深淵を超えて
アッシュは深い闇の底から、ゆっくりと浮かび上がるように意識を取り戻した。
目を開けると、視界に広がったのは天井ではなく、自分の身体を包む二色の炎だった。
黒炎と白炎。
深淵で見た炎が、まだ彼の中で燃えている。
荒れ狂うことなく、呼吸に合わせて静かに揺れ、やがて収束していく。
黒は影へ、白は光へと溶け、最後に残ったのは――
闇を乗り越えて深紅染まった髪。
その毛先だけが淡く光を宿していた。
深淵で受け取った赦しと想いが、確かに形となって宿っている。
その気配を察したのか、客間の扉が勢いよく開く。
「アッシュ殿……! 目を覚まされたのですね!」
シグル王子だった。
その表情には、心からの安堵が浮かんでいる。
「……シグル......ここはイシュヴェルなのか?」
アッシュの声はまだ掠れていた。
シグルはすぐに駆け寄り、アッシュの肩に手を置く。
「本当に……よかった。
気を失われてる間にイシュヴェルまで運ばれたのです。
あなたが目覚めてくれたことが、どれほど心強いか……」
驚愕と安堵が混じった表情だが、その声音には王族としての冷静さがあった。
アッシュはゆっくりと上体を起こし、短く息を吐いた。
「……心配、かけたな。シグル」
その声は以前と同じく静かだが、どこか柔らかさを感じさせた。
シグルは胸に手を当て、深く息を整える。
「本来であれば、快復を祝し、ゆっくりとお休みいただきたいところですが……状況が許しません」
シグルは一瞬の沈黙の後、続けた。
「魔王アーク=ノクティスが復活し、魔王軍がイシュヴェルへ侵攻しています」
アッシュの瞳が鋭く細くなる。
「……どれくらいの規模だ?」
「城壁にて何とか食い止めておりますが、戦力差は歴然です。
冒険者たちの多くは“国のために命を賭す覚悟”を持ち合わせておらず、城壁の外へ出ようとしません。」
シグルの声には、王族としての責任と苦悩が滲んでいた。
「現在、前線に立っているのは――イシュヴェル王国軍と、ポル殿、ポポ殿、カリム殿、ザラフ殿、そしてレーネ。
彼らが必死に魔王軍を食い止めております」
アッシュは深い呼吸をしながら、その言葉を噛みしめた。
「……そうか。みんな戦ってるんだな」
その言葉には静かな強さが込められていた。
アッシュは紅い髪を揺らしながら、ゆっくりと立ち上がる。毛先が淡く光を放つ。
「行くよ。みんなを……誰も死なせたくない。」
その背中を見つめたシグルは一歩前に出て、強く言葉を紡いだ。
「アッシュ殿。どうか……我が国と、皆を救いください。
あなたの力が、今まさに必要なのです」
アッシュは扉の向こう、戦場の方角へと視線を向ける。
「任せてくれ。必ず……守る。」
深紅と残光が揺れる中、彼はもう振り返らなかった――守るべきもののもとへと、ただ静かに歩み出す。




