第62話 三つの火花
建国式典まで、あと半月。
魔王城は連日、諸外国からの書簡や使節の対応に追われていた。そんな中にあっても、ユアンは毎日どこかで誰かと顔を合わせている。医療区画ではルーチェが、城の廊下ではエルナが、そして厨房の前ではフィアが、当たり前のように隣にいた。
それは、かつてのユアンには想像もできなかったほど賑やかな日常だった。だが――今日ばかりは、その賑やかさが、少し違う形で爆発した。
「ユアン、ちょっと来て。この前の氷魔法と回復魔法の融合、次の実験の予定を立てたの。場所は旧薬草庫、時刻は明日の午後。いいわね」
エルナは、手にした実験ノートをユアンに見せながら、当然といった様子で言った。その距離、半歩。自然とユアンの腕に手が触れそうな近さだ。
「それは仕事の話にゃ。デートじゃないにゃ。あたしだって、この前ユアンと市場に行ったにゃ。次は、城下に新しくできた甘味処に行く約束をしたにゃ」
フィアは、するりとユアンとエルナの間に割り込む。ピンと立った耳。ゆらゆら揺れる尻尾。笑っているが、目が笑っていない。猫が他の猫の縄張りを牽制する時の顔だ。
「二人とも、仕事の話ばかりでずるいです。私も、先生と医療区画の視察に行く約束があります。次の定休日に、中庭の泉を整備しがてら、散歩をするんです」
ルーチェが、聖印を手に、にこやかに言った。だが、その声はどこか張り詰めていて、普段のおどおどした様子がない。
(――なんだ、なんだ、この空気は)
ユアンは、背中に嫌な汗を感じた。
「ちょっと待ってくれ。お前たち、何か勘違いしてないか。全部、仕事の打ち合わせだぞ。甘味処に至っては、フィアが勝手に決めたことだし」
「甘味処は、ユアンが『行こう』って言ったにゃ。言ったもんは、しょうがないにゃ」
「いや、あれは、お前が勝手に決めた予定を、俺が『わかった』と言っただけで……」
「エルナだって、無理やり魔法の実験に誘ってるにゃ。ユアンは、あたしと甘味処に行くにゃ」
「無理やりじゃないわ。ユアンが、私の実験に興味があるって言ったから。彼の回復魔法の本質を理解できるのは、氷魔法の理論に通じた私だけ。――ね、ユアン」
エルナが、すっとユアンの左腕に手を添えた。冷たい指。しかし、その冷たさが逆に熱を帯びて感じられる。隣のフィアが、シャッという顔でエルナの手を払いのけ、今度は自分がユアンの腕にがっとしがみついた。
「にゃっ! エルナの手、冷たいからユアンが風邪をひくにゃ! ユアンには、こうして温かいあたしがくっついてたほうがいいにゃ」
「ちょっと、フィア。お行儀悪すぎるでしょ。……ユアン、肘は自由にしなさい。肩を揉まれるなら、聖属性の私が適任です」
今度は、ルーチェがユアンの肩を後ろからそっと掴んだ。ぽかぽかと暖かな聖光が、ユアンの全身を包む。それが、心地よいのだが、同時に三人の視線が突き刺さるようで、まったく落ち着かない。
「三人とも、ちょっと待て。みんな、俺をからかってるだろ。あの、その、もうちょっとだけ、距離を……」
「「「距離を?」」」
三人が、同時にユアンの顔を覗き込んだ。エルナの青い瞳、フィアの大きな猫目、ルーチェの潤んだ目。それが、目前に迫り、鼻先が触れそうなほど近い。そのどれもが冗談の色を半分だけ残しつつ、本気の色を半分以上含んでいる。
「ユアン、たまにははっきり言いなさいよ。私と、フィアと、ルーチェ、誰と過ごしたいの」
「にゃ。で、でも、順番は、あたしが先に約束したにゃ」
「私は、順番とか、そんなのじゃなくて、先生が決めればいいと思います。……決めますよね、先生」
三方を囲まれ、ユアンはたじろぐ。そこへ、また新たな一撃が飛んできた。
「――お前たち、何をしている」
冷たい声。背筋の伸びた、軍靴の足音。
振り返ると、ベリルが腕を組んで立っていた。眼鏡の奥の瞳が、すべてを見透かすように細められている。
「建国式典まであと半月。城内は連日、接待と準備でてんてこ舞いだ。その中で、お前たち三人が揃いも揃って、特別顧問を取り合っているだと。――恥を知れ」
「ベリル様、これはですね。その、みんなで、ちょっとした親睦を」
「黙れ、ユアン。元凶はお前だ」
「えぇ……」
「お前がはっきりしないから、三人が増長する。覚えておけ。優柔不断は、最も多くを傷つける。――お前たちも、公私混同が過ぎる。気持ちがあるなら、お互いに正々堂々と、本人にだけ伝えろ。第三者を巻き込んだところで、勝ちはない。わかったな、エルナ、ルーチェ、フィア」
三人は、しん、と静まり返った。
「……はい」
エルナが、小さくうなずく。
「……ごめんにゃさい、ベリル様」
フィアが、耳をぺたんと伏せた。
「……すみませんでした。私、はしゃぎすぎました」
ルーチェが、聖印を握りながらうつむいた。
「よし。それでは全員、持ち場に戻れ。ユアン、お前は私と来い。建国式典の式次第の確認だ」
「あ、ああ。――みんな、また後でな」
三人は、それぞれ名残惜しそうに、しかし素直に散っていった。エルナは「実験の予定、忘れないで」とだけ言い置き、フィアは「甘味処、絶対だにゃ」と小声でつぶやき、ルーチェは「先生、また後で」と祈るように手を振った。
廊下を歩きながら、ベリルがため息まじりに言った。
「お前、このままだと、建国式典の前に、城内で修羅場が起きるぞ」
「すまん。俺も、どうしていいか……」
「今すぐどうこうしろとは言わん。ただ、お前が誰を選ぶにせよ、お前の優しさが、逆に三人を傷つける時が来る。それだけは、忘れるな」
「ああ」
ユアンは、窓の外を見た。空は、もう茜色に染まっている。三人の手の感触が、まだ腕に、肩に、背中に、やわく残っていた。
(俺は、この温もりをどうしたらいいんだろうな)
答えは、まだ出ない。出す勇気も、ない。




