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第65話 建国前夜


朝は、味噌汁の香りから始まる。


ユアンが厨房に立つようになって、もう何ヶ月になるだろう。魔王城の一日は、彼の作る朝食とともに動き出すのが当たり前になった。今日も夜明け前、ユアンが最初の出汁を取っていると、いつもの面子が揃ってくる。


ゼクスは無言でカウンターに座る。テオバルトは「今日は豆腐か」と嬉しそうに椀を覗き込む。ヴェルナーはすっかり城の朝に馴染み、元聖騎士とは思えないほど気安い顔で「おかわりいいですか」と手を挙げている。バルザックは奥で新米料理人たちに檄を飛ばし、エルナはすっかり厨房の常連になって、慣れた手つきでネギを刻んでいる。


「ユアン、今日の午前は式典の最終確認よ。遅れないで」

「わかってる。この味噌汁を配ったらすぐ行く」


「にゃー、あたしも手伝うにゃ! 今日は各国の使者が来るから、保安の配置を確認しないといけないにゃ!」

フィアが、味噌汁を三杯おかわりしながら言う。猫耳は相変わらず元気だ。


「フィアさん、食べながら話さないでください。それに、そのお椀、もう四杯目ですよ」

ルーチェが、呆れながらも笑っている。彼女は今日、医療区画の最終点検と、式典に出席する各国の聖職者たちの案内役を任されていた。


三人それぞれの朝が、そこにある。ユアンは、その光景を眺めながら、胸の奥に温かなものを感じていた。以前のように、誰かが誰かを牽制するような空気はない。それぞれが、自分の持ち場をしっかりと見据えている。


(みんな、ちゃんと前を向いてる。俺も、頑張らないと)


午前の会議は、玉座の間で行われた。


議題は、建国式典「リリスノア建国の儀」の最終確認。各国の王侯貴族、聖教会の代表、周辺諸国の大使たちが一堂に会する、まさに歴史的な式典だ。


「式次第は、ベリル、最終版を見せてくれ」

「はい。まず開式の辞、リリス様の挨拶、各国代表の祝辞。次に、リリスノアの国章披露。その後、同盟国との調印式、そして、特別顧問ユアンによる『癒やしの披露』。最後に閉式の辞と、祝宴」


ベリルが、羊皮紙を広げて読み上げる。式典の規模は、魔王城の歴史の中でも最大級だ。


「癒やしの披露、って……また俺、何かやるのか」

「当然だ。お前の癒やしこそ、リリスノアの最大の象徴。各国の代表は、それを一目見たくて集まる。お前は、式典の目玉だ」

「目玉って……」


ユアンは、頭を抱えた。だが、反論は許されない。ベリルの目が、そう言っている。


「それから、各国からの祝辞は、イストリア王国、ガルム騎士王国、ガンドリア王国、そして聖教会本山から。聖教会の代表は、アルベリクが来る」

「アルベリクさんが、わざわざ」

「ああ。お前が本山で見せた癒やしの光を、世界中に知らしめるために、彼は自ら祝辞を述べると言ってきている。……あれだけのことがあった場所から、祝辞が届く。これは、大きい」

「そうだな。あの人が来てくれるなら、俺も嬉しい」


ユアンは、本山でのアルベリクの言葉を思い出していた。「教会は、生まれ変わる」と、彼は言った。その言葉が、いよいよ現実になろうとしている。


「警備は、ゼクスとドルガが担当する。各国の要人が集まる。教会の残党が、最後の悪あがきをしてくる可能性も、ゼロではない。くれぐれも、気を抜くな」


ゼクスが、無言でうなずく。ドルガは「任せておけ。誰一人、指一本触れさせやしねえ」と、太い腕を組みながら笑った。


「医療体制は、ルーチェとエルナが担当する。式典中に体調を崩す者が出るかもしれない。それに、癒やしの披露の際、ユアンの補佐も必要だ」

「はい! 任せてください」

「氷魔法で、会場の空気を適温に保つわ。暑くて倒れる人もいるだろうから」

「頼もしいな、二人とも」


エルナとルーチェは、目を合わせて小さく笑った。以前のような張り合う空気はなく、それぞれの役割を認め合っている。


「ユアン。お前は、式典の挨拶と、癒やしの披露、それから各国の代表との個別会談も頼む。特に、イストリア王国の王は、お前と個人的に話したいと言っている」

「イストリアの、王様が」

「ああ。お前の故郷の国だ。無下にはできん」

「……わかった」


ユアンは、小さく息を吐いた。故郷の国。かつて自分を「無能」と呼んだ冒険者ギルドがある国。だが、今はもう、そのことを恨んではいない。ただ、あの国が、これからどう変わっていくのか。それを見届けるのが、自分の役目だと思っていた。


会議が終わると、ユアンは医療区画の執務室に戻った。


机の上には、式典の準備に関する書類が山積みになっている。各国の要人の名前、祝辞の順番、癒やしの披露で使う予定の聖遺物の状態、そして、式典後の祝宴のメニューまで。やることが、山のようにある。


(建国式典か。まさか、俺がこんなことに関わるとはな)


ユアンは、書類の山を前に、苦笑いを浮かべた。魔王城に来たばかりの頃は、治療室と厨房を行き来するだけで精一杯だった。それが今は、新しい国を創る一員として、式典の準備に追われている。人生とは、わからないものだ。


「――ユアン先生、お茶をお持ちしました」


ルーチェが、湯気の立つカップを二つ持って、執務室に入ってきた。ハーブティーだ。香りでわかる。


「ありがとう。助かるよ」

「先生、今日も書類ばかりで、疲れてますよね。少し休んでください」

「そうしたいのは山々だが、これだけあるからな」


ユアンは、カップを受け取り、一口すする。温かくて、ほんのり甘い。ルーチェの調合したハーブティーは、いつもユアンの心を落ち着かせてくれる。


「先生、あの、聞いてもいいですか」

「なんだ」

「建国式典の後、リリスノアは、どうなっていくんでしょうね」

「……どう、か。まだ、はっきりとはわからない。でも、少なくとも、俺たちは今まで通り、誰かを癒やし続ける。医療区画を広げて、聖遺物を鎮めて、料理を作って。――それを、国として続けていくだけだ」


「それって、すごく素敵なことだと思います」

「そうか」

「はい。だって、国を創るって、大きなことじゃないですか。でも、先生の言うことは、とてもシンプルで。……誰かを癒やすこと。それだけを、国としてやっていく。そんな国、他にありませんよ」

「そうだな。俺たちは、そういう国を創るんだ」


ユアンは、カップを置き、窓の外を見た。魔王城の尖塔が、青空にそびえている。その向こうには、荒野と、そして、人間の国々が広がっている。かつては、敵対していた世界。今は、少しずつ、手を取り合おうとしている。


「ルーチェ。お前が聖女見習いだった頃、こんな未来、想像できたか」

「いいえ。まったく」

「だろうな。俺もだ。魔の森で倒れた時は、もう終わりだと思ってた。それが、今は、国を創る手伝いをしてる。……人生は、わからないものだな」

「ふふ。でも、私は、そのおかげで先生に会えましたから。感謝しています」

「……ありがとう」


執務室に、静かな時間が流れる。書類の山はまだあるが、この温かい時間だけは、大切にしたいと思った。


その夜、ユアンはいつものように、厨房で翌日の仕込みをしていた。


バルザックは今日は早く上がり、厨房にはユアン一人。そこへ、フィアがひょっこりと顔を出した。


「ユアン、まだいたにゃ。今日は、あたしが夜食を持ってきたにゃ」


「夜食?」

「そうだにゃ。市場で買ってきた、串焼きにゃ。ユアンと一緒に食べたくて」

「お前、まだ食べるのか」

「別腹だにゃ。それに、今日は、ユアンとゆっくり話したかったにゃ」


フィアは、串焼きの包みを開け、ユアンの隣に座った。猫耳が、満足そうに揺れている。


「建国式典、いよいよだにゃ。あたし、ユアンの隣で警備するから、絶対に守るにゃ」

「頼もしいな」

「当たり前だにゃ。あたしは、ユアンの相棒だにゃ」

「……ああ。そうだな」


二人は、串焼きを食べながら、式典の話をし、他愛ない話をし、やがて、フィアは「もう寝るにゃ」と立ち上がった。


「ユアン、また明日にゃ」

「ああ。おやすみ、フィア」

「おやすみにゃ。……あのな、ユアン」


フィアは、扉のところで振り返り、少しだけ照れたように言った。


「建国式典、ユアンがリリス様の隣で、堂々としてる姿、見るのが楽しみだにゃ。あたし、それだけで、明日、頑張れるにゃ」


「……ありがとう。お前も、無理するなよ」

「わかってるにゃ!」


フィアは、扉の向こうに消えていった。ユアンは、残った串焼きの串を片付け、厨房の明かりを落とした。


明日も、きっと忙しい一日になる。だが、その忙しさが、今は誇らしく思えた。


(リリスノア建国式典。ついに、始まるんだな)


魔王城の夜は、静かだった。だが、その静けさの奥に、確かな熱が満ちていた。


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