第58話 帰還と感謝
聖教会本山での交渉が終わり、ユアンたちが魔王城へ戻ったのは、それから二日後の夕暮れだった。
聖遺物は、ユアンの《領域修復》によって完全に浄化され、今は聖堂の地下ではなく、魔王城の医療区画に設けられた祈りの間で静かに眠っている。聖遺物を失った聖教会は、もはやかつての権威を保てない。だが、その代わりに、アルベリクたち穏健派は、ユアンの癒やしを軸とした新たな道を模索し始めていた。
「――ただいま戻りました」
玉座の間に到着したユアンたちを、リリスとゼクス、バルザック、ドルガ、ゲンマが出迎えた。リリスは玉座から立ち上がり、五人を一人ひとり見つめる。
「よく戻った。本山での話は、ゲンマの間者から聞いている。聖遺物は無事、浄化されたそうだな」
「はい。あちらとの交渉も、当面は穏便に進みそうです。聖教会は、もはや武力に頼らず、新しい癒やしの教義を模索するとのことでした」
「……にわかには信じがたいが、それも、お前とルーチェの光が本物だったからだろう」
リリスの紅玉の瞳が、ほんの少しだけ、優しく細められた。
「お前たちの働きで、魔王城はこれまでにない力を得た。聖遺物の問題も解決し、ガレア、ガンドリア、そして聖教会本山までもが、もはや我々に敵対する力を失った。建国の宣言をすれば、もはや誰も止められまい」
「それもこれも、みんなが力を合わせた結果です」
ユアンは、隣に立つエルナ、ルーチェ、フィアを振り返った。
「俺一人では、何もできませんでした。エルナの氷魔法も、ルーチェの聖光も、フィアの隠密も、ベリルの指揮も、どれか一つ欠けても、成功はありませんでした。……それに、リリス様が、俺に帰る場所を与えてくれたからです」
「……また、そうやって自分を謙遜する。お前という奴は、本当に」
リリスは苦笑したが、その声はいつもよりずっと柔らかかった。
「私も、この城に来てから、ずっと思っていました。ユアン様が来る前の魔王城は、強くても、どこかで諦めに満ちていました。でも、今は違う。誰もが、明日を信じて働いています」
ルーチェが、静かに言った。
「それって、きっと、ユアンがごはんを作ってくれて、傷を癒やしてくれて、何より、誰にも分け隔てなく優しかったからですにゃ!」
フィアが、元気よく続けた。
「あたし、ユアンがここに来てくれて、本当によかったにゃ。だって、毎日あったかいごはんが食べられるし、みんな笑ってる。昔の魔王城は、もっと怖くて、冷たい場所だったにゃ」
「昔の、魔王城……」
ユアンは、遠い目をして、玉座の間の天井を見上げた。あの雨の夜、この城に連れてこられた時のこと。リリスの冷たい声。ベリルの警戒した眼差し。それでも、ユアンを少しずつ受け入れてくれた。古傷を癒やし、料理を作り、仲間と笑い合う日々。あの日々があったから、今の自分がある。
「ユアン」
リリスが、玉座から降りてきて、ユアンの正面に立った。
「我は、お前に感謝している。お前が来てから、城は強くなった。魔族も人間も、共に生きる力を持てた。それは、我が三百年前から望みながらも、諦めていた光景だ。――ありがとう、ユアン」
「リリス様……」
「だから、これは我からの、ほんの気持ちだ」
リリスが手を上げると、天井から、無数の花びらが舞い降りてきた。白い花びら。ユアンが何か言うより前に、集まった全員が、拍手を始めた。兵士も、文官も、給仕も、誰もが笑っている。ゼクスが、兜の奥でうなずいた気がした。バルザックが、豪快に笑いながら「よし、今日は宴会だ!」と叫ぶ。
「宴会。……この流れで、宴会なんですね」
「当たり前だ。我が城の功労者を、ねぎらわずにどうする。バルザック、今夜は我が城のすべての者に、飲めや歌えの大宴会を命じる」
「へい、待ってました! 腕によりをかけて作ってやりますよ。ユアン、お前も手伝え」
「……はい。とびきり作ります」
ユアンは、笑いながらうなずいた。エルナがそっと近づいて、小声で言う。
「ねえ、ユアン。リリス様から花びらを降らされるなんて、特別顧問の特権かしら」
「わからない。でも、リリス様が、あんなに嬉しそうな顔をするの、初めて見た気がする」
「そうね。本当に、城の空気が変わった。あなたが、変えたのよ」
エルナの言葉に、ユアンは照れくさそうに頭をかいた。
「……まだ、何も終わってない。建国も、医療区画の拡張も、聖教会の再建支援も、やることは山積みだ。でも、今日だけは、みんなで笑っていたい」
「ええ。そうね、今日だけは」
ルーチェが、にっこり笑って二人の輪に入ってきた。
「先生。私、今日は食べきれないくらいごちそうを作るのを、手伝います。先生のオムライス、久しぶりに食べたいです」
「俺も、ルーチェの卵割り、見たいな。上達したんだろ?」
「ふふ、先生のおかげで、もう殻を混ぜることはありません!」
「それは大げさじゃ……いや、昔は殻入りの炒り卵、食べさせられたけどな」
「もう、その話はしないでください!」
四人の笑い声が、玉座の間に溶けていく。フィアはすでに厨房へ走り出し、バルザックが「おい、猫娘、つまみ食いは調理が終わってからだぞ!」と怒鳴っている。外では、夕焼けが魔王城を金色に染め、街のあちこちから、宴会の支度の音が聞こえてきていた。
ユアンは、もう一度玉座を見た。リリスが、穏やかな笑みをたたえて、彼を見つめている。その瞳には、もはや「世界の敵」と呼ばれた頃の影はない。魔王城は、本当に変わった。ユアンが来てから、確かに変わったのだった。
「――行こう、みんな。とびきりの夜にしよう」
「「「おー!」」」
こうして、ユアンと仲間たちの、新しい日常が始まる。世界を癒やした男は、今日もみんなと笑い、傷を癒やし、ごちそうを作る。それは、ずっと続く、優しい物語だった。




