第74話 刺客
市場の空気は、重かった。
ユアンとエルナは、古びた外套をまとい、人混みに紛れながら、露店を巡っていた。だが、どの店も客足は鈍く、商人たちの表情も暗い。聖教会の鐘が鳴ると、人々は一斉にそちらを向き、祈りを捧げる。だが、その祈りには、力がない。縋るような、虚ろな響きだった。
「……聖魔法が弱まって、教会に頼れなくなった。でも、他に頼るものもない。だから、ただ祈るしかない。そんな顔をしてるわ」
エルナが、小さく呟いた。ユアンは、静かにうなずく。市場の隅では、母親が病の子供を抱え、必死に教会の治療院の扉を叩いていた。だが、扉は固く閉ざされている。中から、司祭が申し訳なさそうに首を振るのが見えた。
「……あの子」
ユアンは、一瞬だけ足を止めた。エルナが、その腕をそっと掴む。
「ユアン。ここで目立ったら、潜入の意味がなくなるわ。……後で、必ず助けましょう。今は、情報を集めるのが先」
「わかってる。……わかってるけど」
ユアンは、歯を食いしばって、視線を逸らした。自分の力を使えば、あの子は一瞬で治る。だが、それをすれば、自分たちがリリスノアの関係者だと気づかれる。今は、耐える時だった。
「……行こう。もう少し、情報を集める」
二人は、市場を抜け、王都の裏通りへと入った。人通りの少ない路地には、古い酒場や、怪しげな商店が並んでいる。ユアンは、酒場の前で立ち止まり、中を覗いた。中では、数人の男たちが、酒を飲みながら、小声で話し込んでいる。その内容が、ユアンの耳に届いた。
「……聞いたか。リリスノアの特別顧問が、近いうちに、セレンディアに来るらしいぞ」
「ああ。魔王軍が、正式に使者を送るって話だ。だが、貴族たちは、それを拒否するつもりらしい」
「拒否して、どうするんだ。戦争になるぞ」
「戦争になれば、聖教会が動く。まだ、本山には、強硬派が残ってる。彼らが、セレンディアを巻き込んで、リリスノアを潰すつもりだ」
「……やはり、聖教会の残党が、糸を引いているな」
ユアンは、エルナに小声で言った。エルナは、険しい顔でうなずく。
「貴族たちも、聖教会の残党に、いいように操られているだけね。自分たちの国が、どうなるかもわからずに」
「……放っておけないな。この国も、癒やしてやらないと」
「ユアン。あなた、またそんなことを」
エルナが、少しだけ呆れたように笑った。だが、その目は、優しかった。ユアンは、彼女の笑顔に、少しだけ救われた気がした。
「さて、そろそろ戻ろう。日が暮れると、この辺りは物騒だ」
「そうね。王女様も、待ってるでしょうし」
二人は、裏通りを引き返し始めた。だが、その時だった。
「――見つけたぞ」
背後から、冷たい声が響いた。ユアンとエルナが振り返ると、路地の両端から、黒い装束の男たちが、次々と姿を現した。その数、七人。全員、腰に短剣を帯び、顔を布で覆っている。その目は、獲物を狙う獣のように、ぎらついていた。
「リリスノアの特別顧問、ユアンだな。大人しく、我々に来い。命は取らん」
「……誰の差し金だ」
「答える必要はない。――行け」
男たちが、一斉に襲いかかってきた。ユアンは、とっさにエルナを庇い、後ろへ下がる。だが、エルナは、ユアンの前に立ちはだかった。
「ユアン、下がって。――《氷結牢獄》」
エルナの詠唱と同時に、路地の床から、無数の氷の柱が突き出した。三人の男が、足を凍りつかせ、動きを止める。だが、四人は、その隙を突いて、左右の壁を蹴り、上へと跳んだ。壁を伝い、ユアンたちの頭上へと回り込む。
「上から来るぞ!」
ユアンが叫ぶと、エルナは即座に、上空に氷の壁を展開した。だが、一人が壁を蹴り破り、エルナに迫る。その刃が、エルナの肩をかすめる。
「――エルナ!」
「私は大丈夫。それより、ユアン、あなたは後ろを」
エルナの言葉に、ユアンは、背後を振り返った。いつの間にか、路地の入り口に、一人の男が立っている。その手には、黒い短剣。聖遺物の力を帯びた、危険な武器だ。男が、ユアンに襲いかかる。ユアンは、避けようとして、足がもつれる。とっさに、自分の身体に《全快癒光》を発動させた。短剣が、ユアンの腕を切り裂く。だが、傷は、瞬時に塞がる。
「――なっ!」
「残念だが、俺は、何度斬られても、治るんだ」
ユアンは、その場で踏みとどまり、男の次の攻撃を受け止めようとした。だが、その必要は、なかった。
「――にゃあああ!」
路地の上から、黒い影が降ってきた。フィアだ。彼女は、ユアンの頭上を飛び越え、男の腕に、鋭い爪を立てる。男が、悲鳴を上げ、短剣を落とす。それを、フィアは、足で受け止め、ユアンの方へと蹴り飛ばした。
「ユアン、受け取るにゃ!」
「フィア、来てくれたのか!」
「当たり前だにゃ! 王女様の伝手で、貴族の動きを探ってたら、変な連中がユアンたちを尾行してるのを見つけたにゃ! ルーチェも、すぐに来るにゃ!」
その言葉通り、路地の入り口に、白い光が走った。ルーチェだ。彼女は、聖光を放ち、残りの男たちを一瞬で眩ませる。
「――《慈愛の聖光》!」
聖光が、男たちの戦意を、優しく、しかし確実に削いでいく。武器を握る手が、次々と緩み、短剣が、地面に落ちていく。ユアンは、その隙を逃さず、路地に、癒やしの光を広げた。
「――《領域修復》」
光が、男たちの身体を包み込む。傷を癒やすだけでなく、精神の緊張までも、解きほぐしていく。男たちは、次々と、その場に膝をつき、戦意を失った。
「……な、なんだ、これは。身体が、動かない。それどころか、こんなに、穏やかな気持ちは、初めてだ」
一人が、涙を流しながら、呟いた。ユアンは、彼の前に、静かに歩み寄った。
「あなたたちを、誰が送った。話してくれ。……同じ傷を、負わせたくないんだ」
男は、しばらく、ユアンを見つめていた。やがて、観念したように、口を開いた。
「……セレンディア王宮、財務大臣、ヴァルデマール侯爵だ。リリスノアの特別顧問を、暗殺しろと。聖教会の残党から、多額の報酬が、約束されている」
「ヴァルデマール侯爵……」
「ああ。彼は、聖教会の残党と結託し、この国を、リリスノアとの戦争へと、導こうとしている。……私は、ただ、金に困っていただけだ。すまない。娘の病気を、治すために」
「……わかった。あなたの娘なら、俺が治す。だから、これからは、暴力じゃなくて、俺を頼ってくれ」
ユアンは、男の肩に、そっと手を置いた。男は、声を上げて、泣き始めた。その姿を見て、エルナは、静かにユアンの隣に立った。
「……あなたは、本当に、優しいわね」
「そうかな」
「そうよ。だから、危なっかしくて、目が離せないの」
エルナは、そう言って、ユアンの腕に、自分の腕を絡めた。その手は、さっきまで、戦っていた時とは、比べ物にならないほど、温かかった。
フィアとルーチェも、駆け寄ってきた。
「ユアン、大丈夫にゃ!」
「先生、怪我は!」
「ああ、二人とも、ありがとう。おかげで、助かった」
「当然だにゃ! あたしたちは、ユアンの相棒にゃ!」
「私は、先生の弟子ですから。……でも、エルナさん、ずるいです。ユアン先生に、抱きついて」
「抱きついてないわよ。ただ、支えてるだけ」
「それも、ずるいです!」
「……お前たち、騒がしいな。とりあえず、ここを離れよう。王女様の拠点に戻って、対策を練る」
四人は、倒れた男たちを、路地の隅に寄せ、急ぎ足で、隠れ家へと戻った。夜空には、星が、静かに輝いていた。だが、その星の光は、どこか、冷たく、鋭く、この国に、新たな戦いの予感を、告げているようだった。




