。
自分は慈悲深い男であるとイメージをつけるのが目的で流しただけだ。
早朝から取り巻き達に流させた噂は午前の内に学園中に広がった。
あとはエメリエラが血相を変え、自分に助けを求めてくるのを待つだけ。
そう思っていたのに。
――なぜ思い通りにならない、クソっ!
エメリエラの教室を伺ってきた取り巻きから、彼女が全くダメージを受けてない様子だと告げられて、モイゼスは苛立った。
そして彼の苛立ちの原因は、エメリエラのことだけではなかった。
今朝、噂を流すよう命じた時だった。
数人の取り巻きたちが気まずそうな顔をしながら首を横に振ったのだ。
『もう、やめましょう』
ずっと共にピンク髪を嘲笑ってきた……なんならモイゼスの命令とはいえ彼よりピンク髪に向かって罵倒の言葉を投げてきた数人が、離れていったのだ。
主に皆伯爵家や公爵家の子息だった。
そうしてモイゼスの元に残ったのは、子爵家と男爵家の子息達だけだった。
たかが外見を変えただけの下級女に怖じけた小心者共めと離れていった彼らのことを軽蔑していたが、昼を過ぎ午後の頃には、モイゼスは自分がまるで小者にしか慕われない貧相な男のような気がしてきた。
そして、授業を受けながらも頭の隅ではずっとそのことを考え続け、放課後には『気がするではない、そうなのだ』と静かに現状をのみこんだ。
最初は慕われていたはずなのに、あのピンク髪がこざかしく立ち回ったおかげで、自分と同じレベルの仲間達はすっかり騙されて離れて行ってしまった。
教養の低い格下だけが残った状態では、すぐに物笑いになってしまうだろう。
自分はこのままではいけない、と目の端が震えた。
そんな時だった。
廊下の窓から中庭を横切る人影を見たのは。
今日はことさら気温が低いから、モイゼスたちはガゼボには来ないと思っていた。
ピオニアは動揺を隠し軽く頭を下げた。
「――ここにいらっしゃることが多いのは存じ上げておりましたが、今日は無人でしたので。ここからはどんな眺めなのか気になって。すぐに失礼します」
「気にすることはない。全生徒が共同で使う場所だからね。……しかし本当かな?」
くく、と含み笑いをしながらモイゼスはピオニアに歩き寄ってきた。
思わず後ずさる。
「何が、でしょうか?」
「無人だから来たという理由だ。ピオニア・バンガッセ男爵令嬢。私に話があったんじゃないのか?」
「いいえ、何も。……話したいことなど何もありません。今までだってモイゼス様には話が通じなかったではありませんか。嫌がらせをやめてほしいと何度お願いしても…」
少々感情的になったのか、ピオニアの声は少し咎めるような強さになった。
「私の婚約者が君にずいぶん迷惑をかけたと『噂』で聞いたよ。そのことで君はここに私を待っていたんだね」
「また話をお聞きになってくださらない。噂は嘘です。エメリエラ様がそんな人ではないのは私、よく知っていますから!」
「君は意地の悪いエメリエラよりも自分のほうが婚約者に相応しいと、私に囁きに来たのだ。たった一人でこの場所に。穴があいたばかりなのも好都合だな。まさしく『男漁りに目覚めた男爵令嬢』らしい」
嫌らしい微笑みを浮かべたままのモイゼスに、ピオニアはぞっとした。
後ずさり続ける彼女の足がガゼボの座席部分に当たり、バランスを崩す。
「でも困るんだ。君の誘惑には応えることはできないんだよ。ピンクブロンドの男爵令嬢」
モイゼスはよろけたピオニアの腕をつかみ抱き寄せた。
無理矢理抱きしめられ、ピオニアの体はこわばった。
突然の恐怖に声が出ない。
モイゼスはハッと笑い、乱暴にピオニアの顎をつかんで上を向かせた。
「いきなり抱きつき誘惑してきたお前を、私は毅然と受け入れない。そういう筋書きさ。………奴らなんかいなくても俺は、強いんだ!」
愚かな女に抱きつかれ無理やりキスをされたところで、モイゼスは彼女を突き放し、中庭近くの校舎まで聞こえる大声でこう叫ぶのだ。
やめろ汚らわしい、放したまえ!!!
そうすれば婚約者の弱みにつけ込み誘惑してきた男爵令嬢を断罪する、誠実な侯爵子息の姿を皆に見せることができる。
「ぃ、い、嫌ッ……!」
ピオニアは身をよじるが、男性の力にはかなわず身動きもとれない。
そして彼女の顔にモイゼスの顔が重なった時。
風を切る音がピオニアの鼻先をかすめ、モイゼスの顔で遮られていた視界が明るくなった。
唇を口の内側にまきこむ断固キス拒否の顔のまま瞼を開けると、モイゼスの首に後ろから腕が巻き付いてピオニアの顔から引き離していた。
「な、誰……」
振り向けず呻くモイゼスの後ろから顔を出してピオニアの無事を確認すると、サリムはそのまま首の前後に回した腕へ力を入れる。
モイゼスは一瞬で落ち、ずるりとピオニアの体から剥がれ落ちた。
サリム様が、助けてくれた。
そう脳が認識したとたん、ピオニアの緊張が切れて涙がこぼれた。
そんな彼女を見たサリムも目を見開き表情をぐっとゆがめたが、怒りの感情が勝ったか体のほうは転がったモイゼスを更に絞めようと動いていた。
「え、ちょ、追加絞めはヤバいですサリム様」
「ヤバいのは知ってるけど知ったことか」
本当に絞める顔になっているサリムを何とか止めると、彼はためらいながらピオニアを抱きしめた。
モイゼスに無理矢理された先程までのことで、体に触れられる事がピオニアの負担になっていないか心配したのだろう。
その気遣いがピオニアには嬉しかった。
「ありがとうございますサリム様。……エメリエラ様のところには」
「それは俺の役目じゃない。俺はピオニアといる。遅れて本当にごめん。ここにいると思わなくて」
言われて、ピオニアは彼女の真の婚約者を思い浮かべた。
ここでサリムがその人の名を口にしないのは、まだ地面に転がっている男に聞かれると面倒だからだろう。
念のためにちゃんと息をしているか、ピオニアはモイゼスの顔近くに手を当てて呼吸の確認をする。
そしてあと数秒もしないうちに意識を戻すだろうとふんで、二人はガゼボを後にした。
歩きながらサリムはピオニアの手を握った。
「保健室、行こ」
「どこも怪我はしてませんよ。大丈夫です」
「口消毒しないと」
「直前にサリム様が絞めてくださったから無事です!唇もしまってたし。無事です!」
そんなやり取りをしながら、他の生徒達の視線が飛んできても、二人は馬車までぎゅっと手をつないだままでいた。
モイゼスの家から何か言われるかもしれないと思ったが、そんなピオニアの予想は当たらなかった。
翌日から数日間、彼は学園に来なかった。
噂のひとつにあった『エメリエラへの罰則を代わりに受ける』がどうやら現実になったらしく、数日間の停学となった………と、それもまた噂として流れてきた。
彼が再び登校してきたのは、粉雪祭の総練習当日のことだった。
本当はサリムには飛び蹴りとかしてほしかったのですがピオニアも一緒に吹っ飛んでしまうので絞めてもらいました。




