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第11話 毒沼の救出


――もはや、これまでか。


毒沼のほとりで、エルナは朦朧もうろうとする意識の中でそう思った。


魔力はとうに底をつき、指先から放っていた氷の結界も今は消えている。仲間たちは皆、泥にまみれて倒れ伏し、息をしているのかすら定かではない。


戦士は右脚の腐食が膝まで達し、盗賊は出血多量で青ざめ、弓使いはすでに意識がない。リオンだけがかろうじて聖剣を杖に立っていたが、その膝も今、がくりと折れた。


「……リオン!」


エルナが叫ぶが、リオンは泥に片膝をついたまま、虚ろな目で毒沼の水面を見つめている。呪いが聖剣の加護を蝕み、彼の身体は限界を超えていた。


ルーチェはなおも聖魔力を振り絞り、祈りの言葉を紡ぎ続けている。だが、彼女の白い修道服はすでに泥と血にまみれ、その祈りが誰かを癒やすことはない。


(私が……私のせいで……)


エルナは唇を噛んだ。


あの時、ユアンをかばえなかった。リオンに逆らえなかった。ユアンの空いた席を、黙って見ていることしかできなかった。


(せめて、もう一度だけ……ユアンに、謝りたかった)


エルナの目から、涙がこぼれ落ちた。毒沼の瘴気がその涙を濁らせ、泥の中に吸い込まれていく。


――その時だった。


毒沼の上空、何もなかった空間が、ぐにゃりと歪んだ。


最初は瘴気のせいで視界が歪んだのかと思った。だが、違う。空間そのものが裂け、黒い渦が生まれ、それがみるみるうちに光の門へと変貌していく。


エルナは目を見開いた。リオンもまた、虚ろだった瞳にわずかな光を取り戻し、その門を見上げる。


「なんだ……あれは……」


転移門――それは、魔王城の玉座の間と、この毒沼を直接結ぶ扉だった。


そして、その門の中から、一人の人物が踏み出してくる。


黒い外套をまとい、腰には大鎌。ツインテールの髪と丸眼鏡が特徴的な、魔王軍四天王ベリル。彼女は毒沼を見渡し、「ひどい瘴気だな」と顔をしかめた。


その隣から、ぴょんと跳ねるように現れたのは、猫耳のメイド服の少女フィア。「うえっ、くっさいにゃ!鼻が曲がりそう!」と騒ぎながらも、その大きな瞳はすでに周囲の安全を確認している。


そして――三人目が、ゆっくりと門をくぐり抜けた。


白魔術師のローブをまとい、肩には魔王軍の徽章をつけた少年が、そこに立っていた。


「ユアン……!」


エルナの口から、かすれた声が漏れた。


ユアンは一瞬だけエルナを見た。何かを言いたげだったが、すぐに表情を引き締め、倒れている戦士のもとへ歩み寄る。フィアは軽やかな身のこなしで弓使いに駆け寄り、呼吸を確認すると、手際よく安全な場所へと引きずっていく。


「優先順位は、重症者からだ」


ユアンは淡々と言い、戦士の右脚に手をかざした。


「白魔術第七階位――《全快癒光》」


純白の光が戦士の全身を包み込む。腐食した右脚の組織がみるみる再生し、毒にやられた内臓が修復され、失われた血液までもが新たに生み出されていく。


「な……なんだ、これは……」


戦士が目を覚まし、自分の右脚を信じられないものを見るように凝視した。


「まだ動くな。完全に再生したが、体力までは戻っていない」


「ユアン……お前、本当にユアンなのか……?」


「話は後だ。次に行く」


ユアンは次々と仲間たちに手をかざしていく。盗賊の裂傷が塞がり、弓使いの意識が戻り、ルーチェの祈りで抑えきれなかった毒までもが、光の中で浄化されていく。


ルーチェは、その光景を呆然と見つめていた。


(これが……《完全回復》……)


教会で「聖女の再来」と呼ばれていた自分が、必死に祈ってもできなかったことが、ユアンの手によって当たり前のように行われていく。毒を消し、傷を癒やし、命を呼び戻す。それは彼女が追い求めてきた「癒やし」の究極の姿だった。


「ベリル、リオンを」

「承知」


ユアンの指示に、ベリルは無言でうなずくと、泥に沈みかけたリオンの腕を掴んだ。細腕のどこにそんな力があるのか、彼女は軽々とリオンを引き上げると、毒沼の安全な岸辺へと放り投げる。


「ぐっ……!」


リオンは泥まみれで咳き込んだが、すぐにユアンが回復魔法をかける。呪いに蝕まれた肌が元の色を取り戻し、毒に濁った瞳が徐々に焦点を取り戻していく。


「……ユ、アン……?」


「喋るな。まだ回復が終わっていない」


ユアンの声には、かつてのような遠慮も、卑屈さもなかった。ただ淡々と、自分の仕事をこなすヒーラーとしての響きだけがあった。


そして最後に、ユアンはエルナの前に立った。


「エルナ。手を出して」


「……ユアン……私……」


「後で聞く。今は治療が先だ」


ユアンはエルナの手を取った。彼女は疲労困憊で、手足はかじかみ、唇は青紫色に変色している。ユアンが《全快癒光》を発動させると、エルナの身体を蝕んでいた瘴気と毒が、一瞬で消え去った。


「……っ」


エルナの目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。それは痛みの涙ではなかった。


「ユアン……本当に……ごめんなさい……!」


「だから後で聞くって」


ユアンは少し困ったような顔で、それでも彼女の手をそっと握り返した。


フィアが猫耳をピンと立て、全員の状態を素早く確認する。


「ユアン、全員の救出完了にゃ!でも、この場所は長居できない。瘴気がどんどん濃くなってる」


「了解」


ユアンは立ち上がり、毒沼の岸辺でうずくまる元仲間たちを見渡した。とりあえず応急処置は終えたが、満足に歩ける者はほとんどいない。


「ベリル、どうする。この人数だと転移門までの移動もきついぞ」


「決まっている。全員、魔王城へ連れ帰る」


ベリルが腕を組み、いつもの冷静な口調で言い放った。


「ま、魔王城……!?」


戦士が青ざめ、盗賊が慌てて周囲を見回す。


「俺たちは、人間だぞ。魔王城なんかに行ったら、それこそ殺されるんじゃ……」


「今さら何を言っている。お前たちをここで見殺しにすれば、ユアンの名に傷がつく。魔王軍四天王として、それは看過できん」


ベリルは眼鏡を押し上げ、戦士を冷たく一瞥した。


「それにお前たちは、ユアンが魔王城の専属ヒーラーであることをすでに知ってしまった。野放しにはできん。――魔王城で治療を受け、しかるべき手続きを経てから解放する。いいな?」


「手続きって……」


「魔王城医療特区法に基づく捕虜治療規定、だ。今つくった」


ベリルがこともなげに言うと、フィアが「ベリル様、それたぶん後からリリス様に怒られるやつにゃ」と耳打ちした。


だが、異を唱える者は誰もいなかった。勇者パーティーには、もはや選択肢など残されていない。ユアンの助けがなければ、全滅は免れなかったのだ。


「……わかった。頼む」


リオンが、かすれた声で言った。その目はまだユアンをまっすぐに見られず、泥まみれの地面に落ちている。


ユアンはそんなリオンを一瞥し、それから静かに言った。


「それじゃあ、魔王城に戻ろう。ベリル、魔石を」


ベリルがリリスから預かった黒い魔石を掲げる。次の瞬間、空間が再び歪み、光り輝く転移門が出現した。行きと同じ漆黒の渦、ただ瘴気の色が混ざり、禍々しい紫の光を放っている。


「フィア、先に怪我人を」

「わかったにゃ!歩ける人はあたしに掴まるにゃ。歩けない人はベリル様にお願いするにゃ!」


フィアは弓使いの肩を抱え、転移門へと向かう。


ユアンは最後尾で、まだ立ち上がれずにいるエルナに手を差し伸べた。


「立てるか」


「……ユアン。私、あなたにひどいことを……」


「立って。話はそれから」


エルナはユアンの手を取り、よろよろと立ち上がった。彼女の目からは、まだ涙が止まらない。


彼女は、ユアンの背中を見ていた。


つい半月前まで、同じパーティーの仲間だった少年。いつも一番後ろを歩き、誰かの傷を癒やし、誰かの空腹を満たし、それなのに誰からも「ありがとう」と言われなかった少年。その背中が、今はこんなにも遠い。


違う、遠いのではない。


彼が先に行ってしまったのだ。あの雨の日に、自分たちが彼を置き去りにしたから。今、ユアンの背中は、エルナが追いつけないほど遠く、それでいて誰よりも頼もしく見えた。


「……ごめん、なさい……」


エルナは、声にならない声で、もう一度だけ謝った。


「――行くぞ、ユアン」

「ああ」


ユアンは振り返らずに転移門へと歩き出す。その後ろ姿を、ルーチェが、リオンが、それぞれの思いで見つめていた。


門が全員を呑み込み、毒沼は再び静寂に包まれた。


瘴気だけが、変わらず立ち込めている。


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