第63話 三人と向き合う
その夜、ユアンは眠れなかった。
自室の天井を見上げながら、今日の出来事を何度も思い返していた。エルナの真剣な眼差し、フィアのまっすぐな言葉、ルーチェの潤んだ瞳。三人とも、それぞれのやり方でユアンに気持ちを伝えていた。それを「仲間だから」「仕事だから」と流してきたのは、自分だった。
(ベリルの言う通りだ。俺がはっきりしないから、三人を困らせている)
ユアンは寝台を出て、窓辺に立った。月明かりが、静かに部屋の中に差し込んでいる。ふと、廊下から足音が聞こえた。規則正しい、しかしどこか柔らかな足音。ユアンは扉を開けた。
「――ベリル」
「やはり起きていたか。顔を見ればわかる」
ベリルは、夜着の上に外套を羽織っていた。手には、湯気の立つカップを二つ持っている。ハーブティーだった。
「入れ」
「ああ、助かる」
ベリルは、ユアンの部屋の椅子に腰を下ろし、カップを一つテーブルに置いた。ユアンも向かいに座り、温かいカップを両手で包み込む。
「それで、悩んでいるのは三人のことだな」
「……ああ。お前の言う通り、俺がはっきりしないから、みんなを困らせてる。でも、どう答えればいいのか、わからないんだ」
「誰が一番好きか、決められないと?」
「違う。……いや、それもあるかもしれない。でも、もっと根本的に、俺は誰かを選ぶ資格があるのか、って思ってしまう」
ベリルは、カップを一口飲んでから、静かに言った。
「資格、か。お前らしいな。自分を卑下して、相手の気持ちから逃げる理由づけだ」
「そう、なのかな」
「そうだ。――いいか、ユアン。お前は、世界を救った。魔王城を変えた。多くの人の命を救った。それは、揺るぎない事実だ。だが、それは恋愛の資格とは別物だ。誰かを好きになるのに、資格も、功績も、関係ない」
「……でも、俺は三人を傷つけたくない。誰かを選べば、他の二人を傷つけることになる」
「そうだ。だが、それはお前が優柔不断でいる以上に、ずっと誠実な傷だ」
ベリルはカップを置き、まっすぐにユアンを見た。その目は、冷たく澄んでいるが、奥には確かな温度があった。
「エルナは、お前の過去を知っている。フィアは、お前の再生の夜を知っている。ルーチェは、お前の未来を共に歩もうとしている。三人とも、お前の人生の異なる場面に現れ、それぞれの方法でお前を支えてきた。――そのどれもが、本物だ」
「ああ」
「だが、お前は一人だ。同時に三人の隣を歩くことは、物理的にできない。その事実から、逃げるな」
「……逃げてるつもりはない」
「逃げているさ。『どうしたらいいかわからない』と言って、答えを先延ばしにしている。それは、一番楽な道だ。誰も傷つかないように見えて、実は一番ずるい」
ベリルの言葉は、容赦なかった。だが、その冷たさの奥に、ユアンを案じる響きがあった。
「お前は、誰かを選んだ後、他の二人とどう向き合うか、考えたことがあるか」
「……ない」
「だろうな。だが、それこそが、お前のすべきことだ。選ぶことは、終わりじゃない。選んだ後の関係を、どう築くかが、本当の意味での『向き合う』ということだ」
ユアンは、カップの温もりを確かめながら、ベリルの言葉を噛みしめた。
「お前は、誰も見捨てない、とよく言う。それは、美しい理念だ。だが、恋愛においては、誰も見捨てないというのは、誰も選ばないということと同じだ。全員を大事に思うなら、まず一人ひとりと、正面から向き合え。話を聞け。気持ちを受け止めろ。そして、お前自身の気持ちも、正直に伝えろ。――それが、できるか」
「……できるか、じゃない。やるんだ。俺が、みんなと、ちゃんと向き合う。逃げない」
「よし」
ベリルは、少しだけ口元を緩めた。それは、彼女なりの激励だった。
「あのな、ユアン。私はお前たち三人娘のことを、口うるさく言うが、嫌いじゃない。むしろ、いい傾向だと思っている。お前が、ここまで誰かに想われる人間になったことが、素直に嬉しい」
「ベリル……」
「魔王城に来たばかりの頃のお前は、いつも遠慮がちで、誰かの後ろを歩いていた。今は、堂々と前に立てる。……その変化のきっかけの一つに、あの三人がいる。それは、紛れもない事実だ」
ベリルは立ち上がり、扉へと歩いた。そして、振り返らずに言った。
「ユアン。三人は、お前が思うよりずっと強い。お前が正直に答えを出せば、きっと受け止める。だから、迷うな。まずは、一人ひとりと、ちゃんと話せ」
「ああ。ありがとう、ベリル」
「礼には及ばない。私は参謀長として、城の秩序を守っただけだ。……それと、このハーブティー、ルーチェが調合したものだ。今日の修羅場の後、『ユアン先生が眠れるように』と、私に渡してきた。お前が思うほど、あいつらも、お前を困らせたいわけじゃない」
「……そうか」
「そうだ。カップを洗って、明日、返してやれ。それだけで、少しは伝わる」
ベリルは、そう言い残して、静かに部屋を出ていった。廊下の足音が遠ざかるのを聞きながら、ユアンは一人、残されたカップを見つめた。ハーブの香りが、まだかすかに漂っている。
(ルーチェが、俺のために……)
ユアンは、カップに残ったハーブティーを飲み干した。ほんのりと甘くて、心が落ち着く味だった。彼女の祈りが、この一杯に込められている気がした。
(よし)
ユアンは、立ち上がった。明日から、いや、明日こそ、三人と向き合おう。エルナには、彼女の気持ちを正面から受け止めると告げよう。フィアには、あの市場の約束を、仕事ではなく、二人の時間として大切にしよう。ルーチェには、そのハーブティーの礼を言って、彼女が望むなら、二人で話す時間を作ろう。
まだ、答えは出ない。だが、答えを探す歩みは、今ここから始めることができる。
(俺は、回復術師だ。人の痛みを癒やすことが、俺の仕事。なら、大切な人の心の痛みも、逃げずに受け止める。それが、俺の道だ)
月明かりが、静かにユアンの決意を見守っていた。明日は、きっと、今日よりも少しだけ、正直な一日になる。




