第76話 侯爵の屋敷
翌朝、まだ日が昇る前に、一行は行動を開始した。
隠れ家を出る前に、ユアンは全員を集め、最終確認を行った。
「まず、フィアが先行して侯爵の屋敷に潜入する。屋敷の間取り、警備の人数、侯爵の居場所、そして娘の部屋を特定してくれ」
「任せるにゃ。猫の姿なら、誰にも気づかれないにゃ」
「エルナは、屋敷の周囲の地形を確認し、緊急時の退路を確保。主に、西側の路地と、運河沿いの道を頼む」
「わかったわ。氷魔法で、いざとなれば、道を封鎖できるようにしておく」
「ルーチェは、屋敷の結界と、聖属性の反応を探ってくれ。特に、聖教会の残党が屋敷内にいるかどうか。それと、侯爵の娘の病の原因が、聖属性の呪いかどうかも」
「はい、先生。しっかり調べます」
「俺は、陽が昇って、屋敷が動き出した頃に、正面から訪問する。使用人に、『リリスノアの使者として、侯爵に会いたい』と伝えてもらう。……王女様は、ここで待機してくれ。何かあった時のために、王宮の動きを探ってほしい」
「わかりました。ユアン様、どうかご無事で」
「よし。――行こう」
四人は、隠れ家を出た。朝靄の中、王都の裏通りを静かに進む。侯爵の屋敷は、王宮の東、貴族街の外れにあった。周囲を高い石壁に囲まれ、正面には、重厚な鉄門。門の前には、二人の衛兵が立っている。
フィアは、屋敷の裏手に回り、猫の姿に変身した。彼女は、壁の小さな穴から、するりと屋敷の中へと入り込んでいく。エルナは、屋敷の周囲を一周し、地形を頭に叩き込む。ルーチェは、屋敷の外壁に手を当て、聖属性の反応を探った。
「……先生。屋敷の中に、強い聖属性の気配があります。それも、一つじゃない。少なくとも、三人以上。……それと、奥の方に、別の魔力。これは、病の魔力です。呪いの類ではなく、もっと複雑な。……たぶん、これが、侯爵の娘さんのものだと思います」
「わかった。ありがとう、ルーチェ」
ユアンは、深く息を吸い、正面の門へと歩き出した。エルナが、心配そうに、その後ろ姿を見つめる。
「ユアン。無理はしないで」
「ああ。お前たちが、いるからな」
ユアンは、門の前で立ち止まり、衛兵に声をかけた。
「リリスノアの使者として、ヴァルデマール侯爵にお会いしたい。取り次いでもらえるか」
衛兵は、一瞬、ぎょっとした顔をしたが、すぐに、警戒した表情で、ユアンを見下ろした。
「リリスノアの使者だと? 貴様、正気か。侯爵様は、多忙だ。そんな若造に、会う暇などない」
「それでも、伝えてくれ。『娘さんの病を治せる』と。俺は、魔王城の専属ヒーラー、ユアンだ」
衛兵の表情が、変わった。ユアンの名は、セレンディアにも届いている。魔王城の専属ヒーラーであり、世界の傷を癒やした男。その名を聞けば、無視できる者はいない。
「……少々、お待ちください」
衛兵の一人が、屋敷の中へと駆け込んでいった。ユアンは、静かに待った。風が、冷たい。だが、心は、凪いでいた。自分が正しいと思う道を、ただ、進むだけだ。
やがて、衛兵が戻ってきた。その顔には、驚きと、戸惑いが浮かんでいる。
「……侯爵様が、お会いになると。こちらへ」
ユアンは、うなずき、屋敷の中へと足を踏み入れた。エルナとルーチェが、後ろに続く。フィアは、すでに屋敷の中に潜んでいるはずだ。三人は、衛兵に導かれ、長い廊下を抜け、応接間へと通された。
応接間には、一人の初老の男が、暖炉の前に立っていた。白髪を後ろに流し、品の良い服装をしている。その目は、鋭く、冷たい。ヴァルデマール侯爵、その人だった。
「よく来たな、リリスノアの特別顧問。……いや、ユアン殿とお呼びすべきか」
「侯爵。突然の訪問、失礼します。……単刀直入に言います。俺は、あなたの娘さんを治しに来ました」
侯爵は、一瞬、目を見開いた。だが、すぐに、その表情を、険しいものへと変えた。
「……何の話だ。娘は、私の屋敷で、静かに療養している。貴様のような、魔王軍の手先に、娘を触れさせるわけにはいかん」
「侯爵。あなたは、聖教会の残党と手を組み、俺の暗殺を企てた。それは、娘さんの病を治すためだと、聞きました」
侯爵の顔が、わずかに、歪んだ。ユアンは、続けた。
「俺の力は、本物です。あなたの娘さんの病も、治せるかもしれない。……戦う必要はない。俺は、あなたと、戦いに来たわけじゃない。ただ、この国を、そして、あなたの娘さんを、救いたいだけです」
侯爵は、しばらく、沈黙していた。暖炉の火が、ぱちぱちと、静かに燃えている。やがて、彼は、深いため息をついた。
「……娘は、エレオノーラという。今年で、十五になる。五歳の時から、原因不明の病に伏せている。何人もの名医が、診た。聖教会の司祭も、祈りを捧げた。だが、誰一人、治せなかった。……お前に、何ができる」
「俺に、治させてください。その結果、あなたが納得しなければ、俺は、この国から手を引きます。――それで、どうですか」
侯爵は、ユアンをじっと見つめた。その目には、もはや、敵意はなかった。ただ、一人の父親としての、切実な想いが、揺れていた。彼は、ゆっくりと、うなずいた。
「……いいだろう。娘の部屋へ、案内する」




