第59話 氷の魔導師の攻勢
大宴会の翌朝、魔王城は静かな二日酔いの朝を迎えていた。とはいえ、ユアンは夜明けとともに起き出し、いつものように厨房へ向かう。城の誰もが寝静まっている時間、ゼクスと二人きりの静かな厨房。その習慣は、特別顧問になってからも変わらなかった。
「おはよう、ユアン」
ところが、その朝は違った。厨房の入り口に立っていたのは、ゼクスでもテオバルトでもなく、エルナだった。
「エルナ? どうしたんだ、こんな時間に」
「目が覚めちゃって。……昨日は、はしゃぎすぎたわ」
エルナは少し照れたように笑い、髪を耳にかけた。普段は後ろでまとめている青みがかった黒髪が、今日は下ろされている。肩にかかる髪が、朝日に透けて柔らかく光っていた。
「それで、よかったら手伝わせて。私も、あなたの味噌汁の作り方、覚えたいし」
「別に構わないが、お前、包丁は使えたか?」
「失礼ね。氷魔法の精密制御ができる女を、料理と一緒にしないでほしいわ。火加減だって、魔力でどうにかできるんだから」
「そうか。じゃあ、まずは出汁を取るところからだ。――ここの昆布は、魔界のものだから、人間のとは少し違う」
ユアンが手早く鍋に水を張り、昆布を入れる。エルナはその手元を、子供のように真剣な目で覗き込んでいた。
「……ねえ、ユアン」
「なんだ」
「私、昔から思ってたのだけど。あなたが厨房に立つ時の顔、好きよ」
ユアンは、手に持った杓子を取り落としそうになった。
「な、なんだよいきなり」
「別に、深い意味はないわ。ただ、あなたが楽しそうに料理をしてるのを見ると、こっちまで嬉しくなるの。パーティーにいた時から、ずっとそうだった」
エルナの声は、朝の静けさの中ではっきりとユアンの耳に届いた。だが、彼女の目はまっすぐにユアンを見ていて、そこに冗談の色はない。
「……ありがとう。でも、そんなに珍しい顔かな。俺はいつも通りだと思うけど」
「そうね。でも、追放される前のあなたは、いつも少しだけ、無理をしてた。笑ってるのに、目の奥が寂しそうだった。……今のあなたは、違う。だから、嬉しいの」
エルナはそう言うと、ユアンの隣に並んで、昆布の入った鍋を覗き込んだ。肩が、ほんの少し触れる。
「あ、あの、エルナ。近い」
「近くないと、作り方を見られないでしょ」
「いや、でも、この距離でなくても」
「私が、この距離がいいの」
ユアンは、心臓が跳ねるのを感じた。こんなことを言うエルナは、パーティーにいた頃の彼女とは明らかに違う。いや、追放の夜、かばおうとしてくれた時から、彼女の中では何かが変わっていた。それが今、ストレートな行動として現れている。
「……そろそろ、鰹節を入れるぞ」
「ええ。――ねえ、ユアン。私、思うのだけど」
エルナは、ユアンの手元を見つめながら、静かに言った。
「この城で、一番あなたのことを知っているのは、私だって。昔のあなたも、今のあなたも、一番近くで見てきたのは私。……ルーチェにも、フィアにも、負けたくないの」
「何の勝負だよ」
「さあ。でも、負けたくないの」
エルナは、いたずらっぽく笑って、ユアンの腕にそっと指を絡めた。それは、友人同士のじゃれ合いには少しだけ強くて、恋人同士のそれにはまだ足りない、絶妙な触れ方だった。
「エルナ、あのな……」
「なあに」
「今日のお前、なんか変だ。熱でもあるんじゃないか?」
「失礼ね。私はいたって本気よ。……ふふ、でも、そういう鈍いところも、知ってる」
エルナは、ふっと笑みを深くした。ユアンは、彼女の笑顔が朝日に透けて見えて、まるで氷の花が咲いたみたいだと思った。
(こいつ、昔はこんなに笑う奴だったか)
パーティーにいた頃、エルナはいつもリオンの顔色をうかがい、自分の意見を押し殺していた。笑っても、どこか遠慮がちだった。だが、今は違う。自分の意志で笑い、自分の言葉で、まっすぐにユアンへ気持ちを向けてくる。
「あのな、エルナ。俺はお前のことを大切に思ってる。でも、そういう、だな」
「わかってる。焦らせるつもりはないの。……でも、私があなたを一番に想ってるってことだけ、今日は覚えておいて。それだけで、いいの」
エルナは、するりとユアンの腕から指を離した。そして、何事もなかったかのように、まな板の上の豆腐を指さす。
「それで、味噌汁の具は豆腐? 賽の目に切ればいい?」
「あ、ああ。……いや、今日は豆腐じゃなくて、油揚げとネギだ。味噌は、合わせ味噌を使う」
「了解。じゃあ、油揚げを刻むわ。細切りでいい?」
「お、おう。任せる」
エルナは、手慣れた様子で油揚げを刻み始めた。本当に、料理の手つきが悪くない。むしろ、器用なくらいだ。ユアンは、彼女の横顔を盗み見る。エルナは、口元に小さな笑みを浮かべたまま、淡々と作業を続けている。
(……俺、今、すごく動揺してる)
自覚すると、余計に心臓がうるさくなった。エルナの言う「負けたくない」が、どういう意味なのか、まったくわからないほど鈍くはない。だが、わかったところで、どう返せばいいのかわからない。ユアンに恋愛経験はほとんどない。パーティーにいた頃も、回復と雑用と料理だけで精一杯だった。女の子と向き合う余裕など、なかった。
「ユアン、味噌はいつ入れるの。出汁はもういい感じだと思うけど」
「あ、ああ。……そろそろだ。味噌は火を止めてから入れる」
「ふふ、先生みたい」
「お前の魔法理論と一緒だろ。加熱で風味が飛ぶから、最後に入れるんだ」
「そうね。……やっぱり、あなたの知識は、私の魔法理論と相性がいいのよ。ねえ、ユアン。今度、氷魔法と回復魔法の融合について、二人で研究しない?」
「また急に真面目な話だな」
「だって、私の得意分野だもの。それに、二人きりの研究なら、きっと有意義だわ」
「……まあ、いいけど。研究なら、ルーチェも混ぜたほうが」
「だめ。今回は二人がいいの」
エルナは、ゆっくりとユアンを見上げた。その青い瞳は、朝の光を受けて、凪いだ湖のように静かで、深い。
「……たまには、私のわがままに付き合って。あなたが私にしてくれたことの、ほんの少しでも、私からあなたに何かをしたいの」
ユアンは、言葉を失った。その時、厨房の外から、のしのしと大きな足音が聞こえてきた。バルザックが起きてきたのだ。
「おいおい、朝っぱらから若いもんが何してる。――お、エルナじゃねえか。どうした、手伝いか?」
「はい。今日から、朝の賄いも手伝います。バルザック料理長、よろしくお願いします」
「ほう。俺の厨房で、氷の魔導師が料理を覚えるってのか。面白い。いいぜ、仕込んでやるよ。その代わり、冷蔵庫の氷、毎日交換してくれ」
「ええ、お安い御用よ」
エルナは、にっこり笑ってバルザックと握手を交わした。ユアンは、その様子を見ながら、何か自分がはめられたような、そんな気分になっていた。
その朝の味噌汁は、いつもより少しだけ、やさしい味がした。




