浮き輪の紐
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これは、わたしが小学校低学年の頃の話です。
当時住んでいた場所は田舎で、夏休みになると海水浴に行くのが恒例となっていました。
当時のわたしは泳げないので、海に入る時は浮き輪に入ってプカプカ浮くことが多かったのです。
砂遊びやビーチバレーなどには興味がなく、その日も海にプカプカ浮いて過ごすはずでした。
「おい、行くぞ」
海で泳いでいた父がわたしに声を掛けて来ました。
「行くって?」
「ほら、あそこ」
父は海の向こうを指差します。
「え、無理だよ。わたし、泳げない」
どう頑張ってもわたしでは辿り着くことは出来ません。
「大丈夫大丈夫。父さんが連れて行くから」
そう言って、父はわたしの浮き輪についている紐を掴んで泳ぎ始めます。
「やだ! 離して!」
父の手を掴んで断りますが、父はわたしの浮き輪の紐を掴んだまま、深瀬へと泳いで進んでいきます。
「お母さんに怒られるよ!」
母から『いくら浮き輪に入っていても深いところへ行っちゃだめだからね』と言われていたので、わたしは何度も父を止めました。
でも、父は潜って泳いでいるのでわたしの声は聞こえておらず、浮き輪に入ったわたしの身体はどんどん陸地から離れていきます。
それから父が連れて来たのは横に長く太いロープが張られた場所でした。
説明が難しいので上手く表現出来ないのですが、【これ以上は進むな】という立ち入り禁止区域だったと思います。
「この縄に掴まっておけよ」
「え!」
父はそれだけ言うと、なんと潜っていなくなってしまったのです。
わたしは父に置き去りにされました。
「ど、どうしよう……」
ロープに掴まりながら、わたしは途方に暮れます。
泳げないので一人で泳いで陸地に戻るなんて出来ません。
「痛い!」
波に乗って身体が動くと、腕に何かが当たります。
それは尖った岩石でした。
「………」
サァ……と血の気が引きます。
浮き輪に岩石が当たったら、穴が空く。
浮き輪に穴が空いたら空気がなくなる。
浮き輪が使えなくなったら、わたしは溺れる。
「ぎゃーっ! お母さーん! お母さーん!」
わたしは父ではなく、陸地にいる母を何度も呼びました。
わたしから陸地は見えているのに、 周りには誰もいないのでわたしに気付く人はいません。
「離さない! 離さないィ~!」
わたしは叫びながらロープにしがみつきました。
浮き輪が使えなくなっても、ロープにしがみついていれば溺れることはないと思ったのです。
でも、
「うで、しびれた……」
ロープにしがみつく力が強かったのか、だんだん両腕が痺れて来ました。
思ったよりも波が高かったので、しがみつく力を緩めることが出来ませんでした。
「どうしよう……」
わたしは独りぼっちになった気分になりました。
この時、父のことなんて忘れていました。
(ロープを掴んだまま動いた方が良いかな? 岩に当たって浮き輪が壊れちゃったらどうしよう? お母さんに怒られるのやだなぁ……)
生命の危機なのに、浮き輪を壊したら母に怒られるというのが怖かったです。
小学校低学年でしたから、溺れることは分かっていても“死ぬかもしれない”という考えが浮かばなかったのです。
そうして、どうしようかと考えてた時でした。
ずぼっ!
いきなり、わたしは海の中に沈みました。
引き摺り込まれた、というのが正しいでしょうか。
上を見ると、ブクブクブクブク……と大量の泡が見えました。
バタバタと両足を動かすと何かが絡みついています。
その何かはわたしの両足を下に引っ張るのです。
少しずつ息が苦しくなります。
早く足についたのを取らないとと、わたしは必死に両足をばたつかせました。
その時に両手も一緒にバタバタと動かすと、何故か左手が動きませんでした。
左手は手を挙げてる状態でびくともしません。
しかも左手は何かを握っています。
(これ、離しちゃだめだ)
なんとなくそう思いながら左手に力を入れて下に下ろした瞬間、
びゅん!
わたしの身体は勢いよく上に引っ張られました。
「……ぶはぁ! はっ、はぁはぁ、はっ……」
気が付くと、わたしは息が出来ていて何度も深呼吸をしていました。
右手をブンブン振ると何かに当たります。
それはさっきまで掴んでいた太いロープでした。
「………」
深呼吸をしたことで落ち着き、キョロキョロと辺りを見渡すとわたしは浮き輪の中に入ってませんでした。
ロープを右手でしがみつき、左手を見るとわたしは白い紐を握っていました。
わたしが左手でずっと握っていたのは、浮き輪の紐でした。
「ん? ん?」
訳が分からなかったのですが、浮き輪はそのまま紐に繋がれてあったので、右手でロープを掴んだまま浮き輪を被ってわたしは何とか浮き輪の中に入りました。
ふー、と一息ついた時です。
「お前、どこにいるんだよ!」
父が泳いでやって来ました。
あそこにいただろ、と指を差してます。
どうやら、わたしは父が置き去りにした場所から移動していたようです。
周りに尖った岩石がなかったので、父の言ってることは本当でしたが、そんなことはどうでも良かったです。
「流された」
わたしがそれだけ言うと、父は舌打ちをしてわたしの浮き輪の紐を掴み、潜って泳ぎ始めます。
父はなんか色々言ってましたが、わたしは頭がボーッとして舌打ちしか覚えていません。
父に文句を言う気力はありませんでした。
浅瀬に戻ると、父はわたしの浮き輪の紐から手を離してまた泳ぎに行きました。
「ゆえ!」
とぼとぼと海から上がると母がわたしに声を掛けて来ました。
「あんた、水分補給もしないで何処行ってたの!」
「あそこ」
わたしが海の向こうを指差すと、母の目がカッと見開きます。
「こっちに来なさい!」
母はわたしを敷物の上に座らせて、水分補給させてくれました。
500mlのペットボトル飲料を一気に飲み干しました。
とても美味しかったというのは覚えているのですが、何を飲んだのかは覚えていません。
母がわたしに何があったのかを聞いてきたので、今まであったことを包み隠さず話しました。
「あんの野郎……」
母は父に怒っていました。
母の顔はとても怖かったです。
「大丈夫だったの! 怪我は!?」
「ないよ!」
わたしは立ち上がって、怪我がないことをアピールします。
だけど、
「っ、あんたそれ!」
母がわたしの両足を見た瞬間、叫びました。
母につられて、わたしも自分の両足を見ます。
「うわっ、なにこれ!」
膝から足首にかけて無数の跡がついていたのです。
「……これ、手形だわ」
母が自分の手と無数の跡を見比べます。
わたしの両足首にはくっきりと握られた跡がついていました。
「痛くない?」
「うん!」
両足に痛みはありませんでした。
それよりも、父が来るまでロープにしがみついて待っていたこと、浮き輪を壊さなかったことを母へ自慢気に話していました。
「海に慣れさせようと思って」
泳ぎから戻ってきた父に母が怒りながら問い質すと、そんな答えが帰って来ました。
「ゆえも楽しかったよな?」
父に悪気は一切なく、へらへらしていました。
わたしを深瀬に連れて行ったのは、たまたま目に入ったのがわたしだったという理由でした。
「流されてたらどうすんのさ!」
「いや、ロープ掴んでおけって言ったし」
父には自分の娘を危険な目に遭わせたという自覚がありませんでした。
「ちっ。普段出来ない経験をさせてやったんだからありがたいと思えや」
母が怒っても父は面倒くさそうにしながら、そう言い捨てました。
「もう海には来ない!」
「はぁ!? なんでだよ!」
「行きたかったら一人で行け! ゆえの足見れや! お盆近くだから足引っ張られたんだよ!」
「うわっ、きもっ! なにやってんだよ、バカ!」
父はわたしの足を見て、顔をしかめました。
そう思うくらい、わたしの両足には無数の跡がついていたのです。
両足についた無数の跡は、家に着く頃には無くなっていました。
両親が険悪なムードだったので姉妹は何も言わず、無数の跡がついたわたしの両足を見ることはありませんでした。
母はお祓いした方が良いかと悩んでいたようですが、わたしが足に関する怪我をしなかったのでお祓いには行きませんでした。
「海に行くぞ!」
父は翌年も懲りずに海水浴へ行く気満々でした。
「行かない」
「二人が行かないなら行かない」
わたしも姉妹もインドア派なので、必ずしも海水浴に行きたいわけではありません。
海水浴に行きたいのは父だけで、家族はそれに付き合っていただけなのです。
「おい、ゆえ。俺が泳ぎを教えてやる」
そう言って、父は浮き輪の紐をハサミで切りました。
「行かなくて良い!」
「なんでだよ!」
それを見て、母が怒って止めました。
浮き輪の紐があったから溺れずに済んだというわたしの話を聞いていたはずなのに、何故切ったのか分かりません。
新しい浮き輪を買っても、父は浮き輪の紐を切っていました。
母は呆れて、浮き輪を買うのを止めました。
海水浴には友だちが行くという日以外、行かなくなりました。
わたしは海には足首に浸かるくらいで、友だちと砂遊びや貝殻探しなどをして海の中を浮き輪で浮くことは止めました。
わたしたちの学年が上がる度に海水浴へ行く数が減り、父の仕事の都合で引っ越しました。
それから、我が家で海水浴には一度も行っていません。
わたしはテレビで海水浴を見ても恐怖はなく、不幸な結末にならなきゃ良いなと毎年夏になると思うのです。
【終】




