黒炎、完全顕現
アッシュは前へ一歩進み、仲間たちを見据え、低く、しかし揺るぎない声で告げた。
「……みんな、下がってくれ」
その声は決して大きくない。
だが、その一言には、全身から滲み出る“これ以上は俺が守る”という圧があり、戦場に立つ誰もが自然と従わざるを得なかった。
大軍を前に、たった一人で立つ孤独。
それでも、アッシュの背中には迷いはなく、仲間を守る意志だけが確かに光っていた。
ポルが眉をひそめる。
「アッシュ!お前ひとりで――」
「大丈夫だ。ここから先は俺がやる」
深紅の髪が風に揺れ、毛先の光が淡く瞬く。
その姿を見た瞬間、仲間たちは言葉を失った。
アッシュの“覚悟”が、言葉より先に伝わってくる。
レーネはすぐに動いた。
剣を掲げ、戦場全体に響く声で叫ぶ。
「イシュヴェル兵、全員――後退っ!!
城壁まで下がれ! 邪魔をするな!」
兵士たちは驚きながらも、声に従い後退を始める。
無数の魔物たちが、なおも押し寄せてくる。
白炎の雨をかいくぐり、あるいは耐え、なお前進する個体もいる。
アッシュは深く息を吸い、呟いた。
「――炎化」
瞬間、彼の身体から黒炎が噴き上がった。
その炎は以前よりも濃く、重く、深い。
アッシュは手を前に出し、低く呟く。
「分炎」
黒炎が四方に裂け、アッシュと同じ姿の“分身体”が次々と生まれる。
十体、二十体、三十体――
炎の影が戦場に降り立つ。
魔物たちが一斉に振り向いた。
アッシュは右手を高く掲げる。
「……終わらせる」
黒炎が一点に収束し、空気が震えた。
「ーー黒炎の咆哮」
全分身体が同時に咆哮を放つ。
黒炎が地を割り、空を裂き、戦場全体を飲み込んだ。
轟音。
爆光。
黒い炎の嵐。
魔王軍は、悲鳴を上げる暇すらなく消し飛んだ。
炎が収まったとき――
そこに立っていたのは、ただ一人。
髪が赤黒く燃えるように揺れ、
瞳の奥に深い炎を宿したアッシュだった。
風が吹き、黒炎の残滓が舞う。
仲間たちは目を見開き、互いに息を飲んだ。
ポルは思わず息を呑んだ。
「……アッシュ、全部取り戻したな」
戦場の荒れた空気の中、その声には驚きと安堵が入り混じっていた。
カリムは目を細め、拳を固く握りしめた。
「なんという力……感服いたします」
その声には驚きと敬意が滲み、戦場に張り詰めていた緊張をわずかに和らげた。
レーネは軽く肩の力を抜き、ほっと息をつく。
「……アッシュ殿……戻ったのですね」
瞳の奥に、安堵の色がゆっくりと広がった。
アッシュは静かに呟いた。
「……これからは一緒に戦おう」
その声は、誰にも届かないほど小さかった。
黒炎の嵐が収まり、戦場に静寂が落ちた。
焦げた大地から立ち上る煙の向こうで、ひとりの影――アッシュが、深紅に染まる髪を風になびかせ、静かに立っていた。
その姿を、空の高みから一つの視線が見下ろしている。
魔王軍四天王の一人――グラキエス。
冷たく光る瞳が、戦場の最前線に立つアッシュを捉えていた。




