第45話 三人の距離
建国の準備が本格化する中、ユアンの仕事は日を追うごとに増えていた。医療区画の備品整理、各国から届く書簡の確認、新設する治療院の人員配置、そして新国家の医療制度の素案づくり。机に向かう時間ばかりが長くなっていく。
そんなユアンを支えるために、エルナ、ルーチェ、フィアの三人は、交代で補佐に入ることが多くなっていた。しかし今日は珍しく、朝から三人全員が医療区画の執務室に揃っていた。
「ユアン、そっちの書類は目を通しておいたわ。特に必要そうな物資のリストは、こっちにまとめてあるから」
エルナが、氷魔法で冷やした冷たい果実水を差し出しながら言った。涼しげなガラスの杯には、うっすらと霜がついている。
「助かる。疲れた頭に染みる」
「ふふ、よかった。今日は一段と暑いから、あなたが倒れないようにね」
そう言って、彼女はユアンの隣にすっと腰を下ろした。近い。ほんの少し肩が触れそうなくらい近い。だが、エルナは書類に視線を落としたままだ。さりげなさを装った、それでいて少しだけいつもより距離の近い座り方だった。
「先生、あの、もしお疲れでしたら、私でよければ肩をほぐしますよ。聖属性の癒しは、筋肉のこりを和らげるのにも使えるんです」
ルーチェは、おずおずと手を差し出して言った。彼女の耳はわずかに赤い。
「そうなのか? じゃあ、お願いしようかな」
「はい! 任せてください!」
ルーチェは嬉しそうに笑い、ユアンの背後に回ると、両手をそっと彼の肩に置いた。聖属性の光がかすかに宿り、凝り固まった肩の筋肉がほぐれていく。気持ちがいい。彼女の細い指が、遠慮がちに、けれど確かめるように首筋から肩甲骨へと動いていく。
「……どうですか?」
「すごくいい。ルーチェは手先が器用なんだな」
「こ、こういうのは、修道院で年配の神官様にやっていたので。慣れています」
「そうか。助かるよ」
「ユアン! あたしもあたしも!」
フィアが猫耳をピンと立てて、ユアンの正面から両手を広げた。
「あたしも何かしたいにゃ! 肩もみもできるにゃ! それか、書類の仕分けも、もう終わらせたにゃ!」
「フィア、お前、さっきまで寝てただろ」
「にゃっ! ち、違うにゃ! あれは目を閉じて書類を覚えてただけにゃ!」
「覚えるなら紙を見ろ」
ユアンの呆れ声に、エルナとルーチェが吹き出す。フィアはむくれながらも、ユアンの膝の上に頭をのせて甘え始めた。
「むー、ユアン、エルナとルーチェばっかりずるいにゃ。あたしだって、もっとユアンと一緒にいたいにゃ。建国の準備だって、ちゃんとやってるのに」
「わかってるよ。フィア、お前は医療区画の保安計画をまとめてくれたんだろ。ちゃんと読んだ。かなりよくできてたぞ」
「……ほんとにゃ? へへ、あたりまえだにゃ。あたしはユアンの役に立つためにいるんだから」
フィアの笑顔は、太陽のように無邪気で、ユアンの心をくすぐる。彼女の小さな頭を軽く撫でてやると、フィアは目を細めて喉を鳴らすようにゴロゴロと音を立てた。
(しかし……今日は三人とも、距離が近い気がする)
ユアンはぼんやりと、そう感じていた。エルナは常に隣に座り、ルーチェは何かと世話を焼きたがり、フィアは隙あらばくっついてくる。それぞれはいつものことだが、今日は特に三人が入れ代わり立ち代わり、ユアンの周囲にいる時間が多い気がする。
「おい、お前たち、仕事は進んでるのか」
ユアンが苦笑しながら言うと、エルナがぽんと手を叩いた。
「もちろんよ。むしろ、あなたが遅いから、私が先回りして書類を整理してるの。感謝してよね」
「はいはい、感謝してます。エルナ様々だよ」
「先生! それから、医療区画で使う包帯や薬草の在庫も確認しました。古い薬草の一部は状態が良くないので、買い直しの手配が必要です」
「助かる。後で仕入れのリストを確認しよう」
「ユアン、お腹空いたにゃ。今日のお昼、何食べるにゃ?」
「またそれか。……今日は厨房に寄れないから、医療区画の食堂で食べよう。みんなで」
「ほんとにゃ! やったにゃ!」
「フィアさん、私、今日は食堂の日替わりが何か知ってますよ」
「えー、なに、教えてほしいにゃ!」
「ふふ、行ってからのお楽しみです」
フィアとルーチェがキャッキャと話し始める。ユアンは微笑ましく眺めつつ、エルナが差し出した追加の果実水を受け取って、もう一口飲んだ。氷が融け、冷たい水滴が杯の外側を伝っていく。
「ユアン、少し休んだら? ほら、こめかみのあたり、疲れてるわよ」
エルナが少し身を乗り出し、ユアンの顔をのぞき込む。彼女の青い瞳が、すぐ近くにある。
「だ、大丈夫だ。これでもヒーラーだから、自分のコンディションには気をつけてる」
「ほんとに? でも、さっきから書類を見る目が揺れてるわよ。……少しだけ、目を閉じなさい。回復魔法をかけてあげるから」
エルナの指先が、ユアンの額にそっと触れた。ひんやりとした氷の癒やしが、疲れた神経を解きほぐしていく。彼女の表情は真剣で、けれど優しかった。
「……ありがとう、エルナ。なんか、みんなに世話をかけてばかりだな」
「当たり前よ。……あなたは、一人で何でも背負いすぎ。もっと、私たちに頼っていいのよ」
「そうだにゃ! ユアンはあたしの肩もみも頼るにゃ!」
「私も、先生のお手伝いなら、いくらでもできます」
三人が一斉にユアンを見つめてくる。ユアンは三人の熱い視線に、思わずたじろいだ。
(こいつら、本当にいい仲間だ。俺をこんなに気遣ってくれて。……でも、何かこう、最近とみに距離が近くなってないか? いや、前からか? 前からこんなだったか?)
ユアンの心に、かすかな疑念が芽生えた。が、それを口に出す勇気はない。そもそも、何が「変」なのかが自分でもわからない。三人とも、いつもと変わらず仕事熱心で、明るくて、優しい。ただ、その優しさが、妙に熱を帯びているように感じる時がある。特に、エルナの手が触れる時、ルーチェの視線が合う時、フィアの抱きつきが激しい時。
(いや、きっと俺の気のせいだ。女同士、仲がいいのを見て、俺が妙に意識してるだけだ)
ユアンは頭を二、三回振り、気を取り直して書類に向き直った。すると、エルナがにっこりと笑って言った。
「それじゃあ、午後からは私も書類の続きを手伝うわ。ルーチェとフィアは、医療区画の見回りをお願いできる?」
「はい! 大丈夫です。エルナさんこそ、ユアン先生と二人きりで、告白なんてしないでくださいね」
「なっ……! するわけないでしょ!?」
「おお、ルーチェ、あたしにはその発言、保安責任者として見逃せないにゃ!」
「ちょ、フィアまで!」
ユアンは思わず吹き出してしまった。エルナは耳まで真っ赤にして「そういう冗談はやめなさい!」と二人を追いかけ回している。ルーチェとフィアはケラケラ笑いながら机の周りをくるくると逃げ回った。
(やっぱり、こいつらといると退屈しない。建国の仕事は大変だけど、こういう時間があるから頑張れる)
ユアンは笑いを噛みしめながら、午前中の残りの仕事にとりかかった。胸の奥に、もやもやとした甘い予感が残っている。まだ、それが何かはわからない。でも、もう少しだけ、この三人と過ごす時間を大切にしたいと思うのだった。
昼を過ぎて、ユアンは一足先に執務室を出た。医療区画の点検に向かうためだ。廊下を歩いていると、ちょうど書類を抱えたベリルが向こうからやってきた。
「おい、ユアン。どうした、えらく上機嫌だな」
「ああ、三人がよくやってくれてるからな。おかげで午前の仕事が一気に進んだよ。それに、最近よくしてくれるんだ。いろいろと世話を焼かれてさ」
「……ほお」
「なあ、ベリル。最近、エルナもルーチェもフィアも、なんだか妙に俺にやさしいんだ。仕事仲間として、頼りにしてくれてるのは嬉しいんだが。……いや、前から優しかったのは確かで、その、気のせいかもしれないが。とにかく、たまに三人の視線を感じると、気恥ずかしいというか、照れるというか」
ベリルは、じとりとした半眼でユアンをねめつけ、深いため息をついた。
「お前、世界を救っておきながら、その程度のことに気づかんのか」
「え? 何の話だ」
「……いや、こっちの話だ。お前はそれでいい。……いや、それでいいのか? はあ。まあ、余計な口を挟むまい。建国まで間もない。それぞれの気持ちは、それぞれで決着をつけるだろうよ」
「は? 何か問題が起きてるのか、ベリル」
「問題か。国を創る前に、城の中の火種に気づけ、特別顧問」
「もしかして、何か危険な陰謀でも」
「……やめだ。私は忙しい。失礼するぞ」
ベリルは背を向け、大股で去っていった。残されたユアンは、首をかしげるばかりである。
「陰謀か……まさか、建国を妨害する敵でも紛れ込んでるんだろうか。……いや、でもなあ。あの三人が嬉しそうにしていたから、悪いことではないんだろうが……」
ユアンは窓の外を見上げた。空は雲ひとつない青空で、今日も魔王城は活気に満ちている。
三人の優しさの意味。ベリルの含みのある忠告。
「……ま、いっか。ご飯を食べたら、また仕事だ」
こうして、ユアンの鈍感さは今日も健在だった。




