第12話 魔王城の裁定
転移門をくぐった先は、見覚えのある黒大理石の大広間だった。
玉座の間である。
天井から吊るされた魔法灯が、帰還した一同を冷たく照らし出す。ユアンが最初に門をくぐった時と同じように、壁面の歴代魔王の肖像画が、じっと来訪者たちを見下ろしていた。
「――戻ったか」
玉座に腰掛けたリリスが、静かに言った。その左右には側近たちが控え、奥には衛兵がずらりと並んでいる。どうやら、あらかじめ準備を整えて待っていたらしい。
「ただいま戻りました、リリス様」
ユアンが膝をついて礼をとると、後ろの勇者パーティーも慌ててそれに倣おうとした。しかし、泥と毒で疲弊しきった身体ではそれもままならず、戦士などはその場にべしゃりと倒れ込む始末である。
リリスは玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を下りてきた。銀髪が魔法灯の光をはじき、紅玉の瞳が勇者パーティーの一人ひとりを射抜く。
「ベリル、報告を」
「毒沼で全滅寸前だった勇者パーティー六名を救出。ユアンの《完全回復》により全員の治療は完了しています。ただし体力の回復までは至っておらず、まともに立てる者は半数程度です」
「ご苦労。――して、そこの男が勇者リオンか」
リリスの視線の先で、リオンがびくりと肩を震わせた。普段は絶対の自信に満ちた勇者の顔が、いまは青ざめて引きつっている。伝説の魔王を間近にして、彼の傲慢さもさすがに鳴りを潜めているようだった。
「……ああ、俺が勇者リオンだ」
リオンはなんとかそれだけ言うと、聖剣を杖に立ち上がろうとした。だが、リリスが手をひらりと振ると、目に見えない力がリオンの肩を押さえつけ、再び床に膝をつかせる。
「魔王城において、我の許可なく立てると思うな。――それからそなた。氷の魔導師エルナだな」
「……っ、はい」
名を呼ばれたエルナが、かすれた声で返事をした。彼女はリリスの目をまっすぐに見られず、震える手を胸の前で握りしめている。
「それと、聖女見習いルーチェ」
「ひ、ひゃい……!」
ルーチェはもう、声が裏返っていた。修道服は泥まみれ、栗色の髪にも泥がこびりついている。そんな姿で魔王の前に立たされ、彼女の大きな瞳は今にも零れ落ちそうな涙でいっぱいだった。
リリスは一人ひとりを見渡し、それから小さく息を吐いた。
「――ユアン」
ユアンは、自分の番が来たことを悟った。
「お前を無能と罵り、雨の夜に追放した愚か者どもだ。好きに処分してやる。望むなら、この場で八つ裂きにしても構わぬぞ」
リリスの声はいつも通り冷徹で、冗談にはとても聞こえなかった。衛兵たちが無言で槍を構え直す気配がする。
「ま、待ってくれ!」
戦士が悲鳴のように叫んだ。
「俺たちは、ユアンを追い出したくて追い出したわけじゃ……!」
「そうだ!リオンが決めたことだ!俺たちは関係ない!」
「ユアン、頼む、命だけは……!」
口々に命乞いを始める戦士、盗賊、弓使い。昨日まで一緒にダンジョンを攻略し、同じ釜の飯を食っていた仲間たちの変わりように、ユアンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
だが――。
「ユアン、さま……」
ルーチェが、震える声でユアンの名を呼んだ。
「私は、あなたに謝る資格すらありません。あなたが追放された時、私は何も知らずに、ただリオン様の言葉を信じて……でも、毒沼であなたの《完全回復》を見て、私は……私は……」
ルーチェはそこまで言うと、言葉にならない嗚咽を漏らした。彼女はただの十六歳の少女だ。教会で聖女の再来とチヤホヤされ、そのまま勢いで勇者パーティーに放り込まれた。彼女に罪はない。
そして、エルナ。
彼女だけは、何も言わなかった。ただ青ざめた顔でうつむき、床を見つめている。その肩は小刻みに震えていて、唇を噛みしめているのがユアンにも見えた。あの日、リオンに逆らえず何も言えなかった自分を、今も責め続けているのだろう。
(……俺は)
ユアンは、心の中で静かに呟いた。
(俺は、何がしたいんだ)
復讐か。違う。リオンを八つ裂きにしたところで、あの雨の夜の傷が癒えるわけじゃない。それに、ルーチェやエルナまで一緒に罰する意味などない。
「リリス様」
ユアンは顔を上げ、まっすぐに魔王を見た。
「お願いがあります」
「申してみよ」
「この者たち全員に、魔王城での治療を許可してください。まだ毒と呪いの残滓が残っています。それに、体力も限界です。このままでは、助けた意味がありません」
玉座の間に、静寂が落ちた。
「――本気か、ユアン」
リリスの紅玉の瞳が、細められる。
「そなたを追放した者どもを、それでもなお救うと?甘い。甘すぎるぞ」
「はい。よく言われます」
ユアンは苦笑いを浮かべた。フィアにも、ベリルにも、バルザックにも、何度も言われたことだ。
「でも、これが俺です。誰かが傷ついているのを放っておけない。たとえ相手が俺を捨てた人間でも。――それに」
ユアンはちらりとエルナを見た。
「エルナは、俺が追放された時、かばおうとしてくれました。ルーチェは何も知らなかった。俺は、この二人をひどい目に遭わせるのは……嫌です」
その言葉に、エルナが顔を上げた。彼女の目は真っ赤で、唇がわなないている。
「ユアン……どうして……私は、あなたをかばえなかったのに……何もできなかったのに……」
「それでも、あの時かばおうとしてくれたのは事実です。それだけで、俺は救われた」
ユアンは静かに言った。
「だから、今回は俺が助ける番だ。それだけです」
リリスはしばらくユアンを見つめていたが、やがてふっと息を吐き、玉座に戻りながら言った。
「――好きにしろ。ただし、治療が終われば即刻この城から叩き出す。異論は認めぬ」
「ありがとうございます、リリス様」
ユアンが深く頭を下げると、勇者パーティーから安堵のため息が漏れた。
「た、助かった……!」
「ユアン、お前、本当にいいやつだな……!」
「ありがとう、本当にありがとう!」
戦士がユアンの手を握り、盗賊が背中を叩き、弓使いが涙をぬぐう。ルーチェはその場にへたり込んで、声を上げて泣き始めた。リオンだけは無言でうつむいているが、その握りしめた拳は震えていた。
だが――エルナだけは、違った。
彼女は喜ぶ仲間たちの輪から少し外れた場所で、ひとり立ち尽くしている。ユアンに助けられた。ユアンは自分を許してくれた。自分のことを「救われた」とまで言ってくれた。それは、こんなにも嬉しいことのはずなのに。
(……違う)
エルナは唇を噛んだ。
(私は、嬉しいなんて思っていいはずがない)
あの時、本当にユアンをかばうつもりなら、リオンに逆らってでも彼の手を掴むべきだった。追放を撤回させられなくても、せめて一緒にパーティーを去るくらいの覚悟を見せるべきだった。なのに、自分は何もしなかった。リオンの威圧に怯え、ただ黙ってユアンが出ていくのを見送ったのだ。
その自分が、今さらユアンの優しさに甘えて、喜ぶ資格がどこにあるというのか。
(ユアンは、こんなに優しいのに――私は、こんなに弱いまま)
エルナは、ユアンの背中を見つめていた。
リリスと話す彼の背中。かつてはいつもパーティーの最後尾で、遠慮がちに縮こまっていた背中。その背中が、今はこんなにもまっすぐに伸びている。
ユアンは強くなった。自分たちがいない場所で、自分たちに捨てられた後で、こんなにも逞しくなった。その背中が、エルナにはまぶしすぎて、切なくて――同時に、どうしようもなく遠く感じられた。
(――私は)
エルナは、そっと胸の前で手を組んだ。
(私は、これからどうすればいいの)
彼女の問いに答える者は誰もいない。ただ、ユアンの背中だけが、ぼんやりと滲んで見えていた。
リリスは玉座からそんなエルナの表情をちらりと見やり、それからユアンにだけ聞こえる声で呟いた。
「……ユアン。そなたは相変わらず、面倒な種を蒔くのがうまいな」
「え?」
「なんでもない。――ベリル、フィア、手配を。治療室と客室を用意しろ。人間用の食事もだ」
「御意」
「まっかせてにゃ!――でも、フィア、リオンってやつは廊下の隅の部屋でいいにゃ?」
「フィア、いくらなんでも倉庫はまずい」
「倉庫じゃないにゃ!ちょっとクモの巣が多いだけの素敵な部屋にゃ!」
フィアとベリルが何やら打ち合わせを始める中、ユアンは小さく笑い、それから振り返ってエルナに声をかけた。
「エルナ。とりあえず治療室に来て。まだ毒の残滓があるかもしれないから」
「……うん」
エルナは短く答え、うつむいたままユアンの後ろを歩き出した。
廊下に出ると、窓から差し込む夕日が、二人の影を長く伸ばしている。ユアンはもう、かつてのように後ろを歩かなかった。エルナはかつてのように、隣を歩けなかった。ただその一歩分の距離が、半月の間にできたすべてを物語っていた。




