第8話 SOS
ユアンが厨房に立ち始めてから、早くも半月が経とうとしていた。
毎朝、夜明け前に起きる。ゼクスがまだ誰も起きていない厨房で一人、黙って味噌汁をすする時間。そのあとにバルザックがやってきて、朝の仕込みが始まる。午前中は治療室で傷病兵の手当てをし、昼食の賄いを手伝い、午後はまた治療室、夜は厨房で翌日の仕込み――。
忙しかった。だが、不思議なほど疲れはなかった。むしろ、日を追うごとに身体が軽くなっていく気さえする。
「ユアン先生、昨日治してもらった傷、もうすっかり!」
「先生、うちの子の熱が下がりました。これ、ほんの気持ちです」
「先生!今度は厨房で何を作るんだ?この前のシチュー、最高だったぜ!」
治療室に来る兵士や、厨房で顔を合わせる使用人たち。みんな、当たり前のようにユアンに声をかける。感謝を伝える。笑顔を見せる。それが、こんなにも温かいものだとは知らなかった。
(ここが、俺の居場所だ)
あの雨の日にリオンから「無能」と言われた記憶は、まだ消えていない。だが、それ以上に今は、日々の中で積み重なる「ありがとう」が、ユアンの胸を満たしていた。
リリスも時折、ふらりと厨房に顔を出すようになった。用件はいつも「腹が減った」の一言で、ユアンが何かを作って出すと、無表情で完食して去っていく。しかし、去り際にごくたまに「……悪くない」と呟くのを、ユアンは聞き逃さなかった。
ベリルは相変わらず毒舌だが、ユアンが厨房に立つようになってからは書類仕事の合間にふらりと現れ、無言で料理をつまんでいく頻度が増えた。フィアに「ベリル様、最近ちょっと太った?」と言われて顔を真っ赤にしていたのも、ユアンは見逃していない。
ゼクスは相変わらず無口だが、早朝の味噌汁だけは欠かさない。いつだったか、厨房の戸棚に新しい味噌の壺が置かれていたことがあった。誰が持ってきたのかは、誰も知らない。
バルザックは相変わらず厳しいが、先日などは「俺の包丁、研いでみろ」と自分の愛用の包丁を預けてきた。料理人にとって包丁を他人に預けるというのは、最大級の信頼の証だと、ユアンは後からフィアに教えられた。
そうして――ユアンは、気づき始めていた。
(ここが、俺の居場所なんだ)
この城には、ユアンを「無能」扱いする者はいない。戦闘ができなくても、武器が持てなくても、誰もそれを責めない。代わりに、ユアンの癒やしの力を必要とし、ユアンの作る料理を楽しみにし、そして何より――ユアンという一人の人間を、受け入れてくれている。
そのことが、何よりも嬉しかった。
そんな、ある日の午後のことだった。
「――今日の賄いは何にするんだ、ユアン」
バルザックが大鍋をかき混ぜながら、後ろで野菜を刻むユアンに声をかけた。
「そうですね、そろそろリリス様が甘いものが食べたいっておっしゃる頃なので、デザートに――」
ユアンが言いかけて、ぴたりと手を止めた。
その時だ。
――ユアン、聞こえるか!
脳裏に、直接響く声。
念話だ。
それも、聞き覚えのある――聞きたくなかった声。
ユアンの手に握られていた包丁が、まな板の上でかすかに震えた。
――今すぐ俺たちを助けに来い!これは命令だ!
リオン。
勇者リオンの声だった。
かつてユアンを「無能」と断じ、パーティーから追放した男。その声は、相変わらずの傲慢さでユアンの頭の中に響いてくる。
「……命令、だと」
ユアンは小さくつぶやき、包丁をまな板に置いた。
まだ、こんな声で俺に命令するのか。自分が何をしたか、まるでわかっていないのか。
「どうした、ユアン。手が止まってるぞ」
「……いえ、なんでも」
ユアンが言いかけた、その直後だった。
――ユアン……
今度は、別の声が聞こえた。リオンとは違う。もっとか細く、震えていて、今にも泣き出しそうな声。
エルナだ。
――ユアン……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……
ユアンは、息を詰めた。
エルナは、ユアンが追放されたあの日、ただ一人だけかばおうとしてくれた。リオンに逆らえず、結局は何も言えなかったけれど、それでも彼女だけはユアンを見送ろうとしていた。
そのエルナが、泣いている。
リオンが命令口調で呼び出す。エルナが泣きながら謝る。この二つの念話が意味することは、一つしかなかった。
勇者パーティーが、危機に陥っている。それも、自力ではどうにもならないほどの――。
「ユアン、顔色が悪いぞ」
バルザックが眉をひそめて近づいてくる。ユアンは「大丈夫です」と首を振り、それからエプロンを外した。
「すみません、料理長。ちょっと……少しだけ、頭を冷やしてきます」
「……そうか。無理するなよ」
厨房を出て、廊下を歩きながら、ユアンはこめかみを押さえた。
助けを求められている。だが、それは「仲間だから」ではない。「お前の力が必要だから」だ。リオンは、あの時散々ユアンを無能呼ばわりしておきながら、いざ自分たちが窮地に陥ればこの態度だ。
(ふざけるな)
心のどこかではそう思う。だが、もう一つの声もあった。
エルナの声だ。彼女は本気で謝っていた。そして――助けを求めている。
ユアンは窓の外を見つめた。魔王城からの眺めは、どこまでも広がる荒野と、その先の人間の領域へと続いている。かつて自分が追放された方角。もう戻るはずのなかった方角。
(俺は、どうすれば……)
♢
その頃、魔王城から遥か遠く離れた毒沼地帯では。
「リオン様!しっかりしてください!」
ルーチェの悲鳴にも似た声が、湿った空気に吸い込まれていく。
一帯は、異様な光景だった。沼というよりは、毒の坩堝だ。黄緑色に濁った泥水が果てしなく広がり、そこかしこからは有毒の瘴気が立ち上っている。足を踏み入れれば最後、ずぶずぶと底なしの泥に沈み、浮かび上がれなくなる。
勇者パーティーは、その毒沼の只中に、完全に足を取られていた。
「ぐ……ぅ……」
リオンは沼の泥に膝まで浸かり、聖剣を杖代わりにどうにか立っていた。だが、顔色はひどく、肌は毒にやられて土気色にくすんでいる。さらに厄介なのは、この毒沼に満ちる呪いだ。古の時代に封印された呪術師の遺恨が、瘴気となって漂い、生きとし生けるものを蝕んでいる。
リオンの全身には無数の切り傷があり、そこから呪いが染み込んで、彼の体内で聖剣の加護と激しくせめぎ合っていた。
「なぜだ……なぜ、こんな場所に罠が……」
リオンは震える声でうめいた。今回のクエストは、毒沼の奥に眠る古代遺跡の調査だった。しかし、あまりにも情報が少なかった。罠の存在も、沼そのものの危険性も、すべてが想定外だったのだ。
「……情報が足りなさすぎました」
戦士の男が、沼のほとりの朽ちた木にもたれて力なく言った。彼は右脚を毒蛇に噛まれ、傷口から腐食が始まっている。すでに自力で歩ける状態ではない。
「こんなことなら……もっと斥候を……」
「今さら言っても遅い」
盗賊の男が吐き捨てるように言ったが、彼もまた、罠にかかった時に負った深い裂傷から血を流し続けている。弓使いはすでに意識がなく、沼の縁にぐったりと横たわっていた。
「……っ」
エルナは、唇を噛みしめて両手を広げていた。氷属性の魔力を極限まで絞り出し、毒沼の瘴気を凍らせて進行を遅らせている。だがそれも、限界だった。彼女の魔力残量は、とうに底をつきかけている。
(私のせいだ)
エルナは心の中で繰り返していた。
あの時、リオンに逆らえなかった。ユアンが追放されるのを、見ていることしかできなかった。もしあの時、勇気を出して「彼を残して」と言えていたら――。
ユアンがいれば、この毒も、この呪いも、みんな彼の《完全回復》でなんとかできたかもしれない。
「……ごめんなさい、ユアン」
エルナは小さくつぶやき、涙が一筋こぼれた。
「私、あなたにひどいことをした。今さら許してほしいなんて言えない。でも――どうか、どうか……」
彼女の懇願は、かすかな念話となって、はるか遠くの魔王城へと届いた。
リオンは、そんなエルナをぼんやりと見つめていた。毒と呪いで混濁した意識の奥で、彼もまた必死に念話を飛ばし続けている。
「ユアン……どこにいる……早く来い……これは、命令だ……」
それが、自分たちを救える唯一の手だと、リオンは本能で理解していた。だが、彼はまだ気づいていない。
その「命令」という言葉が、ユアンにとってどれほどの侮辱であるかを。
毒沼の奥深くで、ルーチェは聖魔力を振り絞り、戦士の右脚に手をかざしていた。
「聖女の御手により、邪悪なる毒を祓いたまえ――《聖浄》!」
白い光が戦士の傷口を包む。腐食はわずかに食い止められた。だが――それだけだった。毒は抜けても、壊死した組織は戻らない。減り続けた体力も、失われた血も、何ひとつ回復しない。
「……どうして」
ルーチェは、震える声でつぶやいた。
「私は聖女の再来って言われてきた。教会でも一番の聖魔力を持ってる。なのに、どうして……!」
リオンはルーチェに言った。「お前にはユアンよりも優れた力がある」と。だから彼女は自信を持ってこのパーティーに加わった。
だが、現実はどうだ。
ルーチェの聖魔力は呪いを「浄化」することはできても、体力を「回復」させることはできない。折れた骨を「修復」することも、裂けた肉を「再生」させることも、ましてや失われた血を「創り出す」こともできない。
「こんなの……違う。こんなことのために私、来たんじゃない。私、本当は……」
ルーチェの大きな瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「本当は、誰かの役に立ちたかっただけなのに……!」
空は厚い雲に覆われ、毒沼の闇は深まるばかりだった。仲間たちのうめき声と、沼地の不気味な気泡の音だけが、絶望の底で響いている。
「ユアン……ユアンは、どこにいるんだ」
リオンはなおも念話を飛ばし続けていた。だが、その声が魔王城のユアンに届くたび、彼の傲慢な言葉は、ユアンの心に小さな棘を残していくのだった。




