第80話 氷の実家
巡回の旅も、三週間が過ぎた頃だった。
次に向かう村の名前を見て、ユアンは、ふと、隣を歩くエルナを見やった。彼女は、地図を覗き込み、少しだけ、足を止めた。
「……どうした、エルナ」
「え? あ、ううん。……その、次の村、知ってる名前だなって」
「知ってる?」
ユアンは、ベリルが組んだルートをもう一度確認した。次の目的地は、北方の山間にある、小さな領地。名前は、『グランフォート』。特に、大きな村ではない。だが、エルナは、その名を見て、複雑な表情を浮かべている。
「……私の、実家のある領地よ」
「え」
ユアンは、思わず、声を上げた。エルナの実家。彼女が、貴族の出であることは、以前、聞いていた。だが、詳しい話は、聞いたことがなかった。エルナは、自分の過去を、あまり語りたがらなかったからだ。
「……そうか。お前の、故郷か」
「うん。……まあ、私は、家を出て、勇者パーティーに入ったから。もう、何年も、帰ってないけど」
「帰りたいか」
エルナは、しばらく、黙っていた。風が、彼女の青みがかった黒髪を、静かに揺らす。やがて、彼女は、小さく、息を吐いた。
「……わからない。でも、せっかく、近くまで来たんだから。……ちょっとだけ、寄ってみても、いいかな」
「もちろん。お前の故郷だ。案内してくれ」
「ありがとう、ユアン」
エルナは、少しだけ、照れくさそうに笑った。だが、その笑顔の奥に、ユアンは、かすかな不安の色を見た。彼女にとって、実家とは、どんな場所なのだろう。ユアンは、何も聞かずに、ただ、隣を歩いた。
グランフォート領は、山あいの、静かな土地だった。
澄んだ小川が流れ、針葉樹の森が、どこまでも続いている。空気は冷たく、澄んでいる。エルナは、見慣れた道を、懐かしむように、ゆっくりと歩いた。やがて、森を抜けた先に、古い石造りの館が見えてきた。周囲を、低い石壁が囲み、門の前には、古びた家紋が、刻まれている。
「……ここが、私の家」
エルナの声は、少しだけ、震えていた。ユアンは、彼女の背中を、そっと支えるように、隣に立った。フィアは、猫耳を立て、周囲の気配を探っている。ルーチェは、聖属性感知で、館の中の気配を、確かめていた。テオバルトは、静かに、二人の後ろに控えている。
「……エルナ。お前の、家族は」
「父と、母と、兄が一人。……あと、使用人が、何人か。そんなに、大きな家じゃないの」
「そうか。……入るか」
「うん」
エルナは、意を決したように、門をくぐった。館の前まで来ると、年老いた執事が、ちょうど、庭の手入れをしていた。彼は、エルナの姿を見て、手にした鋏を、落としそうになった。
「エルナ……お嬢様……!」
「ギルバート。……久しぶり」
「お、お帰りなさいませ! すぐに、ご主人様方を、お呼びしてきます!」
執事は、慌てて、館の中へと駆け込んでいった。エルナは、その背中を見送りながら、小さく、ため息をついた。
「……やっぱり、来なければ、よかったかな」
「エルナ」
「ごめん、ユアン。……大丈夫。ちゃんと、するから」
やがて、館の扉が開き、初老の男性と、品の良い婦人、それに、エルナより少し年上の男性が、姿を現した。エルナの、父、母、そして、兄だ。三人は、エルナの姿を見て、それぞれ、複雑な表情を浮かべている。
「……エルナ。よく、帰ったな」
父が、静かに、そう言った。その声には、怒りとも、喜びともつかない、微妙な響きがあった。
「お父様。……お久しぶりです」
「お前が、家を出てから、もう、五年になるか。……勇者パーティーを、追放されたと聞いた時は、心配したが。その後、魔王城に、拾われたとか」
「はい。……今は、リリスノアで、魔法医療顧問を、しています」
「魔法医療、顧問。……ほう」
父の目が、ユアンの方を、じっと見た。ユアンは、一歩前に出て、丁寧に、頭を下げた。
「はじめまして。リリスノア特別顧問、ユアンと申します。エルナには、いつも、助けられています」
「……ユアン殿。噂は、聞いている。世界の傷を、癒やしたと。……魔王軍の、ヒーラーだとか」
「はい。……ですが、俺は、ただの回復術師です。エルナの、同僚であり、仲間です」
父は、しばらく、ユアンを見つめていた。その目は、値踏みするようで、冷たかった。だが、やがて、彼は、小さく、ため息をついた。
「……まあ、いい。せっかく、帰ったのだ。上がれ。……話したいことが、ある」
「話したいこと?」
「ああ。……お前にも、関わることだ。エルナ」
父の言葉に、エルナの表情が、わずかに、強張った。ユアンは、彼女の様子を見て、何か、面倒なことが、起こりそうだと、直感した。
(……波乱の、予感がするな)
館の中に、通される。広間には、暖炉の火が、暖かく燃えていた。だが、その暖かさが、かえって、冷たく感じられる。エルナの家族の、張り詰めた空気が、そう、感じさせるのだろう。
「――エルナ。お前も、もう、十八だ。そろそろ、結婚を、考えても、いい頃だと思う」
父が、静かに、切り出した。その言葉に、エルナは、びくりと、肩を震わせた。ユアンも、思わず、息を呑む。フィアは、猫耳を、ぴんと立て、ルーチェは、聖印を、握りしめた。
「……お父様。私、まだ、そんなこと」
「グランフォートの領地は、年々、細っておる。隣の、ヴェルモント家が、この土地を、狙っている。……政略結婚で、家を、守らねば、ならん」
「ヴェルモント家って……あの、氷の魔導師の家系の?」
「そうだ。向こうは、お前の、氷属性の血を、欲しがっている。……悪い話では、ないはずだ」
エルナは、拳を、握りしめた。その手が、かすかに、震えている。ユアンは、彼女の横で、静かに、その話を、聞いていた。これが、エルナの、実家の抱える、問題。そして、彼女が、帰りたがらなかった、理由。
「……お父様。私、結婚するつもりは、ありません」
「何? では、この領地が、ヴェルモント家に、呑み込まれても、いいと、言うのか」
「私は、リリスノアで、やるべきことが、あります。……それに」
エルナは、ちらりと、ユアンを、見た。その目は、不安と、決意が、入り混じっていた。ユアンは、彼女の、その視線に、応えるように、静かに、うなずいた。
「――お父様。俺からも、お話しさせて、いただけますか」
ユアンは、一歩、前に出た。エルナの家族の、冷たい視線が、ユアンに、集まる。だが、ユアンは、臆さず、まっすぐに、父を、見つめた。
「……グランフォート領の、問題。俺たちが、力に、なれるかもしれません。エルナを、政略結婚で、縛る前に。……俺たちに、少しだけ、時間を、いただけませんか」
その言葉に、エルナの父は、しばらく、沈黙した。暖炉の火が、ぱちぱちと、静かに、燃えている。




