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第5話 300年の古傷



フィアが牢を訪れてから、どれほどの時間が経っただろう。


ユアンは寝台に腰かけたまま、窓の外をぼんやりと眺めていた。空はすでに明るい。雨上がりの澄んだ朝日が、鉄格子越しに細長い影を床に落としている。


フィアは猫耳をぴこぴこ動かしながら、ユアンにいろいろな質問を浴びせていった。人間はみんな耳が丸いのか。尻尾がないとバランスは崩さないのか。魔王城の料理は美味いと思わないか――最後のは質問ではなく愚痴だったが、とにかく彼女の人懐こさに、ユアンは思わず何度か笑ってしまった。


「ユアンってば、なんか違うにゃ」


フィアは首をかしげて言った。


「人間ってもっと怖い生き物だと思ってた。あたし、昔捕まってたから」


その言葉の奥に何があるのか、ユアンにはなんとなく察せられた。だから、あえて追及はしなかった。代わりに、自分のパーティー追放の話を軽く話した。勇者に無能と言われたこと。雨の中を一人で歩いたこと。気がついたら魔の森で倒れていたこと。


「ふうん……人間にも、いろいろいるんだにゃ」


フィアはそう言って、鉄格子に背を預けた。


その時だった。廊下の奥から、複数の足音が近づいてくる。衛兵のものではない。もっと重く、威圧的で、それでいてどこか焦りを含んだ足音。


「――ユアン」


鉄格子の向こうに立ったのはベリルだった。しかし、彼女の表情は昨夜とは違っていた。冷徹な仮面はそのままに、眼鏡の奥の瞳がかすかに揺れている。


「立て。リリス様がお呼びだ」


「リリス様が……?」


「発作が、想定よりずっと重い」


ベリルは唇を噛んだ。それは彼女なりの、最大限の焦りの表現だった。


「今月は特にひどい。このままでは……」


「――わかった」


ユアンは即座に立ち上がった。何の迷いもなかった。


玉座の間の空気は、先ほどとは一変していた。


文官や側近たちがひしめき合い、おのおのが不安げな表情で玉座を見上げている。


玉座の前では、リリスが膝をつき、胸元をかきむしるようにしてうずくまっていた。銀髪は汗で額に張りつき、端正な顔は苦痛に歪んでいる。その姿は、ユアンが先ほど会ったばかりの、冷徹な魔王の面影とはあまりにかけ離れていた。


「リリス様!」


ユアンが駆け寄ろうとすると、数人の側近が立ちはだかった。


「待て、人間」「魔王様に触れるな」「何かあればお前を殺す」


「――下がれ」


うずくまったまま、リリスが絞り出すように言った。


「……全員、下がれと言っている」


「しかし、リリス様」


「どいつもこいつも、我の命令が聞けぬのか」


リリスは顔を上げた。その紅玉の瞳は痛みに潤みながらも、強い意志の光を失っていない。


「三百年前、当代の勇者に斬られた時から、この傷は我を蝕み続けた。歴代最高の治療師も、古代の秘術も、何一つ効かなかった。もう諦めていた」


彼女は、ゆっくりと胸元をはだけた。


ユアンは息をのんだ。


鎖骨の下――心臓のすぐ上に、それはあった。古い刀傷が一文字に走り、その傷口から黒い魔力が煙のように立ち上っている。聖属性の呪い。三百年もの間、この傷は彼女の身体と魂をじわじわと蝕み続けてきたのだ。


「見ろ。醜い傷だろう」


「……いいえ」


ユアンは首を振り、リリスの前に膝をついた。


「ただの傷です。治せない傷なんて、ありません」


その言葉に、側近たちがざわめいた。リリスもまた、わずかに目を見開く。


「……言ったな、人間」


「はい」


「もし治せなかったら、どうなるかわかっているのか」


「わかっています」


ユアンは静かにうなずいた。怖くないと言えば嘘になる。だが、今はそれ以上に、この痛みを消してやりたいという思いが勝っていた。


リリスはしばらくユアンをじっと見つめ、それからふっと力なく笑った。


「……どうせ死ぬなら、同じだ。やれ、ユアン」


ユアンは深く息を吸い込み、両手をリリスの傷にかざした。


---


「――白魔術、全系統開放」


ユアンの両手が、淡い光を帯び始める。


これまでの回復魔法とは根本的に違う。ユニークスキル《完全回復》は、単なる治癒術ではない。傷ついた状態を「なかったこと」にし、本来あるべき姿へと世界を上書きする――そんな力だった。


「治癒対象、特定。聖属性呪いを確認。残留期間、約三百年。損傷深度、魂位相まで到達。修復難度……問題なし」


ユアンは淡々とスキルを構成していく。彼の周囲に、幾重もの魔法陣が展開され、複雑な術式が光の帯となって絡み合う。


リリスの傷口が、反応した。黒い呪いが激しくうごめき、ユアンの魔力を拒もうとする。聖属性の呪いは意思を持っているかのように、回復の力に牙をむいた。


「抵抗は想定内です」


ユアンは冷静に術式を再構成し、呪いの核に直接干渉していった。


「――《完全回復》」


その瞬間、玉座の間全体が、まばゆい光に包まれた。


側近たちが一斉に目を覆う。ベリルだけが、眼鏡の奥の瞳を細めて、その光景を食い入るように見つめていた。


光の中心では、ユアンの手がリリスの傷に触れている。


傷口から溢れていた黒い呪いが、悲鳴を上げるように収縮し、そして――かき消えた。


三百年もの間、リリスの身体を蝕み続けてきた傷が、まるで最初からなかったかのように、跡形もなく消え去っていく。


光が収まった。


リリスは、自分の胸元を見下ろした。そこにはもう、古傷はない。痛みも、呪いの気配も、何もかもが消えていた。


「……消えた」


リリスは、震える指で自分の肌に触れた。


「消えた……本当に……三百年、苦しめられてきたのに……」


彼女の紅玉の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


三百年ぶりの解放――その感覚は、ユアンには想像もできないものだっただろう。リリスはその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。魔王としての威厳も、人間への嫌悪も、すべてかなぐり捨てた、ただ一人の少女のように。


側近たちは、言葉を失っていた。


「……これは」


ベリルがかすれた声でつぶやいた。


「これは、本物だ」


彼女の呟きが、静寂を破った。


その瞬間、側近たちの間にどよめきが広がる。三百年、誰にも治せなかった古傷が消えた。人間の、しかも追放されたばかりの若造の手で。


だが、ユアンはそのどよめきを聞いていなかった。


「――あ」


ユアンの視界が、ぐにゃりと歪んだ。


《完全回復》は強力なスキルだが、その代償は大きい。膨大な魔力消費に加え、傷の「歴史」そのものを書き換える負荷が、ユアンの身体を容赦なく襲ったのだ。


「ユアン……!」


誰かが叫ぶ声が、遠くに聞こえた。


ベリルだったか、フィアだったか。いや、リリスだったかもしれない。


その名前を呼ぶ声を最後に、ユアンの意識はぷつりと途切れた。


玉座の間の冷たい床に倒れ込むユアンを、誰かが慌てて抱きとめる気配があった。だが、その誰かの正体を確認するより早く、ユアンは深い眠りに落ちていった。


――それは、ユアンが初めて魔王城で見せた、《無能》と呼ばれた男の本当の力だった。


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