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第6話 専属ヒーラーへの任命


ユアンが目を覚ましたのは、それからまる一日が経った後のことだった。


まず最初に感じたのは、柔らかな寝台の感触だった。牢の藁布団とはまるで違う、きちんと干された清潔なシーツ。羽毛の枕が頭を支え、毛布はしっかりと身体を包み込んでいる。


「……ここは」


「起きたにゃ!」


飛び込んできたのは、聞き覚えのある猫耳少女の声だった。フィアが寝台のすぐ横にちょこんと座り込み、大きな瞳をキラキラさせてユアンを覗き込んでいる。


「フィア……俺、どうなったんだ」


「どうなったもこうもないにゃ!ユアン、リリス様の古傷を完全に治しちゃったんだにゃ!もう城の中は大騒ぎだよ!」


フィアは興奮気味に両手を振り回しながら説明した。三百年もの間、誰にも治せなかった魔王の傷が消えた。ありえないことが起きた、と城内中が蜂の巣をつついたような騒ぎになっているという。


「それでな、ユアン」


フィアは声をひそめ、いたずらっぽく笑った。


「リリス様がお呼びだにゃ。それも――玉座の間じゃなくて、プライベートの謁見室にだって。特別待遇すぎて、ベリル様もびっくりしてたにゃ」


プライベートの謁見室は、玉座の間とはまったく趣が異なっていた。


黒檀の円卓に、向かい合う二脚の椅子。壁一面を埋める古書の数々。小さな暖炉では赤々と火が燃えていて、部屋全体が驚くほど落ち着いた空気に包まれている。権威のための空間ではなく、対話のための場所だった。


円卓の向こうに、リリスが座っている。彼女はもう、苦痛に顔を歪めてはいなかった。銀髪は丁寧に梳かれて背に流れ、紅玉の瞳は落ち着きを取り戻している。胸元の傷があった場所は、今はもう白い肌があるだけだ。


隣にはベリルが立ち、書類を手に控えている。フィアはユアンを案内すると、名残惜しそうに部屋を出ていった。


「ユアン。身体の具合はどうだ」


リリスの声は、あの日のような冷徹さを欠いていた。むしろ、どこか気遣うような響きすらある。


「はい、おかげさまで。丸一日眠ったら、すっかり回復しました」


「そうか」


リリスは小さくうなずき、それから居住まいを正した。


「単刀直入に言う。ユアン――そなたを、我が魔王城の専属ヒーラーとして雇いたい」


ユアンは、まばたきを忘れた。


「専属……ヒーラー」


「そうだ」


リリスはベリルに目配せした。ベリルが手にした書類を円卓に広げる。そこには、ユアンが見たこともないような金額と待遇が、細かな字でびっしりと記されていた。


「給金は月に金貨三十枚。魔王城内の個室を与える。食事は厨房の者と同様に好きなものを食べてよい。治療に必要な薬草や器具は、必要なだけ軍の予算から支給する。休日は月に六日、緊急時以外は完全に自由だ」


「ま、待ってください」


ユアンは慌てて手を振った。


「金貨三十枚って……そんなの、王国の宮廷魔術師でももらえない額です。俺みたいな、たかが回復術師がもらっていい金額じゃない」


「たかが、だと」


リリスの瞳が、きらりと光った。


「ユアン。そなたは自分の価値をわかっていない。三百年。誰にも治せなかった傷を、そなたはたった数分で消し去った。あの苦痛から我を解放したのだ。その価値は、金貨三十枚どころではない」


「ですが……俺は攻撃魔法も使えません。武器も持てません。本当に、回復しか」


「それがどうした」


リリスはきっぱりと言い放った。


「我が必要なのは、戦場で敵を殺す手ではない。傷ついた者を救う手だ。魔族の治療師たちは皆、武器を持ち魔法を放てた。だが、誰一人として我の傷は治せなかった。――違うか、ベリル」


「はい」


ベリルは眼鏡を押し上げ、淡々と続けた。


「戦闘能力と治癒能力は、まったく別の才能です。ユアン、お前を追放した勇者パーティーは、その単純な事実を見誤った。魔王軍は違う。我々は使えるものを、使える場所で正しく使う」


使えるものを、使える場所で。


その言葉が、ユアンの胸の奥にすとんと落ちた。


「……ベリルが言っていた選択肢というのは」


「これだ」


ベリルは書類を指さした。


「魔王城に残り、我々のために働くか――あるいは、このまま人間の領域に戻るか。後者を選ぶなら、ここまでの記憶は消させてもらうがな」


選択肢。自分の意志で選んでいいという権利。昨日まではなかったものだ。


ユアンはしばらく考え込み、それから顔を上げた。


「……俺に、ここで働かせてください」


リリスの唇が、ほんのわずかに動いた。それは、笑みと呼ぶにはあまりに控えめな、けれど確かな感情の兆しだった。


「決まりだな。本日より、そなたは魔王城専属ヒーラーだ」


「ありがとうございます、リリス様」


「様はいらぬ。リリスでいい」


「……え」


「我は王だが、治療室でまで王である必要はない」


リリスはそっけなく言い、立ち上がった。


「ベリル、あとは任せる。城内を案内しろ。特に厨房はしっかりとな。料理長が新人を噛み殺さないように見張っておけ」


「料理長は人間を噛み殺したりしませんよ、たぶん」


「たぶん、と言ったな」


リリスは片眉を上げ、それから暖炉の前を通り過ぎざま、ユアンに背を向けたまま言った。


「――ユアン」


「我の傷を癒やしたこと、感謝する」


それだけ言うと、彼女は足早に部屋を出ていった。銀髪の先が、ほんの少し揺れている。ユアンは、魔王の耳の先がかすかに赤らんでいたような気がしたが、暖炉の火のせいかもしれないと思い直した。


「……行くぞ、ユアン」


ベリルが呆れたようにため息をつく。


「リリス様がああなるのは、本当に珍しい。三百年生きてきて、私も初めて見た。お前、やはり只者ではないな」


「褒めてるんですか、それ」


「さあな」


ベリルはくるりと背を向け、廊下へと歩き出した。ユアンは慌ててその後を追う。


「まずは城内の主要施設を案内する。治療室、薬草庫、図書室、そして厨房だ。厨房では料理長のバルザックに紹介する。オーク族の巨漢だから、怖がるなよ」


「オーク……!」


「見かけは怖いが、料理の腕は一流だ。ただし人間嫌いだから、最初は威嚇されると思え。噛まれても治すのは自分だ」


「やっぱり噛まれるんですか」


ユアンの悲鳴にも似た声に、ベリルの口元がかすかに緩んだ。それは、彼女が初めて見せた笑みだった。


二人が歩いていく廊下の先で、巨大な城が朝日を浴びて輝いている。まだ見ぬ厨房の匂いが、どこからかほのかに漂ってきていた。


ユアンは歩きながら、自分の胸に手を当てた。


つい二日前まで、自分は荒野で行き倒れていた。パーティーを追われ、雨に打たれ、魔物に襲われて死にかけた。


それが今では、魔王城の専属ヒーラーだ。


「……ふふ」


「なんだ、気持ち悪い」


「いや、なんでもありません」


ユアンは笑みを噛み殺しながら、ベリルの背中を追いかけた。


足取りは、もう迷っていなかった。



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