第7話 料理人としても
城の主要施設を一通り見学した後、ベリルはユアンを連れて城の北翼――厨房区画へと足を踏み入れた。
「ここが魔王城の厨房だ」
その扉をくぐった瞬間、ユアンは思わず立ち止まった。
まず目に飛び込んできたのは、天井まで届く巨大な炉だった。五連の竈が並び、それぞれで魔界の炎が静かに燃えている。壁一面には大小さまざまな鍋やフライパンがかかり、棚には見たこともない香辛料の瓶がずらりと並んでいた。天井からは何本もの燻製肉が吊るされ、樽には魔界の野菜や果実がぎっしりと詰まっている。
そして何より――。
「――なんだ、てめえは」
厨房の奥から、山のような巨体が歩いてきた。
身長は優に二メートルを超える。分厚い胸板と丸太のような腕。肌は深緑色で、口元からは牙が二本、上向きに突き出している。オーク族だ。白いコックコートをまとい、大きな手には人の顔ほどもある包丁が握られていた。
「バルザック料理長。こちらは先日お伝えした新任の専属ヒーラー、ユアンです」
ベリルが事もなげに紹介する。
「ああ、聞いてるぜ。リリス様の古傷を治した人間だろ」
バルザックはユアンをじろりと見下ろした。その視線は、獲物を値踏みするような鋭さがある。
「で、なんでそいつが厨房に来るんだ。ここは治療室じゃねえぞ、ベリル」
「リリス様のご命令です。城内を案内しろと」
「ちっ……面倒なことを」
バルザックは手にした包丁をまな板に突き立て、ユアンの目の前まで歩いてきた。距離にして一歩もない。見下ろされながら、ユアンは彼のエプロンに染みついた無数のソースの跡が目に入った。料理人のエプロンだ。何年も、何十年も、この厨房に立ち続けてきた証。
「いいか、人間。ここは俺の城だ。俺の厨房だ。五十年前からずっと俺が仕切ってきた。お前がリリス様に気に入られてようが、ここでは俺がルールだ。わかったらとっとと出ていけ」
「……はい。ですが、その前に一つだけ」
ユアンは、厨房の隅に置かれた大鍋に目をやった。鍋からは湯気が立ち、何かがぐつぐつと煮込まれている。その香りを嗅いだ瞬間、ユアンの脳裏に違和感が走った。
「あの鍋、火を弱めたほうがいいです。焦げる一歩手前です」
「……あ?」
バルザックの太い眉が、ぴくりと動いた。
「今なんて言った、てめえ」
「香りでわかります。底のほうで野菜が鍋肌に張りつきはじめてます。あと、塩を入れるタイミングが少し早かった。スープを濁らせてます」
厨房が、しんと静まりかえった。
バルザックはユアンを凝視したまま動かない。ベリルも、眼鏡の奥で目をわずかに見開いている。
「……ほう」
バルザックはゆっくりと大鍋に近づき、木杓子で底をそっとかき混ぜた。それから一口すくって味見をし、小さく唸る。
「……当たりだ。なるほどな、お前、料理ができるのか」
「はい。パーティーにいた時は、いつも俺が食事当番でしたので」
「ふん。まあ、香りがわかるくらいなら大したことじゃねえ。ついでだ、こっちに来い」
バルザックはユアンを厨房の奥、調理台の前に立たせた。台上には、今まさに仕込み中だったらしい食材が並んでいる。
「一つ、スープを作ってみろ。余ってる材料は好きに使っていい。ヒーラー様の腕前ってやつを見てやる」
ユアンは一瞬迷い、それからまな板の前に立った。
彼が選んだのは、余りものの野菜くずが入った籠と、出汁を取った後の鶏ガラ、それから魔界の香草が数種類。たいした材料ではない。だが、ユアンの手は迷わず動き始めた。
包丁を握る。にんじくずを細かく刻み、セロリの葉をみじん切りにする。鶏ガラを鍋に入れ、水を張って火にかける。灰汁を丁寧にすくい取りながら、刻んだ野菜を順に投入していく。
その手つきを見ていたバルザックの目が、少しずつ変わっていった。
(この手つき……ただの素人じゃねえ。ちゃんと基本が染みついてやがる)
ユアンは無心で手を動かした。リオンの声も、追放の記憶も、今は頭の中から消えている。ただ、目の前の食材と向き合い、美味しいものを作る――その集中だけが彼を満たしていた。
十五分後。
「できました。ありあわせの材料ですみません」
ユアンが差し出したのは、澄んだ黄金色のスープだった。浮かぶ具材は少ないが、湯気とともに立ち上る香りが、厨房中に広がっていく。
バルザックは無言でスプーンを手に取り、一口すする。
と、その巨体が、ぴたりと止まった。
「……てめえ」
「……はい」
「この味を、言葉で説明してみろ」
ユアンは目を閉じ、自分の舌と鼻に残った味の記憶をなぞった。
「鶏ガラの出汁をベースに、にんじくと玉ねぎの甘みが溶けています。セロリの葉の苦味で全体が引き締まり、最後に加えた魔界の香草……これはバジルに近いですが、後味にかすかな柑橘系の香りが残りますね。塩は控えめにして、素材の味を前面に出しました」
厨房に、沈黙が落ちた。
バルザックは手にしたスプーンを置き、じっとユアンを見つめる。その目には、もはや警戒心も敵意もない。代わりに浮かんでいたのは――。
「……はっ、はははは!」
バルザックは腹の底から笑い声を上げた。
「てめえ、面白れえな!香りを嗅いだだけで焦げを見抜き、味をここまで言語化できるやつはそういねえ!ましてや、それが人間だとはな!」
「あの……それって」
「褒めてるんだよ、馬鹿野郎!」
バルザックはユアンの背中をばしんと叩いた。その衝撃でユアンはむせかえる。
「お前、料理人としても使えるな。ヒーラーと兼任でいい。うちの厨房にも出入りしろ。城の連中に、てめえのメシを食わせてやれ」
「……っ」
ユアンは、返事をしようとして、できなかった。
喉の奥が、つまったようになった。
――お前、料理人としても使えるな。
そんな言葉をかけられたのは、いつぶりだろう。
勇者パーティーにいた時、ユアンは毎日料理を作っていた。野営での朝食も、ダンジョン攻略前の腹ごしらえも、祝勝会のごちそうも。でも、誰も「美味い」とは言ってくれなかった。ただ、当たり前のように食べるだけだった。ユアンが作って当たり前。それ以外に価値はない。そういう空気だった。
けれど、今。
「……ありがとう、ございます」
ユアンは深く頭を下げた。顔を上げられなかった。目の奥が熱くて、視界がにじんでいた。
「おい、なに泣きかけてんだ」
「泣いてません」
「嘘つけ。まあいい。今日からてめえは俺の弟子だ。厨房のルールを叩き込んでやる」
「弟子……?」
「嫌か」
「いやじゃないです!……いやじゃない、です」
ユアンは顔を上げ、笑った。まだ目の縁には涙が残っていたが、それはもう、悲しみの涙ではなかった。
ベリルは壁にもたれてその光景を眺めていたが、やがて小さく息を吐き、眼鏡を押し上げた。
「……リリス様に報告が増えたな。『ユアンは料理もできるようです』と」
「報告するほどかよ」
「する。魔王城で人間が料理長に弟子入りするのは前代未聞だ」
彼女の口調はいつも通り素っ気なかったが、その目は、少しだけ楽しそうだった。
厨房の大鍋が、こぽこぽと煮える音を立てている。バルザックは早速ユアンに魔界の食材の説明を始め、ユアンはそれを必死にノートに書き留めていた。
魔王城に来て、まだたったの二日。
だがユアンは、この場所で初めて「自分の居場所」を見つけたような気がしていた。治癒師として。そして――料理人として。
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