第93話 沸騰する海
ミラに着いたのは昼前だった。
港町の入り口に立った瞬間、ユアンは異様な熱気を感じた。空気が生温かく、潮の香りの中に鉄臭さが混じっている。遠くから、ぐつぐつと煮えるような音が聞こえてきた。
「なんだ、この音」
「ユアン。あれを見て」
エルナが港の方向を指さした。そこには信じられない光景が広がっていた。海が沸騰している。水面から白い湯気が立ち上り、波打ち際では泡がぶくぶくと湧き出ている。海水は濁った赤褐色に変色し、異様な匂いを放っていた。
「にゃー! 熱いにゃ! この水、触ったら火傷するにゃ!」
フィアが岸壁に駆け寄り、すぐに飛び退いた。ルーチェが聖属性感知を広げる。
「先生。この海、聖属性の反応が異常です。それも一つじゃない。たくさんの聖遺物が海底に沈んでいるみたい。それが共鳴して海水を沸騰させているんです」
「聖遺物が海底に」
「はい。おそらく聖教会が処分しきれなかった聖遺物を海に捨てたのでしょう。それが長い間海底に眠っていて、世界の傷が癒やされた影響で活性化したんだと思います」
「そんなことが」
港は機能停止していた。船は一艘も出ておらず、漁師たちは岸壁に座り込んで途方に暮れている。魚市場は閉鎖され、海産物を扱う店も全てシャッターを下ろしていた。
「ユアン様。よく来てくださいました」
港の組合長が駆け寄ってきた。初老の男で、日に焼けた顔に深い疲労が刻まれている。
「状況を教えてください」
「三日前からです。突然、海が沸騰し始めて。最初は一部の海域だけだったのが、今では港全体に広がっています。船を出そうにも熱くて近づけない。魚は全滅。このままでは港が立ち行かなくなります」
「原因は海底の聖遺物ですね」
「聖遺物。ああ、やはりそうですか。昔、聖教会が海の底に聖遺物を捨てたという噂は聞いたことがあります。まさか本当だったとは」
「組合長。俺たちがなんとかします。まず海底の聖遺物を特定して、浄化します」
「ですが海底ですよ。どうやって」
「方法はあります」
ユアンは三人を集めた。
「作戦を立てる。まずフィア。港の周辺で一番聖属性の反応が強い場所を特定してくれ。お前の鼻と耳なら、海中の異変もわかるはずだ」
「任せるにゃ。岸壁沿いに走って探すにゃ」
「エルナ。お前の氷魔法で、海面を一時的に凍らせて足場を作れるか。俺が海底に降りるための場所が必要だ」
「できるわ。でも沸騰している海水を凍らせるのはかなりの魔力が必要よ。ユアン、あなたの支援がいる」
「わかった。ルーチェは岸壁で待機。俺が浄化している間、万が一のことがあれば聖盾で援護してくれ。それと、港の人たちの避難誘導も頼む」
「わかりました」
三人が散開する。フィアが岸壁沿いを走り、時折立ち止まっては鼻をひくつかせる。エルナは港の中央に立ち、詠唱を始めた。ユアンは彼女の隣で魔力を供給する。
「――《氷結固定》」
エルナの氷魔法が海面に広がる。沸騰する海水が一瞬だけ凍り、厚い氷の足場が生まれる。だがすぐに下から熱が伝わり、融け始める。
「もたないわ。急いで」
「わかってる」
ユアンは氷の足場に飛び乗り、海底を目指した。冷たい氷と熱い海水の境界を潜り抜け、濁った水中を進む。目を開けると、海底に無数の光る点が見えた。聖遺物だ。それも十や二十ではない。百を超える聖遺物が海底に散乱し、互いに共鳴して異常な熱を放っている。
「これが全部」
ユアンは胸元の星晶石に手を当て、大きく息を吸った。水中では声は届かない。だが、彼の力は声を必要としない。
「――《領域修復・海底全浄化》」
銀色の光が、海中に広がった。それは水を伝い、海底の聖遺物一つひとつを包み込んでいく。長年、海に捨てられ、誰にも看取られずに苦しんできた聖遺物たち。その無念を、ユアンの光が優しくほどいていく。
光は海水を浄化し、熱を消し、赤褐色の濁りを透明に変えていく。海底に沈んでいた聖遺物は、一つまた一つと輝きを失い、ただの石のように静かに眠った。
「……終わった」
ユアンが水面に浮上すると、海はもう沸騰していなかった。穏やかな波が岸壁を洗い、潮の香りが戻っている。空は青く、カモメが鳴いている。
「ユアン!」
エルナが駆け寄り、ユアンを氷の足場から引き上げた。ルーチェが聖光でユアンの身体を温める。フィアが飛びついてくる。
「ユアン、すごいにゃ! 海が元に戻ったにゃ!」
「みんなの力だ。エルナが足場を作ってくれたから海底に降りられた。ルーチェが避難誘導をしてくれたから安全だった。フィアが場所を特定してくれたから最短で見つけられた」
「またそう言う」
「本当のことだ」
港の人々が集まってきた。組合長が涙を流しながらユアンの手を握る。
「ユアン様。あなたは港を救った。この海を救った。漁師たちの生活を救った。ありがとうございます」
「俺は浄化しただけです。でも、これからも同じことが起きるかもしれません」
「どういうことですか」
「聖遺物はまだ大陸中に残っています。海だけじゃない。地中にも、森にも、どこにでも。俺は一つずつ浄化して回っていますが、追いついていない」
ユアンは組合長と港の人々に向き直った。
「リリスノアで聖遺物の捜索と浄化の専門部隊を作ります。各国と連携して、二度とこんなことが起きないようにする。だから、この港でも何か異常があればすぐに知らせてください」
「わかりました。協力します」
「それと、港の復興にリリスノアの医療派遣制度を使わせてください。漁師さんたちの中にも怪我や病気の人がいるはずです」
「そこまでしていただけるのですか」
「はい。それがリリスノアの理念ですから」
その夜、港の人々がユアンたちをもてなしてくれた。新鮮な魚料理が次々と運ばれ、フィアは大喜びで食べまくっている。エルナは港の女性たちと水質管理の話をし、ルーチェは子供たちに聖光を見せて遊んでいる。
「ユアン。今日もいい仕事したわね」
「そうかな」
「そうよ。海を救った。港を救った。それだけじゃなく、聖遺物の専門部隊の話まで。あなたは本当に」
「エルナがいたからだよ」
「もうその言葉はいいわ。わかってるから」
エルナは微笑み、ユアンの手にそっと触れた。海風が二人の間を吹き抜ける。フィアが遠くから「ユアーン! この魚も美味しいにゃ!」と叫んでいる。ルーチェが「フィアさん、食べ過ぎですよ」と苦笑している。
「ねえユアン。次の目的地は」
「北の山岳地帯だ。そこにも聖遺物が眠っているらしい」
「また忙しくなるわね」
「ああ。でも、みんながいれば怖くない」
「そうね。私もそう思う」
ユアンは夜空を見上げた。星が海に映ってきらきらと揺れている。この旅はまだまだ続く。でも、その一歩一歩が誰かの救いになっている。それだけで、前に進む理由になる。そう思えた。




