第9話 揺れる心
厨房を飛び出したユアンは、城の西棟にある自室へと足を向けていた。頭の中では、まだリオンの声とエルナの声がこだましている。
――今すぐ助けに来い!これは命令だ!
――ごめんなさい。本当にごめんなさい。
(命令……か)
ユアンは唇を噛んだ。あの日、ダンジョンで浴びせられた言葉がよみがえる。《回復しかできない無能》《代わりはいる》《今日限りでパーティーを抜けろ》――。そして今、自分たちが窮地に陥った途端にこれだ。
怒りがないと言えば嘘になる。だが、それ以上にユアンの胸を締めつけたのは、エルナの涙声だった。
彼女はあの時、ただ一人だけユアンをかばおうとした。リオンの威圧に負けて何も言えなかったけれど、それでも最後までユアンを見送ろうとしていた。そのエルナが、泣きながら謝っている。
(俺は……)
考えがまとまらないまま、ユアンが廊下の曲がり角に差しかかった時だった。
「――ユアン!」
弾丸のような勢いで、何かがユアンの胸に飛び込んできた。ふわりと広がった猫耳が、ユアンの顎の下でぴくぴくと動いている。
「フィア……?」
「どこ行ってたにゃ!さっきからずっと探してたんだから!」
フィアはユアンの胸に顔をうずめたまま、ぎゅっと抱きついてきた。それから顔を上げ、大きな瞳でじっとユアンを見つめる。
「……ユアン、なんか変だにゃ。目が、すごく悲しそう」
「俺が、悲しそう……?」
ユアンが言葉に詰まっていると、フィアの背後からもう一つの足音が近づいてきた。
「フィア、廊下で抱きつくなと何度言えばわかる。――ユアン、お前、厨房を抜け出したな」
ベリルだった。腕にはいつもの書類の束を抱えているが、その目は鋭くユアンの表情を観察していた。
「……すみません、料理長には少し頭を冷やしたいと」
「言い訳はいい。何があった」
ベリルは眼鏡を押し上げ、有無を言わさぬ口調で尋ねた。フィアもユアンの腕を引いて、近くの窓辺へと移動する。外はもう夕暮れで、城下に広がる魔界の荒野が茜色に染まっていた。
ユアンは一瞬ためらい、それから静かに口を開いた。
「――元仲間から、念話が来たんです」
「元仲間……勇者パーティーとかいうやつらか?」
ベリルの声が、一段低くなる。
「はい。勇者のリオンと、氷の魔導師エルナから。どうやら毒沼で動けなくなっているようで……リオンは俺に『命令だ、助けに来い』と。エルナは……泣きながら謝っていました」
「命令だあ?」
フィアの猫耳が、ぴんと逆立った。
「なにそれ!ユアンを無能って言って追い出したくせに、自分たちがピンチになったら『助けに来い』って、そんなの勝手すぎるにゃ!」
「フィアの言う通りだ」
ベリルは腕を組み、冷徹な声音で続けた。
「お前を追放したのは向こうの都合だ。ならば今、窮地に陥っているのも向こうの都合に過ぎない。因果応報という言葉は人間のものだったか」
「……はい」
「ならば理解できるな。ユアン、お前にはもう関係のないことだ」
ベリルの言葉は冷静で、理知的で、そして正論だった。何の反論もできないほど、正しかった。
そうだ。俺はもう、あのパーティーの一員じゃない。リオン自身がそう言った。俺をここに連れてきたのはベリルで、俺を必要だと言ってくれたのはリリスだ。ここが俺の居場所なんだと、そう確信したばかりじゃないか。
(――なのに、どうして)
ユアンの心は、まだ揺れていた。
「……エルナが、泣いてたんです」
ユアンは窓の外を見つめながら、ぽつりと言った。
「あの人は、俺が追放された時も、かばおうとしてくれました。結局リオンに逆らえなくて、何もできなかったけど。でも――それでも、あの人は俺を見てくれてた。それだけで、俺は」
「ユアン……」
フィアの耳が、しゅんと垂れた。彼女はユアンの袖をそっと握りしめ、何かを言いたげな目で見上げている。
ベリルはしばらく沈黙していたが、やがて小さく息を吐いた。
「――お前は優しすぎる」
「違います。俺はただ」
「優しいんだ。それが、お前の長所であり短所だ」
ベリルは眼鏡のブリッジを押し上げ、それからいつもより少しだけ柔らかい声で言った。
「だがな、ユアン。優しさは時に、自分を傷つける刃にもなる。お前を追い出した連中に、お前の優しさを向ける義務はない。無視しろとは言わない。しかし――決めるのはお前自身だ。誰の命令でもなく」
「俺自身……」
フィアはユアンの袖を引っ張り、彼の顔を覗き込んだ。
「ユアン、あたしはね、人間って嫌いだった。あたしを捕まえて、檻に入れて、売り飛ばそうとした人間がいたから。でも、ユアンは違った。ユアンの作るごはんは温かくて、ユアンの治療は優しくて、……だから、あたしはユアンが大事だにゃ」
フィアの大きな瞳が、潤んでいる。
「だから、ユアンがつらいことはしてほしくないにゃ。勇者とか、知らないにゃ。ユアンはここにいればいいにゃ。それが一番だにゃ」
「フィア……」
「けど」
フィアはぎゅっと目をつぶり、それから思いきって言った。
「もしユアンが、どうしても行きたいなら――あたしもついてくからにゃ!」
「おい、フィア」
ベリルが眉をひそめる。フィアは猫耳を寝かせながらも、引き下がらなかった。
「だって、ユアンが悩んでるのが一番つらいにゃ。あたし、ユアンに笑っててほしい」
ユアンは息をのんだ。
フィアの手が、ユアンの袖をぎゅっと握りしめている。その小さな手は少し震えていた。彼女も怖いのだ。それでも、ユアンのために何かしたいと、そう言っている。
「……ありがとう、フィア。ベリルも」
ユアンは二人に小さく微笑んだ。
「でも、まだどうするかは決められない。ただ――」
窓の外に広がる荒野の彼方。あの雨の日に追放され、ひとりで歩いてきた方角。
「リオンがどうとかじゃなくて、エルナが……それから、新しく入った聖女見習いの子も、きっと困ってる。助けを必要としている人がいるのを、知らなかったことにできるのか、俺は」
ベリルは何も言わずにユアンを見つめていた。その丸眼鏡の奥の瞳は、冷徹な参謀長のものではなく、かつて人間と魔族の狭間で苦しんだ一人の女性のものだった。
「――お前が決めることだ。誰にも責められない」
ベリルはそう言い残すと、書類の束を抱え直し、廊下の奥へと歩き去っていった。その足音はいつもより少しだけ、ゆっくりだった。
フィアはまだユアンの袖を離さずに、そっとつぶやいた。
「ユアン……ごはん、まだだにゃ」
「……そうだな。厨房に戻ろう。料理長に怒られる」
「きっともう食べちゃったにゃ」
「それは困る。今日はリリス様のデザートも作る予定だったのに」
ユアンは小さく笑い、フィアの頭をそっと撫でた。
悩みが消えたわけではない。答えが出たわけでもない。
だが、フィアの温かさとベリルの言葉が、ユアンの胸のつかえを少しだけ軽くしてくれた。それは確かだった。
ユアンは歩き出しながら、もう一度だけ窓の外を見た。茜色の空が、ゆっくりと闇に沈もうとしている。その彼方で、毒沼の瘴気に呑まれたかつての仲間たちが、今も苦しんでいる。
(――でも、まだ答えは出せない)
ユアンはぎゅっと拳を握りしめ、厨房へと足を向けた。せめて今は、自分の居場所で、自分のやるべきことをしよう。
魔王城の廊下は、すっかり夕闇に染まっていた。




