第95話 猫の名誉
翌朝、アギロスの街は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
表向きは穏やかな鉱山町。だが、地下で奴隷が囚われていたという事実は、一夜にして街中に広まった。役人たちは慌てて調査を始め、市民たちは不安と怒りをない交ぜにした表情で、閉鎖された坑道の入り口を見つめている。
「ユアン様。このたびは、誠に申し訳ございませんでした」
宿の前に、昨夜とは別人のような顔で、例の役人が頭を下げに来た。顔色は青ざめ、脂汗が滲んでいる。
「我々も、まさか地下であのようなことが行われているとは。奴隷商人どもが、我々の目を盗んで、坑道を使っていたとは」
「本当に、ご存じなかったのですか」
ユアンの声は、静かだった。責める調子ではなかった。だが、その静けさが、かえって役人を怯ませた。
「は、はい。本当です。信じてください」
「……わかりました。信じます。ただし、これからは目を光らせてください。同じことが起きないように」
「もちろんです。必ず」
「それと、解放した人たちの身元確認と、安全な場所への移送をお願いします。中には、遠くの国から連れてこられた人もいます。家族のところへ帰したい」
「承知しました。全力で対応いたします」
役人が去ったあと、フィアがユアンの袖を引っ張った。
「ユアン。あの役人、本当に知らなかったのかにゃ」
「どうだろうな。でも、問い詰めても仕方ない。今は、これからのことを考えよう」
「ユアンは優しいにゃ」
「お前ほどじゃないさ」
ユアンはフィアの頭に手を置いた。フィアは照れくさそうに、耳をぺたんと倒した。
午前中、ユアンたちは解放された奴隷たちの診察を行った。
長い間、劣悪な環境に置かれていたため、栄養失調や感染症、古い怪我を抱えた者が多い。ルーチェが聖属性医療で一人ひとりを丁寧に癒やし、エルナが氷魔法で清潔な水と包帯を作る。ユアンは重症の患者を《完全回復》で治し、フィアは子供たちに寄り添って、彼らの不安を和らげた。
「フィアさん。この子、ずっと震えてます」
ルーチェが、小さな獣人の女の子を連れてきた。年の頃は五歳ほど。猫耳が、フィアと同じだ。
「にゃ。この子、獣人にゃ。しかも猫族にゃ」
フィアは女の子の前にしゃがみ込んだ。
「お名前は」
「……ミャ」
「ミャちゃんにゃ。いい名前にゃ。あたしはフィアにゃ。よろしくなにゃ」
女の子は、フィアの猫耳と尻尾をじっと見つめた。それから、小さな声で言った。
「……おんなじ」
「そうにゃ。おんなじ猫族にゃ。ミャちゃん、怖かったにゃ。でも、もう大丈夫にゃ。あたしがいるにゃ」
フィアは女の子を抱きしめた。女の子は、フィアの胸に顔をうずめ、静かに泣き始めた。フィアも、目に涙を浮かべていた。
(あたしも、昔はこんなだったにゃ。誰かに助けてほしかったにゃ。でも、誰も来なかったにゃ。……でも、この子には、あたしがいるにゃ)
「フィア。よくやったな」
ユアンが、そっと声をかけた。フィアは涙をぬぐい、振り返った。
「ユアン。あたし、この子がいたら、強くなれる気がするにゃ」
「そうか」
「うん。あたしの過去は、消えないにゃ。でも、この子を助けることで、あたしの過去も、少しだけ報われる気がするにゃ」
「……フィア」
ユアンは、フィアの頭に手を置いた。フィアは、ミャを抱きしめたまま、静かに微笑んだ。
その日の午後、街の広場で、解放された奴隷たちが、住民たちに感謝の言葉を述べる場が設けられた。
「私たちは、この街で奴隷として売られそうになっていました。でも、リリスノアのフィア様が、私たちを救ってくれました」
一人の老いた獣人が、震える声で言った。
「フィア様は、たった一人で、奴隷商人たちに立ち向かいました。あの小さな身体で、私たち全員を守ってくれたんです。私は、あの姿を、一生忘れません」
広場が、静まり返った。住民たちの視線が、フィアに集まる。フィアは、突然のことに、猫耳をぴんと立て、尻尾を膨らませた。
「にゃ。にゃ。あたしは、ただ、当たり前のことをしただけにゃ。誰かが苦しんでいたら、助ける。それだけにゃ」
「それが、どれほどすごいことか。あなたは、私たちの命の恩人です」
「……にゃ」
フィアは、照れくさそうに、顔を赤らめた。ユアンは、その様子を見て、思わず笑ってしまった。エルナも、ルーチェも、同じように笑っている。
「フィアさん。かっこいいですよ」
「にゃ。ルーチェ、笑わないでほしいにゃ」
「だって、フィアさん、顔が真っ赤ですよ」
「うるさいにゃ」
フィアは、ミャを抱きしめたまま、住民たちの拍手に包まれた。その姿は、かつて奴隷商人に捕まり、震えていた少女とは、まるで別人だった。
夕方、一行は、アギロスを発つ準備をしていた。
「ユアン。次の目的地はどこにゃ」
「北の山岳地帯。そこにも聖遺物が眠っているらしい」
「また忙しくなるにゃ」
「ああ。でも、今回は、フィアのおかげで、大きな問題を一つ解決できた。助かったよ」
「あたしは、ユアンの相棒にゃ。これくらい、当たり前にゃ」
「頼もしいな」
ユアンは、フィアの頭を撫でた。フィアは、気持ちよさそうに目を細める。
「ねえ、ユアン。あたし、一つ、わかったことがあるにゃ」
「なんだ」
「あたしは、ユアンの隣にいるだけで、強くなれるにゃ。ユアンが、あたしを信じてくれるから、あたしは、どんな敵にも立ち向かえるにゃ。……だから、これからも、ずっと一緒にいてほしいにゃ」
「ああ。お前は、俺の相棒だ。ずっと一緒だ」
「……にゃ。約束にゃ」
フィアは、ユアンの小指に、自分の小指を絡めた。ユアンは、その小さな指の力を、しっかりと感じた。
(フィア。お前は、もう、昔のフィアじゃない。お前の過去は、お前の強さに変わったんだ。……俺も、お前みたいに強くなりたい。お前が、そうしてくれたように)
馬車が動き出す。アギロスの街が、徐々に遠ざかっていく。フィアは、窓から身を乗り出し、ミャに手を振った。ミャは、小さな手を振り返している。
「ミャちゃん。元気でいるにゃ! また会いに来るにゃ!」
「フィアさん。ミャちゃん、泣いてますよ」
「にゃ。あたしも、泣きそうにゃ」
フィアは、窓から戻り、ユアンの隣に座った。その顔は、涙でぐしゃぐしゃだったが、笑っていた。
「ユアン。あたし、今日、すごく嬉しいにゃ」
「そうか」
「うん。あたし、生まれて初めて、自分のことを誇りに思えたにゃ。ユアンのおかげにゃ」
「違う。お前自身の力だ」
「……にゃ。ありがとう、ユアン」
フィアは、ユアンの肩にもたれかかった。ユアンは、その温もりを、静かに受け止めた。エルナとルーチェは、向かいの席で、微笑みながら、二人を見守っている。
「ねえ、ユアン。エルナ。ルーチェ。あたし、これからも、頑張るにゃ。自分の力で、誰かを助けられるように。……そして、ユアンの隣に、ずっといられるようににゃ」
「フィアさん。私も、負けませんよ」
「私も。あなたに負けないくらい、強くなるわ」
「にゃ。二人とも、頼もしいにゃ」
三人の笑い声が、馬車の中に響く。ユアンは、その声を聞きながら、思った。自分は、本当に、いい仲間に恵まれた。この仲間たちと一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。そう、確信していた。




