第94話 猫の意地
ミラを発って五日。一行は北の山岳地帯へ向かう道中、古い鉱山都市アギロスに立ち寄った。
街は山の中腹に張り付くように建っている。かつては鉄鉱石の採掘で栄えたが、今は半分が廃墟だ。閉鎖された坑道の入り口が、そこかしこに見える。人々の表情は暗く、道行く者も少ない。
「なんか、嫌な感じにゃ」
フィアが猫耳を伏せて言った。ユアンは頷く。空気が重い。聖属性の感知を広げたルーチェも、顔をしかめている。
「先生。この街、聖遺物の反応はないんです。でも、別の嫌な気配がします。人の痛みみたいなものが、地下から滲み出ている感じ」
「人の痛み」
「はい。誰かが苦しんでいます。それも、一人じゃない。たくさんの」
ユアンは宿を取る前に、まず街の代表者のもとを訪ねた。だが、応対に出た役人は、ユアンの質問に歯切れが悪い。
「苦しんでいる者などおりません。この街は平和です」
「でも、地下から悲鳴のようなものが聞こえる」
「気のせいでしょう。鉱山の古い音です」
ユアンは違和感を覚えた。役人の目が泳いでいる。何かを隠している。
宿に戻り、四人で相談した。
「あの役人、絶対に何か隠してるにゃ」
「私もそう思う。鉱山の音なら、こんなに人の感情が混ざらない」
「でも、証拠がないと動けないわ」
ユアンは考えた。表立って調べれば、相手も警戒する。ならば、別の方法が必要だ。
「フィア。お前一人で調べられるか」
「あたしが」
「ああ。お前の隠密能力なら、誰にも気づかれずに街を探れる。それに、お前の鼻と耳は、俺たちの中で一番鋭い。地下の異変も見つけられるはずだ」
フィアは目を輝かせた。
「任せるにゃ! あたし、こういうの得意にゃ!」
「ただし、無理はするな。危険を感じたらすぐに戻れ」
「わかってるにゃ。ユアン、信じて待ってるにゃ」
フィアは猫の姿に変身すると、窓から音もなく外へ飛び出した。ユアンたちは宿で待機する。エルナが氷で周囲の警戒網を張り、ルーチェが聖属性でフィアの気配を追う。
「先生。フィアさん、すごく速いです。もう街の外れまで行きました」
「あの身軽さは、本当にすごいな」
「彼女はスパイ部隊のエースですから。あの小さな身体のどこにそんな力があるのか」
エルナが感心したように言う。ユアンも頷いた。フィアは普段、明るくておちゃらけている。だが、その実力はリリスノアの中でも屈指だ。
フィアは街の地下へ続く古い坑道を見つけた。
表向きは閉鎖されている。だが、入り口の鍵は新しく交換されていた。誰かが定期的に出入りしている。
「にゃ。ここにゃ」
フィアは猫のまま、小さな隙間から坑道の中へ入り込んだ。中は暗く、湿った空気が満ちている。だが、奥へ進むにつれて、かすかな灯りが見えてきた。そして、声が聞こえる。
「早くしろ。次の荷は明日だ。油断するな」
「はい。ですが、最近は数が減っていて。このままでは」
「うるさい。減った分は別の街から仕入れる。それより、こいつらを逃がすな。高値で売れるんだ」
フィアは物陰からそっと覗いた。広い空洞に鉄格子が並んでいる。その中に、十人以上の人が閉じ込められていた。人間も魔族も獣人もいる。みな痩せて、服はぼろぼろだ。奴隷だ。この街の地下で、奴隷売買が行われている。
「にゃ……!」
フィアの猫耳が逆立った。彼女の過去が蘇る。人間の奴隷商人に捕まり、檻に入れられ、売り飛ばされそうになった日々。あの恐怖。あの絶望。それが、ここにある。
(あたしが、助けるにゃ)
フィアは静かにその場を離れ、街に戻った。ユアンたちに報告するためだ。
「奴隷が囚われているにゃ。十人以上。坑道の奥に鉄格子があって、奴隷商人が管理してるにゃ」
フィアの報告を聞き、ユアンの顔が険しくなった。
「奴隷商人。聖教会が衰退してから、各地で増えていると聞いた。でもまさか、こんな近くに」
「どうする。すぐにでも助け出したいけど、証拠がないまま動けば、奴隷商人たちが奴隷を隠すかもしれない」
「エルナの言う通りよ。私が表立って踏み込めば、向こうも警戒する。でも」
ユアンはフィアを見た。フィアは真剣な目でユアンを見返している。その目には、強い決意が宿っていた。
「フィア。お前、一人でできるか」
「ユアン」
「お前の力なら、奴隷たちを解放できる。でも、危険だ。もしものことがあれば」
「大丈夫にゃ。あたし、こういうの昔からやってるにゃ。それに、あたしはもう、弱いあたしじゃないにゃ。ユアンが、あたしを強くしたにゃ」
「フィア」
「行かせてほしいにゃ。あたしの力で、あいつらを助けたいにゃ。あたしと同じ思いをするやつを、一人でも減らしたいにゃ」
ユアンはしばらくフィアを見つめていた。そして、深く頷いた。
「わかった。フィア、頼む。俺たちは外で待機する。何かあったら、すぐに助ける」
「ありがとうにゃ、ユアン。エルナ。ルーチェ。あたし、行ってくるにゃ」
フィアはそう言うと、再び猫の姿になり、夜の闇に消えた。
フィアは坑道に戻った。
今度は一人じゃない。ユアンたちが外で待っている。その事実が、フィアの背中を押す。
「にゃ。作戦を立てるにゃ」
フィアはまず、奴隷商人の人数と配置を確認した。五人。一人は見張り、二人は事務所のような場所に、二人は仮眠を取っている。鉄格子の鍵は、事務所の壁にかかっている。
「まず鍵を取るにゃ。それから奴隷を解放。最後に商人を無力化するにゃ」
フィアは影に溶け込むように移動した。スパイ部隊で鍛えた隠密能力。足音も、気配も、一切立てない。事務所の窓から、するりと中に入り込む。壁にかかった鍵を、音もなく外す。商人たちは気づかない。
「にゃ。まずは一つ」
フィアは鉄格子へ向かった。鍵を使って、次々と檻を開けていく。
「大丈夫にゃ。あたしが助けに来たにゃ。静かに、ついてくるにゃ」
奴隷たちは、恐怖と戸惑いの入り混じった目でフィアを見た。だが、フィアの猫耳と、その真剣な目を見て、少しずつ頷き始める。
「外にユアンがいるにゃ。あたしの相棒にゃ。あいつが、みんなを守るにゃ」
奴隷たちを連れ、フィアは坑道の出口へ向かう。だが、途中で見張りに気づかれた。
「誰だ! 逃げるぞ!」
「にゃっ! 見つかったにゃ!」
フィアは即座に判断した。奴隷たちを先に逃がす。自分は殿を務める。
「みんな、先に行くにゃ! 出口を真っ直ぐにゃ!」
「お前はどうする!」
「あたしは後で追いつくにゃ! 早く!」
奴隷たちが走り出す。フィアは振り返り、迫ってくる商人たちの前に立った。
「お前、獣人か。売り物が逃げたと思ったら、自分から出てきたな」
「あたしは売り物じゃないにゃ。あたしはリリスノアの保安責任者、フィアにゃ」
「なに」
「お前たちを、捕まえに来たにゃ」
フィアの右腕が漆黒のオーラを纏う。影王爪。獣人族に伝わる秘術。彼女の爪が、影を介して商人たちの意識に直接干渉する。
「――《影王爪》」
一閃。フィアの爪が空を切る。だが、商人たちの意識は、その一撃で刈り取られた。物理的なダメージはない。しかし、彼らは声を上げる間もなく、次々と倒れていく。
「……ふう。こんなものにゃ」
フィアは商人たちを縛り上げ、急いで坑道を抜けた。外では、ユアンたちが奴隷たちを保護していた。エルナが氷で包帯を作り、ルーチェが聖光で傷を癒やしている。
「フィア!」
「ユアン。無事に助けたにゃ。商人も捕まえたにゃ」
「よくやった」
ユアンがフィアに駆け寄り、その小さな身体を抱きしめた。フィアは一瞬驚いたが、すぐにユアンの胸に顔をうずめた。
「ユアン。あたし、やったにゃ。あたしの力で、助けたにゃ」
「ああ。お前の力だ。お前が、みんなを救ったんだ」
「……ユアンに、褒めてもらえて、嬉しいにゃ」
フィアの目から、涙がこぼれた。それは、悲しみの涙ではなかった。自分が自分であることを、初めて誇れた瞬間だった。
「フィアさん、すごかったです」
「本当に。あなた一人で、よくやったわ」
「にゃ。エルナもルーチェも、ありがとうにゃ。でも、あたし一人じゃなかったにゃ。ユアンが信じてくれたから、頑張れたにゃ」
フィアはそう言って、ユアンの胸に、もう一度顔をうずめた。その夜、一行は解放した奴隷たちを安全な場所へ送り届け、奴隷商人を街の役人に引き渡した。そして、アギロスの街に、リリスノアの医療派遣制度と奴隷売買の監視網を設置することを約束した。
「フィア。今日は、お前が主役だったな」
「にゃ。でも、あたしはいつでもユアンの相棒にゃ。これからも、ずっと一緒ににゃ」
「ああ。よろしくな、相棒」
ユアンはフィアの頭を撫でた。フィアは気持ちよさそうに目を細め、尻尾をゆらゆらと揺らした。




