第57話 奇跡ではない癒やし
その日の夕刻、本山の大聖堂には、かつてないほどの人だかりができていた。
聖遺物の間へ入る資格を得るためには、ユアンの力が本物であることを教会の者たちに示さねばならない。アルベリクの提案により、癒やしを求める者たちが聖堂へ集められたのだった。
「ずいぶんと大勢だな」
ユアンは祭壇の前に立ち、長椅子を埋め尽くす人々を見渡した。聖職者、騎士、巡礼者、そして聖魔法の衰えに不安を抱く一般の信者たち。老若男女、誰もがユアンの一挙手一投足をじっと見つめている。
「聖魔法が弱まり、教会の治療院で治せなくなった者が後を絶たないのだ。皆、藁にもすがる思いで来ている」
アルベリクが申し訳なさそうに言った。
「だが、あの人数を一人で癒やすなど、どれほどの聖女でも不可能だ。あなたの力、見せていただこう」
「わかりました」
ユアンは静かにうなずき、祭壇の中央へ歩み出た。エルナとルーチェは左右に控え、ベリルとフィアは人混みに紛れて周囲を警戒している。テオバルトは聖堂の隅で、すべてを見届けるように立っていた。
「――始める前に、一つだけ言っておきます」
ユアンの声が、静かな聖堂に響いた。
「俺の力は、神の奇跡ではありません。祈りによって発動する聖魔法とも、仕組みが違います。俺がやるのは、傷ついたものを、本来あるべき姿に戻すこと。それだけです。だから、奇跡を期待している人は、がっかりするかもしれません」
聖堂が、しんと静まり返る。
「それでもいい。あなたの癒やしを見せてほしい」
最前列に座る老女が、震える声で言った。彼女は、自分の膝に手を当てている。何年も前から歩くことすらままならない、古い傷があるのだろう。
「では、まずはあなたから。――《全快癒光》」
ユアンが老女の肩にそっと手を置くと、純白の光が彼女の全身を包んだ。老女が小さく息を呑み、自分の膝を何度もまさぐる。
「……痛みが、消えました。本当に、消えました!」
老女は、恐る恐る立ち上がった。周囲からどよめきが上がる。彼女は、何年ぶりかもわからない自分の足で、一歩、また一歩と歩き出した。
「立ってる……! まっすぐに、立ってるわ!」
「おお……!」
聖堂中が、どよめきと歓声に包まれた。ユアンは、その輪の中心に立って、続ける。
「次に、足の不自由な方、聖魔法が効かなくなったという方、心当たりのある方は、どうか遠慮しないでください。俺が治します」
ユアンの言葉に、人々が次々と手を上げた。中には、教会の聖騎士や聖女見習いの姿もある。ユアンは一人ひとりの前に行き、手をかざし、回復魔法をかけていく。一人で何人も治せるのかと、半信半疑の眼差しだった者たちも、その速さと確実さに、やがて口を閉ざした。
「――《領域修復》」
ユアンが聖堂全体に光を広げると、集まったすべての人の傷が、同時に癒やされていく。それは、まさに圧倒的な光景だった。車椅子の老人が立ち上がり、包帯を巻いた子供が笑い、失明寸前だった男が視力を取り戻す。誰もが、自分の身体に満ちる温かな感覚に、涙を流していた。
「全員、終わりました。――いえ、まだですね」
ユアンは、祭壇の聖遺物の複製品に手をかざした。複製品に刻まれた聖印が、ユアンの光に呼応して、かすかに輝きを増す。
「この聖堂の空気そのものが、長年の悲しみで淀んでいます。――《状態異常解除・広域》」
ユアンの銀色の光が、聖堂の壁、天井、床、そして空気そのものを包み込んだ。長い年月、祈りの名の下に溜め込まれた苦しみや諦めが、ゆっくりとほどけていく。人々は、聖堂の中が、目に見えて明るくなったように感じた。
「……なんと、美しい」
ルーチェが、うっとりと呟いた。彼女には、聖堂に満ちていた聖属性の歪みが、ユアンの光によって正しく整えられていくのが見えていた。
「先生の癒やしは、聖魔法と違って、何かに祈る必要がない。ただ、あるべき姿に戻すだけ。それが、こんなにも優しい光だなんて……」
ルーチェの目に、涙が浮かぶ。彼女は、ユアンの隣に歩み寄り、自分もまた、聖女としての光を放った。
「――《慈愛の聖光》」
二つの光が、聖堂で溶け合う。ユアンの銀の光が、ルーチェの金の光を包み込み、より深く、より広く、人々の心の傷までも癒やしていく。泣き崩れる者、祈りを捧げる者、ただ呆然と立ち尽くす者。反応は様々だったが、その場にいた誰もが、今この瞬間、確かに救われていた。
「――これが、私たちの癒やしです」
ユアンが言った。
「神の奇跡ではありません。祈りの対価でもありません。ただ、傷ついた人を、傷つく前の姿に戻す。それだけの力です。でも、その力で、あなたたち自身が、明日を生きる力を持ってくれるなら。……それで、俺は十分です」
聖堂が、万雷の拍手に包まれた。涙を流しながら、叫ぶ者、ひざまずく者。アルベリクをはじめとする聖職者たちも、もはや言葉を失い、ただ拍手を送っていた。
「……お前は、やはり本物だ。こんな癒やしを、私は今まで見たことがない。聖女の再来ですら、足元にも及ばぬ。いや、これはもう、聖女などではない。――世界を癒やす者。星の予言に、その名が記された者だ」
テオバルトが、静かにユアンの肩を叩いた。
「ユアンよ。お前の力は、もはや一つの教えのようなものだ。聖教会は、お前の存在を認めざるを得まい」
「俺は、ただの回復術師ですよ」
「それが、どれほどの奇跡か。お前が思うより、ずっと大きい」
テオバルトは、聖堂の奥、聖遺物の間へと続く扉を見つめた。
「さて、あとは、聖遺物を正しく眠らせるだけだ。――行こう、ユアン。いや、ユアン殿。新しい時代の、癒やし手よ」
ユアンは、力強くうなずいた。聖堂は、まだ人々の熱気と涙に包まれている。エルナとベリルが近くに駆け寄り、フィアが「すごかったにゃー!」と小声で叫んだ。
「でも、これでようやく、本命に取りかかれるにゃ」
「ああ。最後の聖遺物、それを癒やせば、本当の意味で俺の戦いは終わる。……いや」
ユアンは、人々の笑顔を見渡しながら、静かに言った。
「ここからが、新しい始まりなのかもしれないな」
大聖堂の鐘が、祝福の音を響かせていた。




