第56話 聖教会本山
聖教会の総本山は、ガンドリア王国からさらに北へ、大陸のへそと呼ばれる高地にあった。
「これが、聖教会の総本山……」
エルナが、岩山を背に建つ巨大な聖堂を見上げて呟いた。白い石造りの壁は朝日に照らされ、遠目には神々しく輝いている。尖塔は天を突くように高く、すべての道がここに集まるように設計されている。
「何度来ても、好きになれない景色だな。あの白さが、かえって薄気味悪い」
ベリルは、外套を風に翻しながら言った。
「あたしも苦手だにゃ。なんか、ぴりぴりする。結界がすごく強い」
「俺とルーチェが前面に出る。エルナとベリルは、左右で周囲を警戒。フィアは、俺たちが見えない所で待機。よろしくな」
「……了解。無茶はするな」
「大丈夫だ、ベリル。俺はヒーラーだから、最悪、自分も治せる」
「そういう無茶を言ってるんじゃない」
エルナが少し呆れながら言った。ユアンは小さく笑い、聖堂へと続く長い石段を登り始めた。真ん中をルーチェが歩く。今日の彼女は、修道服ではなく、医療顧問の正装である白いローブ姿だ。風が、彼女の栗色の髪を優しく撫でていく。
「先生、私……」
「大丈夫だ。お前には、俺がついている。それに、テオバルトも来てくれてる」
「はい。……テオバルト様、ありがとうございます。本山は、私にとっては育ての親のような場所でした。だから、余計に、今は足が震えます」
「それでいい。震えるのは、失いたくないからだ。お前のその気持ちが、きっと今日、本山を救う」
テオバルトは、聖剣を杖のようにして、老いた身体をしっかりと前へ進めた。かつて聖剣の勇者と呼ばれた男の姿は、年齢を重ねてもなお、人を惹きつける。石段の上、聖堂の入口には、すでに教会側の出迎えが待っていた。
「――聖剣のテオバルト様。そして、魔王城の特別顧問ユアン殿、聖属性医療顧問ルーチェ殿。お待ちしておりました」
長身の老聖職者が、深々と頭を下げた。白髪を後ろに流し、聖印を首に掛けている。ガンドリアの地下聖堂で戦った者たちとは違い、穏やかな印象の男だった。
「私は、教会の暫定代表を務めております、アルベリクと申します。本日は、かような形でのお迎えとなりました。どうか、我々の話を聞いていただきたい」
「俺たちも、今日は話し合いに来ました。剣を交える気はない。――あなたがたの本心を、聞かせてほしい」
ユアンは、まっすぐにアルベリクを見つめた。アルベリクは、ほんの少しだけ口元を緩め、聖堂の中へと五人を招き入れた。聖堂の中は、祈りの場とは思えないほど静かだった。信者の姿はなく、祭壇には聖遺物の複製品が置かれている。壁には、歴代の聖女と勇者の物語が描かれた画が並んでいた。
(ここが、聖教会の本山。かつて、ルーチェが聖女の再来と呼ばれ、祈り続けた場所)
ユアンは、ルーチェの手が小さく震えているのを感じた。
「大丈夫か」
「……はい。この場所は、私のすべてが始まった場所です。祈りの意味も、癒やしの意味も、ここで教わりました。だから、今が一番、自分と向き合わなければならない時だと思います」
「立派だな」
「先生のおかげです」
ルーチェは、前を向いて歩いた。地下へと続く聖堂の回廊を通り、広大な石造りのホールへ出る。ホールの中央には、簡素な長机が置かれ、数人の聖職者たちが待っていた。アルベリクが、上座に腰を下ろす。ユアンたちは、その向かいに並んで座った。
「まずは、聖遺物の解放を止めてくれたことに、礼を言いたい」
アルベリクの言葉に、ユアンたちは拍子抜けした。
「……お礼、ですか」
「はい。我々もまた、教会の過ちに気づいていた者です。聖遺物の解放は、世界の傷を再び開く、恐るべき禁忌。それを、教会中枢の強硬派が勝手に進めていた。我々は、止められなかった。申し訳ない」
「アルベリク様……!」
ルーチェが、はっと息を呑んだ。
「あなたは……もしかして、修道院で私に読み書きを教えてくれた、あの……!」
「おや。覚えていてくれたのか。ああ、そうだ。私はお前の最初の教師の一人だ。お前を教会に差し出したのは、私だ。あの日からずっと、お前には済まないことをしたと思っている」
アルベリクの瞳が、揺れた。
「ルーチェ。お前は、強くなった。聖女の再来という呪いから逃げず、自分の力で世界を救った。……私は、それを見て、ようやく教会が犯した罪の重さを知った」
「アルベリク様……」
「とはいえ、教会はまだ、過ちを認めるには痛みが足りぬ。残った聖遺物をどうするか、我々の中でも意見が割れている。だから、こうして話し合いの場を設けた。ユアン殿。あなたに、聞きたいことがある」
アルベリクの顔が、にわかに鋭くなった。
「聖魔法が、失われようとしている。教会は、これまで聖遺物の力で奇跡を保ってきた。世界の傷が癒やされた時、聖遺物の力は暴走し、人々を傷つける危険なものへと変わった。我々は、最後の聖遺物をどうすればいい。壊すのか、封じるのか、それとも、また頼るのか」
「……答えは、どれでもないと思っています」
ユアンの声は、静かで、穏やかだった。
「聖遺物は、あなたたちの神が遺したものではなく、世界の傷に寄り添ってきた人々の祈りの結晶だ。祈りは、消えはしない。俺が癒やした世界の傷と同じように、人の願いも、形を変えても残り続ける。――だから、聖遺物は俺に預けてほしい。俺が、癒やします。これは、破壊でも封印でもありません。聖遺物自身が、その在り方を自分で選べるように、祈りを正しく響かせるだけです」
「聖遺物を、正しく響かせる……?」
「はい。聖遺物は、このままでは、祈りを吸いすぎて苦しんでいます。俺の《完全回復》で、その祈りを、あるべき姿に戻します。すると、聖遺物はもう、誰かを傷つける力にはならない。癒やしの力を、穏やかな形で周囲に還す存在になるはずです。――そうした先に、新しい教会があるのかもしれない。俺には、わかりません。でも、少なくとも、聖遺物が泣き止むことだけは、約束できます」
その言葉に、聖職者たちが、ざわめいた。ルーチェが、すっと手を挙げる。
「先生の言う通りです。聖遺物は、もう苦しみたくないと泣いています。私の聖属性感知が、はっきりとそれを感じています。――アルベリク様、私からもお願いします。教会が新しく生まれ変わるために、最後の聖遺物を、先生と共に癒やさせてください」
アルベリクは、しばらく目を閉じていた。やがて、深くうなずいた。
「……よかろう。最後の聖遺物を、そなたたちに託す。――ただし、条件がある」
「条件、とは」
「本山の結界を解くには、教会の古い法により、聖遺物の間へ入る者全員が、聖なる祝福を受けねばならぬ。ユアン殿。あなたの癒やしの力が、聖遺物の涙を止めるに値するか。今夜、本山にて、あなたの力を見せてほしい。我々の目の前で、弱まった聖魔法に苦しむ者の傷を癒やしてほしい」
「……いいでしょう。ただし、私の癒やしは、奇跡ではありません。回復術式です。あなたたちの奇跡と違って、見た目には地味かもしれませんよ」
「かまいません。むしろ、神の奇跡に頼らぬ癒やしを、我々は見たい」
アルベリクは、静かに微笑んだ。
その笑みの奥に、ユアンは、期待と不安と、それからほんの少しの試すような色を感じ取っていた。




