第60話 猫耳の相棒
翌日、ユアンが医療区画の視察を終えて自室に戻ると、窓が少しだけ開いていた。
「……フィア、そこにいるのか」
「にゃっ、なんでわかったにゃ!」
窓の外の木の上から、フィアがひょいと顔を出した。彼女は猫のように軽やかに窓枠へ飛び移り、ぴょんと部屋の中へ着地する。尻尾がふさふさと揺れ、耳がぴんと立っていた。
「お前の魔力の気配は、もう体が覚えてる。それで、何の用だ。またつまみ食いの見張りを頼みたいのか」
「ちがうにゃ! 今日は、あたしとデートするにゃ!」
「……デート?」
ユアンは、思わず聞き返した。
「そうだにゃ。最近ユアンは、エルナとばっかり二人で仕事してる。ルーチェとも、視察に行った。ずるいにゃ。あたしだけ置いてけぼりだにゃ」
「べつに、お前を置いてけぼりにしてるわけじゃないだろ。保安責任者として、見回りだってあるし」
「それは仕事だにゃ。そうじゃなくて、今日は、あたしと二人で、城下の市場に行くにゃ。いつもはみんなで行くけど、たまには二人がいいにゃ」
フィアは、ユアンの腕にぎゅっと抱きつき、上目遣いに見上げた。その大きな瞳は、期待と不安が混ざった色をしている。
「だめにゃ?」
「……わかったよ。少しだけなら、付き合う」
「やったにゃ! さすがユアン! あたしの相棒にゃ!」
フィアは、飛び跳ねてユアンの首に抱きついた。
城下の市場は、建国準備の活気で、以前よりずっと賑わっていた。
店先には、魔族と人間の商人が並び、魔界の果物と人間の香辛料が、同じ棚に並んでいる。行き交う人々の顔も明るい。時折、ユアンに気づいた者が手を振り、頭を下げた。ユアンはそのたびに、にこやかに会釈を返した。
「すごい人気だにゃ。ユアンは、もはや有名人だにゃ。あたしが自慢したいくらいだにゃ」
「それはお互い様だろ。フィアだって、保安責任者として、随分と顔が知られてるじゃないか」
「あたしはユアンの付属品みたいなもんだにゃ。でも、それでもいいにゃ。ユアンの隣にいられるなら、それで幸せだにゃ」
フィアは、ユアンの腕に抱きついたまま、露店をひやかして歩いた。焼き魚の串、甘い果物の飴、色とりどりの飾り紐。どれもこれも、フィアにとっては宝物のように見えるらしい。
「ユアン、あれ買ってにゃ! あの魚の串、すごくいい匂いだにゃ!」
「お前、昼飯を食べたばかりだろ……」
「デザートは別腹だにゃ。それに、こういう時は、ユアンが買ってくれるのが嬉しいにゃ」
「……はいはい」
ユアンが代金を払うと、フィアは満面の笑みで串を受け取り、かぶりついた。
「にゃー! 美味しい! ユアンも一口どうぞにゃ」
「いいのか」
「いいにゃ。あーん」
フィアは、食べかけの串をユアンの口元に差し出した。ユアンは少し迷ったが、彼女の無邪気な笑顔に負けて、一口かじる。
「美味いな。このタレ、魔界の香辛料と人間の醤油を混ぜてるのか」
「そうだにゃ。ここの店主、人間と魔族のハーフだにゃ。味の掛け合わせが上手いって、あたしも前に来た時に聞いたにゃ」
「お前、こういう店、よく知ってるな」
「そりゃ、あたしはスパイだにゃ。街の情報は、誰よりも詳しいにゃ。……それに、ユアンと来たい店も、いっぱいあるんだにゃ」
フィアは、少しだけ照れたように笑った。
「あたしね、ユアンが城に来た日から、ずっと考えてたにゃ。この人と、いつか街を歩きたいなって。ユアンが作るごはんを、城の外でも、隣で食べられたらいいのになって」
「フィア……」
「エルナは、昔のユアンを知ってるって自慢するにゃ。ルーチェは、弟子としてユアンに一番近いって顔をするにゃ。でも、あたしだって、負けないにゃ。――ユアンを、魔の森で見つけたのは、ベリル様だにゃ。でも、あの雨の中、ずぶ濡れで倒れてたユアンを、温かい部屋に運んで、服を乾かして、毛布をかけたのは、あたしだにゃ」
「……そうだったのか」
「そうだにゃ。あたしは、ユアンがこの城に来た、最初の夜を知ってる。ユアンが寝返りを打って、うなされて、『ごめんなさい』って言ってたのも、あたしは知ってるにゃ。……誰にも言わなかったけど」
ユアンは、胸の奥が熱くなった。あの夜、自分は確かに、追放された絶望にうなされていた。気がつけば、温かい部屋にいた。あれは、フィアが世話をしてくれていたのか。
「ユアン。あたしは、あの日から、ユアンが大事だにゃ。一番近くで、一番に、ユアンを守りたい。――だから、お願いだにゃ。あたしのこと、置いて行かないでほしいにゃ」
フィアの尻尾が、ゆらりと揺れて、ユアンの手に触れた。ユアンは、彼女の頭に手を置いて、そっと撫でた。フィアは、気持ちよさそうに目を細める。
「置いて行かないよ。お前は、俺の相棒だろ」
「……にゃ! 今、相棒って言ったにゃ!」
「言った。お前が、俺の相棒で、俺は、お前の相棒だ。――エルナにもルーチェにも、この言い方はしない。フィア、お前だけだ」
「ユアン! あたし、嬉しいにゃ! もう、絶対に離れないにゃ! 今夜は、ユアンの部屋の前で寝るにゃ!」
「それはやめろ。風邪を引くぞ」
「じゃあ、ユアンの部屋の真下の木の上で寝るにゃ!」
「もっと危ないだろ。――ほら、もう少し歩こう。たまには、お前の好きな店、全部教えてくれ」
「にゃ! もちろんにゃ! あっちに、すごく甘いミルクを出す店があるにゃ! ユアンも絶対好きになるにゃ!」
フィアは、ユアンの手をぎゅっと握り、人混みの中をぐいぐいと引っ張っていった。
その背中は、小さくて、華奢で、でも、誰よりもまっすぐだった。




