第42話 夕暮れの会話
魔王城の西棟、医療区画の拡張工事が始まってから、ユアンの日常は激変していた。
朝は夜明け前に起き、厨房で味噌汁を作る。そこへゼクスが現れ、テオバルトが現れ、最近ではいつの間にか元聖騎士団の若者まで「おはようございます、ユアン様」と頭を下げるようになった。バルザックに弟子入りした新米料理人たちも加わり、朝の厨房はちょっとした戦場である。
午前中は治療室で患者を診る。魔族も、人間も、獣人も、エルフも、ハーフも、わけ隔てなく。午後は医療区画の運営会議。各国から送られてくる書類に目を通し、新しい治療院の建設計画を練り、予算をどう配分するか頭を悩ませる。夜はエルナとルーチェと共に、聖属性と氷魔法を組み合わせた新しい医療術式の研究。フィアがこっそり差し入れを持ってきては、ベリルに「仕事をしろ」と叱られている。
休む暇などなかった。だが、不思議と疲れはない。いや、身体は正直に疲れているのだが、それ以上に、自分の仕事が世界を変えている実感が、ユアンを突き動かしていた。
(あの雨の夜、魔の森で倒れた時は、もう終わりだと思っていたのにな)
夕暮れの空を見上げながら、ユアンは一人、城の西回廊を歩いていた。医療区画の建設予定地を視察した帰りである。
「――ユアン」
声をかけられ、振り返る。エルナが廊下の柱にもたれて立っていた。医療区画の視察着のまま、手には書類の束を抱えている。
「エルナ。帰ったのか」
「ええ、今しがた。そっちは会議、長引いた?」
「ああ。ガレア王国の復興支援の件でな。やれ医師の派遣だ、薬草の輸入だ、もめるのなんの」
「……大変ね。でも、あの時あなたが方針を示してくれたから、だいぶ収束したんでしょ」
「さあな。俺は会議の途中で『あとは皆さんで仲良く話し合ってください』って抜け出してきた」
エルナが吹き出した。
「信じられない。特別顧問のやることじゃないわ」
「だって、ああいう政治的な駆け引きはベリルの領分だ。俺には向いてない」
「うん。でも、いないよりマシだってみんな思ってるはずよ。あなたは“世界を癒やした男”なんだから」
ユアンは苦笑いを浮かべた。どうにも、その「世界を癒やした男」という呼ばれ方には慣れない。
「……少し、歩かないか」
エルナが遠慮がちに言った。
「この先の中庭、見晴らしがいいの。夕焼けがきれいな場所」
「いいな。行こう」
二人は並んで歩いた。かつてのように、ユアンが前を歩くでもなく、エルナが後ろを歩くでもなく。同じ歩幅で、同じ景色を見ながら、ゆっくりと。
中庭の東屋に着くと、空は茜色に染まっていた。魔王城の黒い尖塔が、夕日を背景にシルエットのように浮かんでいる。風は穏やかで、医療区画の工事現場から聞こえる槌音も、今はどこか子守唄のように遠い。
「……きれいね」
エルナが欄干に手を置いて呟いた。
「ああ。ここから見る空は、昔から好きなんだ」
「ユアン、前にもここに来たことあったの」
「ああ。追放された翌日、ベリルに連れられて城内を案内してもらった時、ちょっとだけな。でも、あの時は空を見る余裕なんてなかった」
「……そう」
エルナの声が、かすかに沈んだ。彼女はうつむき、抱えた書類をぎゅっと胸に抱きしめている。
「ユアン」
「ん?」
「あのね。……今でも、夢に見ることがあるの」
ユアンは黙って耳を傾けた。
「あなたが追放された夜。雨の中で、フードも被らずに、一人で宿を出ていく後ろ姿。追いかけようと思ったのに、足が動かなくて。声を出そうと思ったのに、喉が張りついて。気がついたら、あなたは暗い街道に消えていた」
「エルナ」
「私、あの時、心のどこかで思ってたの。リオンが言うことにも一理あるって。攻撃魔法のない回復術師は、確かに戦闘では不利だって。だから、私はあなたを止められなかった。止めなかった。……いいえ、止めようとしなかった。自分の手を汚すのが怖かっただけ」
「……」
「あなたに許してもらっても、仲間に入れてもらっても、特別顧問の補佐にしてくれたって。私、まだあの夜の私を許せないでいるの」
エルナの肩が、かすかに震えている。彼女は泣くまいと唇を噛みしめ、空を見上げていた。
「ごめんなさい。今さら、こんな話……」
「いいや」
ユアンは、エルナの隣に立った。肩が触れるか触れないかの距離。
「話してくれて、嬉しい」
「……どうして」
「お前が、本当に俺のことを大事に思ってくれてるんだって伝わってくるから」
エルナの睫毛が、ふるりと揺れた。
「俺はな、エルナ。あの夜のことを、もう悲しいとは思っていない。むしろ、あれでよかったとすら思っている」
「……よかったの?」
「ああ。あの夜があったから、俺は魔王城に来た。そして今こうして、お前と夕焼けを見ている。あの日、もしお前が俺を追いかけてきていたら、俺はきっと『大丈夫だから戻れ』って言って、お前をリオンのもとに返していた。そして、俺一人でどこかの町に消えて、傷を癒やせないまま、人を癒やせないまま、ずっと雨の中を歩き続けていたかもしれない」
「でも……」
「それに、お前はあの夜、確かに俺を見ていた。俺の後ろ姿を見ていたんだろ。それだけで俺は救われてたんだよ。本当だ」
ユアンは、エルナの手から書類の束を取り上げ、東屋のベンチに置いた。それから、彼女の冷たい手をそっと握る。
「エルナ。過去を忘れろとは言わない。あの夜のことは、お前の一部だ。でも、これから先の時間は、もっと長い。俺とお前で、何をしていくか。それをもっと考えたい」
「ユアン……」
「俺は、回復しかできない男だ。でも、それでも、この世界の傷を少しずつでも癒やしていきたい。医療区画を大きくして、人間も魔族も、獣人もエルフも、誰もが『助けて』って言える場所を作る。そのために、エルナの力がいる。氷魔法も、知識も、そして何より、人の痛みがわかるその心が」
「……心が、私にそんなものあるの」
「あるよ。今、こうして泣きそうになってるじゃないか。人の痛みを自分のこととして痛がれるやつは、ヒーラーに向いている。俺はそう思う」
エルナは下を向いたまま、こみ上げるものを必死に抑えていた。けれど、その手はユアンの手を強く握り返している。
「……私、あなたの隣で、ちゃんと戦えているかな」
「ああ。毎日、隣で支えられてる。ありがとう、エルナ」
「それ、こっちのセリフ。――ありがとう、ユアン。私、もっと、もっと強くなる。あなたと一緒に、世界を癒やしていくんだ」
「ああ。それじゃあ、これからもよろしく、相棒」
「……相棒」
エルナの口元が、ようやくほぐれた。夕日に照らされた彼女の横顔は、これまでで一番穏やかだった。
「あれ、相棒って。……ちょっと待って、私、相棒なの?フィアに『あたしこそ相棒にゃ!』って怒られるわよ」
「じゃあ、魔法医療顧問どの、で」
「なにそれ、やだ」
「じゃあ、エルナ」
「……最初からそう呼んでるじゃない」
「そうだな」
二人は笑った。中庭の東屋で、夕暮れの空の下で。
「――でも、本当に、これからだよな」
ユアンは、工事の進む医療区画の向こう、地平線の彼方を見やった。
「魔王城の勢いは増し続けている。各地の王国も、教会の残党も、まだ何が起こるかわからない。でも、俺たちが道を示せば、世界はもっと良くなるはずだ」
「ええ。あなたが選んだ道なら、私はどこまでもついていくわ」
「俺は選んでないよ。みんなで選んだ道だ。リリス様も、ベリルも、フィアも、ルーチェも、テオバルトさんも、バルザックも、ゼクスも、そしてお前も」
「そう。みんなで、選んだのね」
「ああ。だからきっと、何が来ても大丈夫だ。俺には回復しかできない。でも、隣には氷の魔導師がいて、聖女見習いがいて、猫耳のスパイがいて、魔王がいて、勇者がいて、料理長がいて、無口な騎士がいる。これで何ができないって言うんだ」
「……最強ね」
「ああ、最強だ」
夕日が沈み、空の色が深い藍色に変わり始める。やがて、二人がいる東屋の上に、最初の星がひとつ、静かに輝いた。
「そろそろ戻らないか。ルーチェが『またせました!夜の研究があります!』って張り切ってる頃だ」
「そうね。……ユアン」
「ん?」
「ありがとう。私、やっぱり、あなたに会えてよかった」
エルナの声は、少し照れくさそうで、少しだけ、甘かった。
「俺もだよ」
ユアンは答え、彼女の手をゆっくり離した。名残惜しさを、星が静かに見届けている。離した手の温もりを、彼はまだ自分の指先に感じていた。それを振り払うように笑い、歩き出す。
「行こう、エルナ」
「うん」
回廊へと続く道を、二人は歩く。肩を並べて、時々どちらかが先に笑い、時々どちらかが空を見上げる。
あの雨の夜、別々の道を歩いた二人は、今、同じ道を歩いている。それが、何よりの答えだった。
そして、魔王城の窓々に灯りがともりはじめる。新しい時代の物語は、まだ始まったばかりだ。
――世界を癒やす者と、その仲間たちの旅路は、これからもずっと続いていく。




