第10話 同情と直談判
あれから一晩が過ぎた。
ユアンは朝一番で厨房に立ち、いつも通りに包丁を握った。玉ねぎを刻み、出汁を取り、小鍋で味噌を溶く。ゼクスが無言でカウンターに座り、できたての味噌汁を一口すする。その静かな朝の風景は、何も変わっていない。だが、ユアンの心は嵐の海のようにざわついていた。
(――ごめんなさい、本当にごめんなさい)
耳の奥にこびりついて離れない。エルナの涙声。それから、もうひとつ。直接念話で聞いたわけではないが、ルーチェという聖女見習いの顔も浮かぶ。リオンに連れられて、おどおどとユアンを見つめていた少女。彼女もまた、あの毒沼で苦しんでいる。
「……集中しろ」
ユアンは自分の頬を軽く叩き、仕込みを続けた。だが、指先が震える。野菜を刻むリズムが乱れる。
その異変を見逃す男ではなかった。
「ユアン」
バルザックが後ろから巨体を歩ませ、ユアンの手元を覗き込む。
「……今日はもういい。包丁を置け」
「料理長、俺は」
「包丁を置けと言ったんだ」
バルザックはユアンの手から包丁を抜き取り、まな板の上に置いた。それから、大きな手でユアンの肩をぐっと掴む。
「料理ってのはな、心が乱れてちゃ作れねえんだ。包丁は心を映す。今のお前に振るわせるわけにはいかねえ」
「……すみません」
「謝る相手が違うだろ。お前が謝るべきは自分自身だ。何に悩んでるかは聞かねえ。だが、悩みがあるならさっさと片をつけろ。うちの厨房に半端な気持ちで立たれるのが一番困る」
バルザックはそう言って、ユアンの肩から手を離した。その大きな背中は、すでに調理台へと戻っている。彼なりの優しさだと、ユアンにはわかっていた。
「……はい。少し、行ってきます」
ユアンは深く一礼し、エプロンを脱いだ。厨房を出る間際、カウンターで味噌汁を飲んでいたゼクスが、ちらりと兜の奥からユアンを見た。
「――リリス様は、玉座の間だ」
それだけ言うと、彼はまた無言で味噌汁に視線を戻した。ユアンは小さく「ありがとう」とつぶやき、廊下を早足で進んだ。
玉座の間に続く大扉の前で、ユアンは一度、深く息を吸った。
(ここに来て、まだ一ヶ月も経ってないんだ。そんな俺が、魔王様に直談判なんて……)
身の程知らずもいいところだ。だが、このまま何もせずに厨房に立つことなど、もっとできなかった。
意を決して扉を叩こうとした、その時。
「――入れ」
内側から、リリスの声が響いた。気配を察知されていたらしい。ユアンはごくりと唾を飲み込み、重い扉を押し開いた。
玉座の間には、リリスとベリルがいた。どうやら軍務の報告中だったらしく、ベリルは手にした書類から顔を上げ、眼鏡の奥の瞳をわずかに細める。リリスは玉座に腰掛け、銀髪を背に流し、いつもの冷然とした表情でユアンを見下ろしていた。
「ユアン。朝の治療はまだ始まっていないはずだが」
「はい。治療の件ではありません。リリス様にお願いがあって参りました」
「お願い?」
リリスはかすかに首をかしげた。その紅玉の瞳に、ほんの少しの好奇心が浮かぶ。
「申してみよ」
ユアンは深く息を吸い、それから一気に告げた。
「俺を――勇者パーティーのもとへ行かせてください」
玉座の間の空気が、氷点下まで下がったような気がした。
ベリルは書類を閉じ、無言でユアンを見る。その表情は読み取れない。だが、彼女がこの話を知っていることは、ユアンにもわかっていた。
リリスは玉座の肘掛けに頬杖をつき、しばらくユアンをじっと見つめていた。その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「――理由を聞こうか」
「元仲間が、毒沼で動けなくなっています。勇者リオンと氷の魔導師エルナから念話がありました。リオンは『命令だ』と。エルナは……泣きながら謝っていました」
「命令、だと」
リリスの声が一段低くなる。その響きには、明らかな不快感が滲んでいた。
「そのリオンという男は、そなたを無能と罵り追放したのだろう。それが、今さら助けろだと。笑わせるな」
「……はい。リオンについては、俺も怒りがあります」
ユアンは正直に言った。
「でも、エルナは違います。彼女は俺をかばおうとしてくれました。それに、新しくパーティーに加わった聖女見習いのルーチェという子も、きっと今、自分の無力さに打ちのめされている。俺にはわかるんです。かつての俺と同じだから」
「だから、助けに行くと?」
リリスは玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を下りてきた。その顔には、魔王としての威厳と、何か別の感情が入り混じっている。
「ユアン。そなたはここで、我が魔王軍の専属ヒーラーだ。治療室にはそなたを待つ兵士がいる。厨房ではバルザックがそなたの帰りを待っている。フィアも、ゼクスも、ベリルも――皆、そなたを必要としている。それなのに、そなたを捨てたようなパーティーのために、危険を冒すと?」
「……リリス様の言う通りです」
ユアンはうつむき、ぎゅっと拳を握りしめた。
「俺を必要としてくれる人たちを放って、俺を捨てた奴らのところへ行くなんて、筋が通ってない。理屈じゃないんです。理屈じゃないけど、それでも――」
ユアンは顔を上げ、リリスの紅玉の瞳をまっすぐに見た。
「俺はヒーラーです。傷ついた人がいれば、治したい。苦しんでいる人がいれば、助けたい。それが俺のすべてで、それ以外に俺の価値はない。たとえ相手が俺を捨てた人間でも、俺の目の届くところで誰かが死にかけているのを知っていて、知らんぷりなんてできないんです」
「……たとえ、また利用されて終わりでもか」
「その時は、その時です」
ユアンの声は、震えていなかった。
「でも、エルナの声は本物でした。あの人は本当に後悔している。それだけで、俺は――」
「ユアンは甘すぎるにゃ!」
大扉が勢いよく開き、そこに立っていたのは涙目のフィアだった。どうやら廊下で話を聞いていたらしい。彼女はずかずかと玉座の間に踏み込み、ユアンの目の前に立つと、その胸を両手でどんと押した。
「なんでそんなに人のことばっかりなのにゃ!ユアンはもう、あいつらに捨てられたんだ!それなのに『助けたい』って、そんなのおかしいにゃ!」
「フィア……」
「ユアンがいなくなったら、あたし、またひとりぼっちのごはんになる。嫌だにゃ。ユアンがいないと、厨房も楽しくないし、フィアのつまみ食いも誰も怒ってくれない。……嫌だにゃ、そんなの」
フィアの大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。その涙を見て、ユアンの胸もぎゅっと締めつけられた。
「フィア。俺は、ここを離れたいわけじゃないんだ」
ユアンはフィアの頭にそっと手を置いた。
「ここは俺の居場所だ。それを忘れたことなんて一度もない。でも、助けを求めている人がいるのに、それに背を向けたら、俺は俺じゃなくなる。それは、俺をここに置いてくれたみんなに対しても、嘘をつくことになるんだ」
「……ユアン」
フィアはぐずぐずと鼻をすすり、それからユアンの胸に顔をうずめた。
「――わかったにゃ。でも、あたしも行く。絶対にひとりで行かせないにゃ」
「フィア……?」
「ユアンは優しすぎるから、また利用されるにゃ。だから、あたしが見張ってる。もし勇者とかいう奴がユアンにひどいことしたら、あたしが引っかいてやる」
フィアは涙をぬぐい、真剣な顔でユアンを見上げた。その目にはもう迷いはない。
それを見ていたベリルが、小さくため息をついた。
「……仕方ないな」
「ベリル?」
「私も同行する。魔王軍四天王が一人ついていれば、向こうも軽々しい真似はできまい。――それに」
ベリルは眼鏡を押し上げ、少しだけ口元を緩めた。
「お前がいない間、誰が治療室の予約表を管理すると思っている。さっさと戻るぞ」
「ベリル……フィアも……ありがとう」
ユアンは胸が熱くなり、深く頭を下げようとした。だが、その前にリリスが口を開いた。
「まだ行くとは言っていないぞ」
三人がはっとして振り返ると、リリスは腕を組み、表情を消した顔で立っていた。だが、その紅玉の瞳は、どこか観念したような色を帯びている。
「ユアン。そなたは我の専属ヒーラーだ。魔王軍の所有物と言ってもいい。それをみすみす危険に晒すわけにはいかぬ。……そう思っていたが」
「……リリス様」
「――勝てぬ」
リリスはふっと息を吐き、小さく笑った。
「そなたのその、馬鹿正直な目を見ていると、勝てぬ。三百年前も、こんな目をした人間に負けた気がする」
彼女はユアンに近づき、そっとその胸に手を置いた。古傷があった場所を癒やした手だ。
「行け、ユアン。そなたが自分で決めたことなら、我は止めぬ」
「リリス様……ありがとうございます」
「礼には及ばぬ。その代わり、必ず戻れ。戻って、我に甘いものを作れ。それが条件だ」
リリスはそう言って、真面目な顔で甘いものを要求した。フィアが思わず「ぶふっ」と吹き出す。ベリルも口元を押さえた。
「かしこまりました。戻ったら、とびきりのスイーツを作ります。ふわとろオムライスと、魔界の果実のタルトと、それから――」
「よし、楽しみにしておく。――ベリル、フィア、ユアンを頼む」
「御意」
「まっかせてにゃ!」
リリスは満足げにうなずくと、右手を掲げ、指をひとつ鳴らした。
玉座の間の中央の空間が、ぐにゃりと歪む。空気が震え、黒い渦が生まれ、それがやがて人一人が通れるほどの門へと形を変えていく。門の向こうは暗く、何も見えない。
「転移門だ。座標は毒沼の手前、瘴気の薄い場所に設定してある。帰還時はこの魔石を砕け、新たな門を開く」
リリスはユアンに、小さな黒い魔石を手渡した。
「――くれぐれも、無理はするな。そなたは、我の城で誰よりも必要とされている人間だ。忘れるな」
「……はい。必ず戻ります」
ユアンは深く一礼し、魔石を胸ポケットにしまった。それから、自分をじっと見つめるフィアとベリルを振り返り、大きくうなずく。
「行くぞ、ユアン。先頭は私が」
「フィアはユアンの隣にゃ。絶対離れないから!」
「頼もしいよ。――さあ、行こう」
三人は並んで転移門の前に立った。門の向こうからは、かすかに毒の匂いを含んだ風が吹き込んでくる。かつてユアンが追放された世界。ユアンを「無能」と呼んだ男が待つ場所。
だが、今のユアンはひとりじゃない。隣には猫耳のメイドが、前には四天王の参謀長がいる。そして、はるか後ろの玉座には、銀髪の魔王が見守っている。
「――勇者パーティー救出任務、開始する」
ベリルの宣言とともに、三人は転移門の中へと足を踏み入れた。




