第70話 癒やしの代償
建国から一週間が経った。
リリスノアの名は、大陸中に轟いていた。ユアンの癒やしの力、そして魔王城が人間と魔族の共存国家として生まれ変わったこと。その知らせは、国境を越え、海を越え、遠く離れた土地にまで届いた。
そして、その結果として――リリスノアには、かつてないほどの人々が押し寄せていた。
「今日の患者数、六百三十七人。昨日より八十人多い。半分は国外からだ」
医療区画の執務室で、ベリルが報告書を読み上げる。
「六百三十七……!」
ユアンは、椅子の背にもたれかかり、天井を仰いだ。その顔には、隈ができている。この一週間、彼はほとんど眠っていない。朝は夜明け前から治療を始め、昼は各国からの視察や会談に顔を出し、夜は夜で救急患者が押し寄せる。合間に厨房に立つ余裕など、もはやなかった。
「断るわけにはいかないんだろうな」
「無理だな。今日来た患者の中には、ガンドリアから馬車で三日かけて来た老人もいる。聖教会の衰退で、治療を受けられなくなった者たちだ。お前の癒やしを求めて、命がけで辿り着いた。追い返せば、それこそリリスノアの理念に反する」
「わかってる。……わかってるんだけどな」
ユアンは、自分の両手を見下ろした。この手が、今日も六百人以上を癒やした。その代償に、ユアン自身の魔力はすっかり枯渇している。指先はかすかに震え、立っているだけでも、足がふらつく。世界の傷を癒やした時よりも、ずっと疲れていた。
「……誰か、自分を癒やしてほしい」
ぽつりと、ユアンは呟いた。それは、無意識の言葉だった。だが、その言葉は、執務室にいた全員の心を刺した。
「ユアン……!」
「先生……!」
「にゃ……!」
エルナ、ルーチェ、フィアが、同時に声を上げた。ベリルも、眉をひそめ、口を開きかけたが、何も言えずに眼鏡を押し上げた。
「……悪い、今のは、聞かなかったことにしてくれ」
「聞かなかったことにできるわけないでしょ!」
エルナが、珍しく声を荒らげた。彼女は、ユアンの隣に歩み寄り、その手をぎゅっと握った。
「あなたは、ずっと誰かを癒やし続けてきた。世界の傷も、聖遺物も、傷ついた兵士も、病に倒れた民も、みんなあなたが癒やしてきた。でも、あなたは誰に癒やしてもらってるの?」
「……それは」
「誰も、あなたを癒やしてない。あなたは、ずっと自分を後回しにしてきた。それで、今、倒れる寸前まで来てる。違う?」
「……エルナの言う通りだ」
ユアンは、観念したように、小さくうなずいた。彼女の言う通り、ユアンは誰かに癒やしを求めることなく、ただひたすら、誰かを癒やし続けてきた。リリスに古傷を治してやった時も、聖遺物を浄化した時も、世界の傷を塞いだ時も、その代償を、自分一人で抱えてきた。
「――ユアン。今日は、もう仕事を終わりにしろ」
ベリルが、静かに言った。
「だが、まだ診療の予約が」
「予約は私が調整する。今日の分は、全部明日に回す。お前は、今すぐ休め」
「でも」
「これは、参謀長としての命令だ」
ベリルの声は、有無を言わさなかった。ユアンは、反論を飲み込み、小さくうなずいた。
その夜、ユアンは自室の寝台に横たわっていた。
だが、眠れなかった。身体は疲れているのに、頭の中は冴えてしまっている。今日癒やした患者の顔が、次々と浮かんでは消えていく。あの老人は、無事に家に帰れただろうか。あの子供は、明日も笑っていられるだろうか。
(……駄目だ。休めと言われても、休めない)
ユアンが寝返りを打った、その時だった。
コン、コン。
「ユアン、入るわよ」
エルナの声だった。扉が開き、彼女は、湯気の立つ大きな盥と、柔らかなタオルを抱えて入ってきた。
「エルナ、何を」
「いいから、黙ってて。――今日は、私があなたを癒やす番よ」
エルナは、ユアンの返事を待たず、盥をテーブルに置き、タオルを湯に浸した。それから、ユアンの隣に腰掛け、そっと彼の手を取った。温かいタオルが、ユアンの冷たい指先を包み込む。
「手が、冷たい。……こんなになるまで、魔力を使い果たして」
「……すまん」
「謝らないで。あなたは、頑張った。だから、今は、休んで」
エルナは、ユアンの手のひらを、丁寧に拭いていく。指の一本一本、爪の先まで、まるで宝物に触れるかのように。ユアンは、その優しい手つきに、こわばっていた肩の力が、少しずつ抜けていくのを感じた。
「エルナ。お前、こんなこと、どこで覚えたんだ」
「実家にいた時、母が父にやってたの。貴族のたしなみよ。……それに、あなたにやってあげたかったの。ずっと」
エルナは、ユアンの手を拭き終えると、今度は、彼の額にそっと手を当てた。ひんやりとした、しかし柔らかな冷気が、ユアンの頭痛を和らげていく。
「氷魔法を、医療に使うのは、私の役目でしょう。今は、あなたを冷やしてあげる」
「エルナ……ありがとう」
「どういたしまして。……少しは、休めそう?」
「ああ、だいぶ」
そこへ、また扉がノックされた。
「先生、入ってもいいですか」
ルーチェだった。彼女は、ハーブティーのポットと、小さな焼き菓子を持ってきていた。
「先生が眠れないと聞いて、眠りを助けるハーブを調合してきました。それと、バルザック料理長が、『滋養をつけろ』って。食べやすいお菓子も」
「ルーチェ……お前も、そんな時間まで」
「先生のためなら、いつでも。……あ、エルナさんもいたんですね」
「ええ。ユアンの手当てをしてたの。……ルーチェも、座ったら?」
「はい」
ルーチェは、エルナの隣に腰を下ろし、ユアンにハーブティーを手渡した。温かいカップからは、ラベンダーとカモミールの香りが立ち上っている。一口飲むと、じんわりと全身が温かくなり、張り詰めていた神経が、ゆっくりとほどけていく。
「先生。今日の診療、お疲れさまでした」
「ルーチェこそ、医療区画の運営、手伝ってくれてありがとう」
「いいえ。私は、先生の足元にも及びません。でも、せめて、先生が倒れないように、支えたいんです。……それが、弟子として、一番大切なことだと思うから」
ルーチェは、ユアンの膝に、そっと毛布をかけた。聖属性の温かな魔力が、毛布を通して、ユアンの身体を包み込む。
「先生。あの、今日は、私の聖光で、先生の魔力を少しだけ戻しますね。完全には無理ですが、明日、少しでも楽になるように」
「ルーチェ、それは、お前の魔力を消費するだろう」
「かまいません。先生が倒れるより、ずっとマシです。……私、先生に、いつも助けてもらってばかりだから。たまには、私にも助けさせてください」
「ルーチェ……」
ユアンは、ルーチェの頭に、そっと手を置いた。彼女は、目を細めて、気持ちよさそうに微笑んだ。
その時、窓の外から、ひょいと影が飛び込んできた。フィアだった。彼女は、両手に、温かいミルクのカップを持っている。
「ユアン! あたしも来たにゃ! 温かいミルク、持ってきたにゃ!」
「フィア、お前も」
「当然にゃ! ユアンが疲れてるって聞いたら、じっとしてられないにゃ! それに、ミルクは、あたしが一番うまく作れるにゃ! バルザック料理長に教わったにゃ!」
フィアは、ユアンの寝台の端に、ぴょんと飛び乗り、ミルクを差し出した。ほのかに甘い、温かなミルク。一口飲むと、身体の芯から温まる。
「フィア、上手いな。これ」
「にゃはは! 当たり前だにゃ! ユアンのためだもんにゃ! ……でも、ユアン。あたし、さっき、ユアンが『誰か自分を癒やしてほしい』って言ったの、聞いて、すごく悲しくなったにゃ」
フィアは、ミルクのカップを置き、ユアンの腕に、ぎゅっと抱きついた。
「ユアンは、いつも、あたしたちを癒やしてくれるにゃ。あたしが怪我した時も、エルナが倒れた時も、ルーチェが泣いてた時も、全部、ユアンが治してくれたにゃ。でも、ユアン自身は、誰にも治してもらってなかったにゃ。……それが、悲しかったにゃ」
「フィア……」
「でも、もう大丈夫にゃ。あたしたちがいるにゃ。ユアンが疲れたら、あたしがミルクを作るにゃ。エルナが手を温めるにゃ。ルーチェがハーブティーを淹れるにゃ。だから、ユアンは、もっとあたしたちに甘えていいにゃ」
「……ありがとう、フィア」
ユアンは、フィアの頭を撫でた。エルナが、ユアンの手を握り、ルーチェが、ユアンの肩に手を置いた。三人の温もりが、ユアンを包み込む。それは、今までユアンが誰かに与えてきた癒やしとは、まったく違う種類の温かさだった。
「……なあ、みんな」
「なに?」
「俺、回復しかできないと思ってた。でも、お前たちのおかげで、回復される側の気持ちも、少しわかった気がする。……癒やされるって、こんなに、あったかいんだな」
「そうよ。あなたが、私たちにしてくれたことよ」
「先生が、私たちに教えてくれたことです」
「ユアンが、あたしたちに与えてくれたものにゃ」
三人の言葉が、重なる。ユアンは、目頭が熱くなるのを感じた。涙をこぼすまいと、天井を見上げる。
「……明日も、頑張れそうだ」
「当たり前にゃ! でも、頑張りすぎたら、またあたしたちが癒やすにゃ!」
「そのためなら、いつでも駆けつけるわ」
「私も、先生のそばにいますから」
ユアンは、三人に囲まれ、ゆっくりと目を閉じた。今夜は、きっと眠れる。そう思った。彼を癒やすために、三人がいてくれるから。
窓の外では、リリスノアの新しい月が、静かに輝いていた。




