第99話 氷の対話
ヴェルモント家はグランフォートから馬車で半日の距離にあった。同じ氷の家系でありながらその屋敷は驚くほど対照的だった。グランフォートが古い石造りの質素な館なのに対しヴェルモントは白い大理石の壮麗な宮殿のような屋敷だった。
「すごいにゃ。まるで王宮みたいにゃ」
フィアが感嘆の声を上げる。エルナは複雑な表情でその屋敷を見上げていた。
「……昔からこうだった。ヴェルモントは常にグランフォートより上を行こうとしてきた」
「お前の家が質素なのはそれが理由か」
「ええ。父は見栄を張らなかった。でもそのせいでヴェルモントに舐められてきた」
門の前にはすでに衛兵が待ち構えていた。昨夜の一件がすでに伝わっているらしい。だが彼らは武器を構えていなかった。
「グランフォートのエルナ嬢とリリスノアのユアン殿だな。当主がお会いになる」
「あらかじめ話が通っているのね」
「おそらく昨夜の一件で向こうも動いたのよ」
ルーチェが小声で言う。ユアンはうなずき衛兵に続いて屋敷の中へと入った。
応接室に通されるとそこには白髪の老女が一人座っていた。ヴェルモント家の現当主ヴィクトリア・ヴェルモント。齢七十を超える氷の魔導師の頂点に立つ人物だとエルナが耳打ちする。
「よく来た。グランフォートの娘にリリスノアのヒーラー」
ヴィクトリアの声は老齢とは思えぬほど張りがあった。その目は氷のように冷たく澄んでいる。
「はじめましてヴィクトリア様。リリスノア特別顧問のユアンです」
「堅苦しい挨拶はいい。昨夜うちの若い者が世話になったな。礼を言う」
「礼?」
「お前が彼らの傷を治したと聞いた。敵である自分たちを治したと。それがなければ今頃グランフォートとの全面戦争になっていたかもしれん」
ユアンは老女の目を見つめた。その瞳の奥にわずかな興味のようなものが見えた。
「それでユアン殿。今日は何の用だ。まさか魔導書を届けに来たわけではあるまい」
「はい。お話ししたいことがあります。グランフォートとヴェルモント。二つの氷の家系が争う理由をなくしたいのです」
「争う理由をなくすだと。そんなことが可能か」
「可能かどうかはわかりません。でもまず知っていただきたい。この魔導書の本当の価値を」
ユアンはエルナから預かった魔導書をテーブルの上に置いた。ヴィクトリアの目がわずかに動く。
「これはグランフォートの氷の魔導書。我が家が何十年も欲しがってきたものだ」
「ええ。でも昨夜この書を少し調べさせてもらいました。そして驚くべきことがわかったんです」
ユアンは書物を開いた。最初のページには古い神代文字がびっしりと書かれている。エルナとルーチェが昨夜協力して解読した内容だった。
「この魔導書はグランフォート家だけのものではありません。ヴェルモント家の名前も記されているんです」
「なに」
「この書はもともと一つの書でした。二千年前に二人の氷の魔導師がいました。一人はグランフォートの祖。もう一人はヴェルモントの祖。彼らは協力してこの書を完成させたのです」
ヴィクトリアの表情が初めて動いた。
「……馬鹿な。そんな話は聞いたことがない」
「この書の第八章にこう書かれています。『二つの氷は一つの川となりて大海に至る。されど二つに分かれし時その力は半ばに減ず』と。つまりこの書は二つの家が協力して初めて完全な力を発揮する」
エルナが一歩前に出た。
「ヴィクトリア様。私もこの書を読んで初めて知りました。私たちの家がなぜ争ってきたのか。なぜどちらも氷の力を失いつつあるのか。すべてはこの書に書かれていたんです」
「……ふむ」
ヴィクトリアはしばらく魔導書を見つめていた。やがて顔を上げユアンに問いかけた。
「ユアン殿。お前はこの書をどうしたい」
「二つの家の共有財産にしたい。グランフォートとヴェルモントが共同でこの書を研究し氷魔法の真の力を取り戻す。それができれば政略結婚も領地争いも必要なくなるでしょう」
「甘いな。二つの家の因縁はそんなに単純ではない」
「わかっています。でもヴィクトリア様。あなたはなぜ氷の力を求めているのですか。家の存続のためですか。それとも失われた氷魔法の復活のためですか」
老女は答えなかった。だがその沈黙が答えだった。ユアンは続けた。
「私は回復術師です。傷を癒やすことしかできません。でもその傷がどこから来たのかを見つけることはできます。この家の傷は二千年前に始まっています。二つに分かれた時に」
ヴィクトリアは立ち上がった。その動きは老齢とは思えぬほど俊敏だった。
「……エルナ嬢。お前もこの男と同じことを思っているのか」
「はい。私はグランフォートの娘ですがヴェルモントの血も引いています。母方の祖母がヴェルモントの出身だと知ったのは家を出てからでした」
「なに」
今度はユアンが驚く番だった。エルナは静かに続けた。
「私は二つの家を繋ぐ存在です。だからこそこの争いを終わらせたい。ユアンと一緒に新しい氷魔法の道を開きたいんです」
ヴィクトリアはエルナを見つめた。その目にはもう冷たさはなかった。
「……お前は父に似たな。グランフォートの当主も若い頃はそんな目をしていた」
「おばあ様」
エルナがそう呼ぶとヴィクトリアは小さく笑った。
「そうだ。私はお前の母方の祖母だ。エルナ」
その言葉に部屋の空気が変わった。ユアンは静かに二人を見守った。エルナの目に涙が浮かぶ。
「……会いたかった。ずっと」
「わかっている。私もだ。だがグランフォートとヴェルモントの壁がそれを許さなかった。……だがこの男がその壁を壊しに来た」
ヴィクトリアはユアンに向き直った。
「ユアン殿。一つだけ条件がある。この魔導書を二人の孫娘エルナに託す。そしてエルナ。お前がこの書を解読し二つの家を繋ぐ橋となれ。それができればヴェルモントはグランフォートとの争いをやめよう」
「おばあ様……!」
「ただしユアン殿。お前も協力しろ。エルナ一人ではこの書は解けない。お前の癒やしの力と知識が必要だ」
「もちろんです。それが俺の役目ですから」
ユアンは力強くうなずいた。エルナは祖母に抱きついた。その光景をフィアとルーチェが涙ぐみながら見守っている。テオバルトは静かに目を閉じて頷いた。
こうしてグランフォートとヴェルモントの長年の争いが終わろうとしていた。二千年前の二人の魔導師が夢見た二つの氷が一つになる日。それはエルナという新しい世代の手によって実現しようとしていた。
その夜ヴェルモント家でもてなしを受けた一行は翌朝グランフォートへ戻った。エルナは父にヴィクトリアとの話を伝えた。父は驚きそして深くため息をついた。
「そうか。母上が……いやヴィクトリア殿がそう申されたか」
「お父様。私やります。二つの家を繋ぐ橋になる。ユアンと一緒に」
「……エルナ。お前はもうグランフォートの娘ではない。二つの家の希望だ。好きにやれ。父はもうお前を縛らん」
「お父様……ありがとう」
エルナは父に抱きついた。ユアンはその光景を後ろで見ていた。今回の巡回業務でエルナの過去と家族の問題が解決した。それは大きな収穫だった。
「ユアン」
エルナが振り返り涙をぬぐいながら笑った。
「ありがとう。あなたがいてくれたから」
「俺は何もしてないよ。お前が自分で道を開いたんだ」
「そんなことない。あなたが魔導書の価値を見つけてくれた。あなたが祖母に道を示した。あなたがすべてのきっかけを作ったの」
「……なら俺の役目はここまでだな。あとはエルナの番だ」
「うん。でもこれからも手伝ってくれるでしょ」
「もちろん。相棒だからな」
「……相棒。ふふ。そうね」
エルナはユアンの手を握った。その手はもう冷たくはなかった。温かい手だった。
巡回の旅は続く。新たな出会いと新たな発見。でもユアンは思った。どんなに遠くへ行っても帰る場所がある。それはリリスノアでありそしてこの三人の仲間の隣だった。




